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写真やや右に見える東京ドームに似た建物が、バンクーバー五輪の開会式、ならびに閉会式に使用される、BCプレース・スタジアムである。 室内で開催されるオリンピックの開閉会式は史上初とのこと。暖房の効いた雪のないインドアで、冬装備の各国の代表が汗だくで見守る中、聖火に火を灯すのが見所らしい。 1986年に催されたバンクーバー・エキスポの準備の一部として83年に完成した。それ以降、カナダ・フットボールリーグ(NFLより歴史が古い)に所属するBCライオンズのホームグラウンドとして使用されてきたが、正式にオープンしたのは前述したエキスポ86となっている。カナダでは形式上の長であるエリザベス女王が招待され、当時まだ結婚していたチャールズ皇太子とダイアナ妃のスピーチによりこけらが落とされた。 東京ドームに先立つこと5年、6万人以上を収用できる、空気膜構造屋根のドームとしては世界最大(カナダにも世界一があったのですね)を誇っている。 以下は余談。 いや、と筆者は言う。ともすればここからが本題かもしれない。人生記すに値するは過程であり、志の描いた夢、その振幅の軌跡であると筆者は思う。もともと、この書庫の題である『五輪の書』とは宮本武蔵が書き残した書物であり、それは地の巻、水の巻、火の巻、風の巻、空の巻という五部から成り立つ晩年の集大成である。とりもなおさず、それは生きた宮本武蔵の記した地図に他ならない。 【地の巻】まっすぐな道を地面に書く。 BCプレースの外には小さなゲートが作られている。そこにはテリー・フォックスという若者の走ったカナダの地図が記され、義足をつけた彼の肖像が刻まれている。 《テリー・フォックスが世界と分かち合った、絶えることなき希望を祝して》 テリー・フォックスは1958年カナダのマニトバ州で生まれた。体こそ大きくなかったが、負けることが何より嫌いで、勝つためには人の何倍もの努力を惜しまなかった。BC州のポート・コキットラム市(mini van page 9参照)に移ってからも、バスケットボールに打ち込み、中学では最高のガードとまで言われるようになる。その後、彼の尊敬する体育教師の勧めもありクロスカントリーを始め、その後、生涯、彼は走り続けることとなった。 1977年、骨肉腫(骨の癌)により、彼は右足の膝から下を切断される。順調だった彼の人生に、悪夢のような転機がこのとき突然襲ってくる。絶望の日々。しかし脚を切断する前日、恩師であるバスケットボールのコーチが一冊の雑誌を彼に見せる。そこには義足をつけニューヨーク・マラソンを走ったランナーの記事が書かれてあった。2年半後、テリー・フォックスは新たな挑戦に挑む決心をする。 それはある意味、途方もない計画だった。義足をつけてカナダを横断。マラソン・オブ・ホープと名付けられたその挑戦は東から西へ、癌撲滅の基金を募るために、毎日42キロを走るというものだった。 カナダ癌協会宛の手紙で、彼は協力をこのように訴えている。 『たとえ最後の1マイルを這うことになってでも、走ることなら毎日、僕はやり遂げられます。ただ一人では乗り越えられない壁があるのです。僕達にはあなた達の助けが必要なのです。世界中の癌病棟の患者が、奇跡を信じられるようになるために。うわごとを言っているわけでも、ましてこのことですぐに癌が完治できるようになると夢見ているわけではありません。ただ奇跡を信じたいのです。先ずは僕が、そう信じなければならない』 テリー・フォックスの志はインペリアル石油、フォード、アディダス、その他をスポンサーとして呼び込み、1980年4月12日。彼の途方もない挑戦はようやく現実となる。 BCプレース前の、テリー・フォックスを称えるゲート。 順調に見えた彼の挑戦。 行く先々で、彼は大勢の人々に迎えられるようになっていく。しかし、 走り始めて143日後の1980年9月1日。癌が肺に転移していることが判明し、オンタリオ州、サンダーベイの北西で、テリー・フォックスはドクターストップを勧告される。それは実に5373キロ(143日間で1日平均42キロ)を走った地点でだった。 1981年6月28日死去。 カナダの国民的ヒーロー、唯一(筆者はそう思う)誇りであるテリー・フォックスの志は生き続け、今も走り続けられている。幼稚園からずっと、カナダではテリー・フォックス・ランという行事があり、彼の残した希望を絶やさないように、消さないように、今も地を駆けている。 広大な地面に、太く、まっすぐ道を記そう。 |
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Minolta HI-MATIC 7S ブラックモデル。 これは1966年に発売した銀色の7Sを黒く塗装しただけもので、何と発売は1971年。輸出専用機とは言え、その間が5年だなんて、ミノルタはいったい何をしとったんじゃい、と言いたくなる。 5年だよ。バカにしないでよ。海外だからって、なめられちゃあ黙っていられねえ。だいたい日本のカメラ業界はどうして輸出専用機として、わざわざ機能を省いた安物をつくることが多いのかいつも疑問に思っていた。よく日本のユーザーの目はシビアだからとか何とか言って言い訳しているけど、本当にそうなのか? もちろん海外にそういう需要があってのことだろうが、5年前に発売したものを、色を塗り替えただけで新製品のごとく販売するのは、少々インチキ臭くないか?(そう言いながら、買いました) 5年の間にはいろんなことが起こる。 5年経てば、いろんなことが変わる。 特に1966年から1971年の間はロック界において激動の5年だった。 ジム・モリソン(ドアーズ)、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンらがデビューし(1967年)、その絶頂で死んでいった。(70年から71年にかけて、皆、享年27歳だった) これだけでも世界は大きく変わったと言えないだろうか? ロックとともに見る1971年。 1月 ジャニス・ジョプリン遺作『パール』発表 4月 ドアーズ『LAウーマン』発表 4月3日 『仮面ライダー』放映開始 7月3日 ジム・モリソン、パリのアパートで死亡 7月20日 マクドナルド日本一号店銀座にオープン 8月1日 ジョージ・ハリソン主催『バングラディシュ難民救済コンサート』 9月 日清『カップヌードル』発売 10月 ジョン・レノン『イマジン』発表 4月に『仮面ライダー』が始まってから、日本は変身ブームになったらしい。だから1971年のキーワードは『変身』。こじつけっぽいが、カップヌードルだって一種の変身、マクドナルドはきっと日本の食文化を大きく変えただろう。それに、死とは究極の変身である。 ジャニス・ジョプリンは1970年10月4日に死亡した。彼女の天才はモンタレー・ポップ・フェスティバルで見いだされるものの、なかなか理想のバンドに巡り会えないまま、ライブをこなしていく日々が続く。ようやく結成したベストバンド、フル・ティルト・ブギーのメンバーと『パール』を録音中に急死。『パール』は遺作として死後に発表され、全米チャートを独走。ロック界初とも言える、本格派女性ロックボーカリスト。もったいないくらいの生粋のロックンローラー。ちなみに『パール』は生前の彼女の愛称だった。惚れたよパール。あんたの歌に。 きっとジャニスはずっと長い間土の中で眠っていたんだと思う。幼虫のように。仲間内で孤立しがちだった彼女は好きだった音楽、フォークやブルースの温かいスピリットの奥に潜って自らを守り、貪ることで自らを成長させていったのだと思う。そしてある時、陽のあたる場所へ出て、上へ登って、なりふり構わずあらゆるものを受け入れた。降り掛かるもの、目の前に塞がるもの、それらすべてを。これがロックなのだ。もちろんそれは、ずっとずっと上へ行くために彼女にとって必要だったから。 『パール」を聴くと、ジャニスは飛び立ったのだという印象を受ける。聴いている間、サナギが蝶になる過程をきわどく目にしているような気分になる。ジャニスの変身。カフカの変身。ミノルタの変身。 さて、ミノルタの変身は、シャネルズのようにただの黒塗りだけだけど、このカメラ、何が驚いたかと言うと、その大きさ。全然コンパクトではない。僕はハイマチックと言えばコンパクトだと思い込んでいたけれど、届いてびっくり、ペンタックスMEより大きい。オリンパスXAの倍くらい。持ってまたびっくり、重さにしてXAの3倍以上。 クリスマスなのでほんの少しカラーにしました。全部カラーの方がきれいなのですが、なにぶんモノクロをメインとしていますので、ここまで、すんどめ。 ちなみに上に映っているのはオリンパスXA。こちらはてらっと飾りみたくツリーにぶら下げています。ハイマチック7Sでは、ぶら下げるなんてとても無理です。(ハイマチックはこの数字機種だけが大きいようで、ハイマチック7、9、11はどれも大柄) 大きさを気にしていないせいか、このカメラとてもよく写ります。もちろんレンズも明るくて大きい。まあ、それも当たり前と言えばそれまでですが、レンズの交換ができない、スプリットイメージのみの一眼レフ、と言えばわかりやすいかも。僕ならそれを聴いて、『ほー。でも、それって、どっこも取り柄になってないやん』って…… 悪口ではないんですが。 1971年マクドナルドが銀座にオープンした日。ハンバーガー1個80円。1万人以上の客が訪れた。ビール140円。かけそば100円。 同年9月に販売開始した、日清カップヌードルは100円でした。 So, this is Christmas. では、皆さん、Happy Xmas..... |

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可愛いプルーデンス 一緒に外であそばない? 生まれたての まっさらな一日を見てみない? 太陽は昇り 空は青く ちょうど 君のように美しく ねえプルーデンス そこから外に出ておいでよ すてきなプルーデンス 目を開けてごらん 輝いた とってもきれいな空が見えるよ 風は穏やか 鳥は歌うよ 君だってこの世界の一部なんだって 簡単なことさ プルーデンス その瞳を開くんだよ そして ぐるっと まわりを見渡してごらん 怖がらないで 君の微笑みを見せておくれ 小さな子供のように そこで怯えていないで 雲が繋がり 花の首飾り 君の笑顔を また見てみたい ねえプルーデンス もう一度 笑ってみせてよ 愛しいプルーデンス 一緒に外であそばない? 生まれたての まっさらな一日を見てみない? 太陽は昇り 空は青く ちょうど 君のように美しく ねえプルーデンス そこから外に出ておいでよ "Dear Prudence" The Beatles |
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Ladies and Gentlemen. お元気ですか? 以前、この『mini van』の書庫ページ6で、僕はメトロバンクーバーの中心を流れるフレイザー川を大和川に置き換えた。サーレー市を取り上げたときのことだ。もう一年も前になる。覚えていますか?サーレー市は、堺市でした。 その大和川の南側で、サーレー市の東側が今回の舞台。 お待たせいたしました。ラングレー市、およびそれを囲むラングレー郡です。 ダウンタウン・ラングレー(ラングレー市) Pentax PC35にて撮影。Ilford Delta100使用。 D76 1:1にて現像。 フレイザー川の南側の地形をよく見ると、ちょうど左を向いたゾウの頭に似ている。まだここで取り上げていないが(地区の皆様、お待たせしています)デルタ地区がゾウの鼻部分、サーレー市が顔、そしてこのラングレー郡がゾウの大きな耳に見えるのだ。本当に良く似ている。あなたイタリアが長靴に見えますよね。まあ、それと大体同じくらい…… BC州の中でも歴史は古く1827年にハドソン・ベイ会社が毛皮の貿易地点として開発し、1858年にはその川の上流で金が見つかり、ゴールドラッシュに集まる人々の宿場町として栄え、BC州の生誕地とまで宣言された由緒ある土地なのである。しかしゴールドラッシュが終り、ニュー・ウエストミンスターが州都に選ばれるとしだいに落ち目となり、ラングレーは、いつしか農業中心の田舎町となっていく。 で、当時、町の中心だったダウンタウンが街灯の設備の供給を訴えたのだが、ラングレー郡にはこれができず、逆にダウンタウンが郡から独立したような格好で、そこだけが市となり(人口密度などの条件)、未だにその周りの広大な土地は郡のままである。 ちょうど『耳』と『耳の穴』のような関係とでも言えば、あなたにわかってもらえるだろうか。 【OSAKA】 天王寺から歩道橋を渡ると阿倍野橋駅がある。阿倍野橋から僕達は近畿日本鉄道(通称きんてつ)の南大阪線に乗る。メトロバンクーバーの片田舎、ラングレー市を含むラングレー郡は、きんてつ南大阪線、道明寺線、長野線の沿線、いわゆる片田舎(じゃなかった)南河内地区に当てはまる。 (きんてつ道明寺駅から古市駅区間)ラングレー市。 Pentax PC35にて撮影。Ilford Delta100使用。 D76 1:1にて現像。 慶長20年(1615年)5月6日。後藤又兵衛率いる豊臣軍先鋒は小松山に登り、陣を整える。大阪夏の陣。対するは、江戸幕府軍。この日は濃霧のため真田幸村率いる後隊の到着が著しく遅れ、孤軍奮闘の又兵衛らは遂に伊達政宗らに小松山を包囲されてしまう。激しい銃撃戦の末、後藤又兵衛は腰を撃たれ歩行不能となり自刃。遅れて到着した真田幸村が激戦の末、伊達軍を押し込むも、大阪城からの退却命令により、退却。真田軍は殿軍(しんがり)を務めた。 道明寺の戦い。 この激戦地となった小松山、道明寺付近。先述した藤井寺市道明寺駅から又兵衛の墓のある柏原市、羽曳野市古市駅辺りが、ラングレー郡の中に位置するラングレー市に相当する。 近年、ラングレーにはぶどう農家が増え、ワイン作地として有名になりつつある。大阪府柏原市、羽曳野市も然り。ワイン農家が増え、醸造所ができ、『河内ワイン』等で少しずつ有名になりつつある。この符号を『こじつけ』と呼ぶか『偶然』と呼ぶか、はたまた『mini van』の『キセキ』と呼ぶかはあなた次第。 あなた次第で、明日が今日よりも好きになれるかも…… それでは、特別大サービス。 ゾウの耳の穴(赤い部分) |
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PENTAX PC35 AF どこか具合の悪い僕のオートロンである。どこが悪いのかわからない。悪くないときもある。ネガを横にして見た時、いくつかのフレームで、左から3分の1辺りで露出が変わっている。そこを境目にはっきりと露出が一段、もしくはそれ以上異なっている。横位置の風景ならさほど目立たないが、縦位置のポートレートなんかだと、眉毛の上と下できっちり線を引いたように露出がズレている。まあ、これはちょっと笑える。でも、幕切れというようなシャッター幕など、このカメラにないのに、どうしてこうなるの? 誰かわかる人いますか? 1982年発売。 ニックネームは先述した通り『オートロン』。もちろん僕がつけたわけでなく、ペンタックスがこんな愛称を付けて世に送り出した。これは初代だから、初代ウルトラマン、じゃなくて初代オートロン。同じ年にキヤノンが発売した完全自動化カメラの最初の名前がキヤノン・スナッピイ50。はい、オートロン対スナッピイ。どっちが勝つのか、ゴジラ対ガメラ。 いつものように、ロック史とともに見る1982年… なんだけど、この年は月日のはっきりしていないものが多い。ごめんね。 4月 1日 500円硬貨発行 5月 ロキシー・ミュージック『アヴァロン』発表 ブルース・スプリングスティーン『ネブラスカ』発表 9月 ザ・フー解散 イーグルス解散 ドゥービー・ブラザーズ解散 10月 1日 ソニーが世界初のCDプレーヤーを発売 10月 4日 『笑っていいとも』放送開始 NECがPC9801を発売 12月 1日 マイケル・ジャクソン『スリラー』発表 この年は大物バンドの解散が続き、ロックとは言い切れないようなポップスが主流となった。カルチャー・クラブのデビュー。TOTO IV 『聖なる剣』のグラミー6部門。クインシー・ジョーンズ、それに故マイケル・ジャクソン。 初代オートロンには4つの特徴がある。 1:コンパクト、2:オートフォーカス、3:オートストロボ、4:ワンタッチオープン。それで、広告のキャッチフレーズが『カタテ、カンタン、キモチイイ』いやいや、どうも、キモチイイってのがねえ…片手でナニをしてるのを見られたようで、恥ずかしいんだけどさーって。この広告の写真がまた凄いんだよ。 体操選手のような体格をした若いブロンドの白人男性が、白のパンツ一丁でオートロンのシャッターに指を掛け、片手腕立て伏せをしている写真。 カタテ、カンタン、キモチイイ ということで、1982年のキーワードはカタテ(片手)。 ポケットからひょいとだせる500円玉もそうだけど、CD(コンパクトディスク)はそれ以前の音楽の方向(時間の流れ)をがらっと変えてしまった。それまでのレコード時代、僕達はレコード屋でLPレコードを買って、家で聴くだけではもの足らず、外にカセットとして持ち出せるように46分か54分のカセットテープを買って、A面からスプレーをかけて埃を拭って、ターンテーブルにうやうやしく載せて、耳を澄ませ、心を鎮めてゆっくりと、針を回転するレコードの溝の上にのせるのが儀式であったのだ。 なのにCDプレーヤーは、ワンタッチでトレーがオープンし、オートローディング、片手でカンタンに、聴くところまでこなすことができる。それにA面もB面もなく74分まで一気に鑑賞できる。まさに、エッチ、スケッチ、ワンタッチなのだ。 この頃、正直言って僕はCDに反対だった。いずれレコードの時代に戻るなんて本当に信じていた。こんなものを今までのミュージシャンが許すだろうか。LPレコードは短編小説のように時間に沿って流れるもので、尊敬するミュージシャンに対しては決して飛ばしてはならず、そのストーリーを順番に追っていくのが正しい聞き方なのだ。『ベガーズ・バンケット』のB面はストリート・ファイティングマンから始まらなければならないし、『ジョンの魂』のA面の最後の曲は孤独(アイソレーション)でなければならない。だが、テクノロジーの進歩とレコード会社はいつでも殊勝なミュージシャン達よりずっと強い。今どき音楽は曲ごとのダウンロードだもの。レコード大賞なんて言葉も死後。その場だけ、ぱあっと売れりゃあいいんだよって、なんやと、コラ、アホかおまえら。 怒っていても、僕は話を戻す。 僕は以前の記事で、マイケル・ジャクソンはロックではないと書いた。その考えは基本的に今も同じだ。これは僕の性格のねじれかもしれない。黒人音楽に関して、僕はロックだと思っている。オーティス・レディングだってジョン・リー・フッカーだって僕はロックの歴史を支えてきた人達だと思い慕っている。彼らはリアルだ。そういう意味では、レゲエのボブ・マーリィーだって、ジョー・ストラマーみたいにロックである。言わばここに一つの指針がある。ロック=ライフ。音は人間が弾くもの。だからそれがショーであればあるほどロックから遠ざかってしまう。 ならMJはどうか。 今になって、彼の死後にこんなことを言うと、とても後ろめたい気がするが、彼が死んでいろいろなことで取り上げられるたびに、想い出したり気づいたりしたことがたくさんあった。それを一つ一つ書くのはとても時間がかかるし難しい。ただ、二点だけこの場で取り上げるなら、一つは僕がバイブルのようにしている一冊の本がある。それは僕が高校生の頃、親友がくれたもので、ロックの名盤がアーティストごとにコメント付きで書かれている。僕は本当にこの本から多くを学んだ。そして、ここにはマイケル・ジャクソンの欄が堂々とある。編集長は知る人ぞ知る鳥井賀句氏。 もう一つは彼の書いた『ビリー・ジーン』がまぎれもない名曲であるということ。これは『スリラー』のB面の2曲め。A面は主題曲でもある『スリラー』で終り、B面はロックギターのノリのいい『ビート・イット』で始まる。もちろんこの構成は正しい。それにして見事なのはこの後に続くのが『ビリー・ジーン』だということだ。B面の2曲めはアルバムの重要な位置を占めることが多い。例を挙げれば『ジョンの魂』のラヴ、『イマジン』のオー・マイ・ラヴ、『アビイ・ロード』のビコーズ。 以上を持って、マイケルをこの度晴れてロックの仲間に入れようと思う。 おのおのがた、異存はあるまいな? ちなみに皆さんの記憶にもあると思いますが、マイケルはその頃から片手(カタテ)にだけ白いピカピカの手袋をはめるようになりました。いろいろと憶測はあるものの、なぜなのかは今でも不明です。もちろんどこか具合の悪い僕のオートロンとマイケルの関係も。 ちなみに『ビリー・ジーン』は今やロックのカリスマとなりつつあるクリス・コーネルもカバーしています。このバージョンがまた素晴らしい。一度聴いてみる価値あり。 オートロン。ヤフーで検索すると、必ず『オートローン』ではありませんか?とでてきますが、なかなかシャープに写ります。35mm F2.8。小さなレンズですが5群5枚。ペンタックス特有の紫のコーティングが本当に美しい、今となっては安いカメラです。カタテ、カンタン、キモチイイ、はわかりますが、あの広告はどうなんでしょう。状況を説明するのに片手腕立て伏せ? 僕にはカメラの凄さより、片手で腕立てをしながら写真を撮るお兄さんの方が凄く思えたりします。 ふーっ。今回もやっと、終わった……長くなりました……
ありがとう。 |


