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昼間 抑えていた不安が 夜になると広がっていく ちょうど暗闇が辺りを 少しずつ支配していくように 恐怖が 小さな やわらかな心に ぽつぽつと降りはじめ やがて あふれて 彼女は 押し流されそうになる できるだけ 自然を装い 窓の向こうの 空を見上げる 悲惨なニュースが流れると 下を向いて 耳をふさぐ 僕は そんな彼女を なすこともなく 見つめている それはこの世界で僕に 断言できることが何もないからだ 正しく 強く 恐れは脈打ち 生きている 犬が吠え 魚が跳ね 鳥が激しく羽ばたくように 私が眠るまで 起きて 何かを していて欲しいの うるさくも静かでもなく ごく日常的なこと その音 その音を聞きながら 彼女はようやく眠りにつく ずっと遠くで 誰かが誰かに話しかける 声がする 家の中の 電球を一つだけ灯して 僕は待っている 扉の錠を開くように 僕はゆっくりと ダイアルを回す |
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もう、ずいぶん前のことになるけれど、僕達は梅田の地下街で寄り道をした。地下鉄谷町線の東梅田で降り、御堂筋線梅田駅まで行く途中、僕達は阪神百貨店でイカ焼きを買い、阪神電車のホームに続く階段に座り、焼きたてのデラパンを食べた。想い出してくれただろうか? 僕はほんの二枚、君はなんと三枚も食べたよね。 もちろん僕が誘ったのだから、いや、何枚食おうと勝手なのだから、それはいい。大切なのは今回、僕達はこのまま階段を下りて阪神電車に乗ることなのだ。 「いいよ、僕が切符を買ってくるから、君はここで待っていて」 行き先を君に伝えずに、僕は野球観戦、いや、ストレス発散にいく、すでにハイテンションなタイガースファンをかき分け、ぱっとしない電鉄会社のぱっとしない券売機の前に立つ。しかし、何としたことか、君を待たせておいた果実ジューススタンドの前まできて、僕は小銭を使い果たしたことに気がつく。ここの果実ジュースが飲みたかったのに……。ミックスジュースの、ピンクがかった淡いオレンジ色が、ミキサーの中で渦を巻いている。君はいいやつだな、と僕は思い、そう信じる。君は、本当にいいやつだ。 ほどよい甘さとはどういうものか、僕達はそれを改めて確認しながら、人ごみを見つめている。阪神電鉄梅田駅では、景気よく『六甲おろし』が流れている。ついつい歌っていたところを君に見られ、僕は途中で歌を止める。フレー、フレ、フレ、フレーの二番目のフのところ。やばい、ちょっと調子に乗りすぎていたかも。で、さあ、応援の『フレー』ってさあ、いったいどういう意味なの? 僕達はいつものごとく各駅停車に乗り、窓の外を眺めながら将棋の歩(フ)のように進んでいく。野田を過ぎ、尼崎を過ぎ、武庫川、甲子園を過ぎ、西宮、さらに芦屋を過ぎる。ニュー・ウェストミンスター市の北西、その方角に、ツートーンカラーのぱっとしない阪神電車がゴトゴト走っている。行き先は、懐かしの三宮。僕達はよくアルバイトで貯めたお金を握りしめて、三宮まで行ったのだ。 バンクーバー市、ダウンタウン編。 Konica Auto S3で撮影。Kodak T-Max 400使用。 d76 1:1にて現像。 左側に写っているドームがBCプレーススタジアム。2010年、冬季オリンピックの開会式、および閉会式に使用される建物。古いドームである。(オリンピックの開会式、および閉会式が室内って変だよね。バンクーバー・オリンピック……大丈夫かなあ?) ダウンタウン・バンクーバーは阪神電鉄本線三宮駅から元町、そこから神戸高速鉄道東西線で、新開地駅までの範囲である。いわゆる神戸ダウンタウンが、いわゆるバンクーバー・ダウンタウンに当てはまる。 こうべえー、泣いてどうなるのかあー。 二十年前、僕達は三宮駅で下車し、いつも高架下のアメリカ輸入衣料品店を物色して歩いた。アヴィレックスやショットの革ジャン。LLビーンのフィールドコート。リーバイスの501。リーのライダースジャケット。マックレガーのスタジャン。ジッポ、レイバン。レッドウィングのアイリッシュセッター。 当時アメカジに憧れていた僕達は給料をもらうと決まって三宮に行きそれらを買い、大阪に帰った。この頃はまだミナミのアメリカ村より三宮の方が品数や店舗で勝っていたのだと思う。いわゆる専門店的な店が多かった。ジッポの店。革ジャンの店等々。今から思うと、とても高価な買い物だった。もちろん、今でもまだ持っているものだってあるけれど。 神戸。 1995年1月17日の朝のことを僕は今でもよく覚えている。午前5時46分。僕は何故かその数分前(たぶん一分か二分だと思う)に目が覚めた。ふだんの僕にはあり得ないことで、自分でも変に思って窓の外を見た。冬の朝、まだ早朝なのに、ずいぶん明るいなと感じた。その直後、どすんと体が真下に落ちた。僕はとっさに爆弾だと思った。どこかからミサイルでも打ち込まれたのだと思い、畜生、やられたと反射的に思った。日本の主要都市が破壊される光景が目に浮かび、その後、横に大きく揺れ始めてようやく地震だと認識した。それでもまだ関西が震源地だとは想像もせず、揺れている間も日本列島が総崩れになっているような気がして、絶望的な気持ちになった。 当時、僕は大阪府吹田市江坂町三丁目に、彼女と猫と一緒に住んでいた。 記憶は事実と反しているかも知れない。けれどこれが、僕があの日の朝、揺れている数十秒間に感じたことである。 6443人が死んだ。 その後ほどなくして、僕は日本を離れた。だから地震の後の神戸、三宮には行っていない。ただ、日本を発つ前に、芦屋には一度だけ訪れた。地震の半年前まで彼女が住んでいた場所を僕は一人で見に行った。僕には景色が歪んで見えた。彼女の住んでいた場所はなくなっていて、二人で歩いた堤防沿いの空き地には、まだテント式の仮設住宅が建ち並んでいた。 一枚目の写真は、ここの展望台(円盤のある塔)から撮影したもの。 Olympus XAにて撮影。Kodak T-Max 400使用。 d76 1:1にて現像。 バンクーバー市は横浜と姉妹都市である。だから、神戸の従姉妹(いとこ)にあたる。ちなみに神戸市はアメリカのシアトルと姉妹都市で、規模的にはシアトル横浜、バンクーバー神戸の方がお似合いで、釣り合いが取れる。神戸にも中華街(南京町)があり、バンクーバーにも小汚いチャイナタウンがある。三宮、元町周辺はロブソン通り。新開地はどことなくヘイスティング・ストリートの寂れた感じに似ている。 とどのつまり、僕達は新開地の商店街でワンカップ大関を買い、日の暮れた公園のベンチに座りそれを飲み干す。君は安物の酒があまり好きでなく、半分ほどで嫌になり、結局は僕がその残りを、そんなん、めっちゃもったいないから、しょうがないから、飲むことになる。やっぱり、君はいいやつだと僕は思う。 ここまで来ると、ぜんぜんアメカジではなく、ただの酔っぱらいだけれども。 震災の直後、仰木彬監督率いるオリックス・ブルーウェーブは、イチローを中心にペナントレースを争い、リーグ優勝を果たす。これが神戸の人々を勇気づけたことは言うまでもない。僕には、何もできなかった。ただ、記録として書いたものが少しある。今後機会があれば、それを載せようかと思う。 神戸は見事に復興した。空港まで作ってしまった。 だから、最後まで歌わせて欲しい。 フレー、フレ、フレ、フレー。
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時々こんなことがある。 深夜、ワインを飲みながらebayを覗いていると、ずっと前から心の隅でほんのりと気になっていた彼女、いや、カメラが目の前をふっと通り過ぎる。どうせ高嶺の花だとか、とんでもなく遠い所の話だと諦めながらも、追いかけてよく見ると、それがわりと近所で、まだ誰にも声をかけられていなかったりする。ずっと昔の美少女……憧れの朝倉南。どうせ自分には縁がないと思っていた彼女、いや、カメラが、そんな夜には自分の声に振り向いてくれそうな気がして、僕は叫ぶ。先の見えない暗闇に向かって、消え入りそうな自分の存在を確認するかのように、僕はキーボードを叩く。極めてebay的に、あさくらみなみをebay標準語のUSドルに変換する。 明け方、傷ついたKonica Auto S3は僕のもとにやってきた。 (Konica Auto S3、日本での名は、Konica C35 FD) 1973年。 1月 ブルース・スプリングステーンが『アズベリーパークからの挨拶』でデビュー。 3月 ピンク・フロイド『狂気』発表。 レッド・ツェッペリン『聖なる館』発表 5月 マイク・オールドフィールド『チューブラー・ベルズ』発表 7月13日 クイーンが『戦慄の王女』でデビュー 10月6日 第四次中東戦争勃発。 オイルショックでトイレットペーパーや洗剤の買い占めが起こる 11月 ウィングス『バンド・オン・ザ・ラン』発表。 ザ・フー『四重人格』発表。 コニカという会社はカメラに愛称を付けるのが好きらしい。コニカC35シリーズは基本的に『じゃ〜に〜コニカ』初心者向けが『気楽なじゃ〜に〜』、これに内蔵ストロボのついたのが『ぴっかりコニカ』時代が進んでオートフォーカス機能がつくと『じゃすぴんコニカ』 中でも、C35シリーズの最高機種である、かつての美少女、永遠の姫である僕のAuto S3嬢は、その性能の高さを誇り『すご腕じゃ〜に〜』と呼ばれている。 シャッター速度優先EE。バルブ、1/8秒から1/500秒。距離計連動。フラッシュマチック機構。当時としては画期的な日中シンクロ機構。レンズはヘキサノン38㎜1.8。絞り羽だって一眼レフなみの六角形。当時の最先端を凝縮した、まさにコンパクトカメラの女王。 クイーン。 デビュー当時、クイーンはあまりいい評価をされなかった。フレディー・マーキュリー曰く、録音は一年前に済ませてあり、レコード会社が発表した時点ではすでに時代遅れになっていた、と言う。それで、クイーン?鵺に続きブレイクするわけだが、当時、本国で酷評されたデビューアルバムだって、今聴いてもそんなに古臭い感じを僕は受けない。当時の最先端の詰め合わせと言えば、悪く聞こえるかも知れないが、いかにもブリティッシュロックという気品を随所に見せる、若くても懐の深さを予感させる好アルバムである。 ピンク・フロイド的なプログレッシグ・ロックの色。 レッド・ツェッペリンのハードロックなグルーブ。 ザ・フーのロック・オペラの要素。 ウィングスのメドレー形式と英国的な格調あるハーモニー。 オールドフィールドのオカルトのサントラにどこか通じるステージ・パフォーマンス。 1973年にクイーンは生まれ、1991年11月24日、世界的なカリスマ・ボーカリストであるフレディー・マーキュリーはこの世を去った。 以後もクイーンは解散することなく、ブライアン・メイとロジャー・テイラーがクイーン名義で活動を続けている。 God save the Queen 傷だらけのローラ、いや、Konica Auto S3は今、僕の鞄の中でぐっすり眠っている。僕は彼女を、いや、カメラを、そっとしている。できるだけ、がさごそしないよう気をつけて、充分の休養が取れるように案じている。それがかつての女王に対する、最低限の礼儀だと僕は思っている。もちろん、来たるべき時には写真を撮ってもらう。それまで、僕はじっと想像している。僕は傷口にそっと触れる。気づかれないよう、傷口にほんの軽くキスをする。そして、かつての美しかった姿を想い出そうとしている。 時々こんなことがある。 じゃ〜に〜。
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スクラップ置場 日曜日の朝なのに、スクラップ置場には警備の老人がいた。ちょうど路地が途切れた所で、彼は椅子を出して座っていた。僕は手前で車を止め、車から降りて警備員にカメラを見せた。 写真を撮るのは構わない、と彼は言った。驚いてはいたが、しだいに自分の警備しているスクラップ置場が写真に撮られるのは、まんざらでもないという様子になった。老人は椅子から立ち上がり、シャッターを切っている僕に近づいてきた。 スクラップ置場は、いつも通るハイウェイから見えた。日によって積み方が変わり、一番上の車の形や色が違った。うんと山が小さくなっている日があったり、時にはいっそう高くなったりした。毎朝それらを目にしていると、それらはその日の隠されたメッセージのようにさえ思われてきた。 僕はいつしか、それらを写真に納めなければならないと思うようになった。 撮影日を日曜にしたのには理由がある。先ず、そこは休業のはずだから、誰もいないだろうという推測。それと別れた妻のところへ、娘を迎えにいくのが昼過ぎだという時間的な理由。 どうして日曜日なのにここに居るんだ? 僕は近づいてきた警備員に尋ねた。 そりゃあ、悪い奴らがたくさんいるからさ、と、老人は当然のことのように答えた。悪い奴らには、日曜も何も関係ないんだよ。 よく晴れた日曜日の朝。家族がパジャマのままキッチンに集まって、少し遅い、いつもよりたっぷりとした朝食をとる光景。卵を焼いたいい匂い。香ばしいかりかりのトースト。よく熟れたトマト。室温で柔らかくなったバター。しゃきっとしたレタス。 ファインダーには廃車の山と、積まれたスクラップの固まりが映っている。僕はそれらにピントを合わせ、シャッターを切っている。隣には警備の老人がいて、嬉しそうに僕を見ている。今日の一番上の車は、白のトヨタ。その下に黄色のクライスラー。赤のムスタング。緑色のシボレー。 日曜日の朝のスクラップ置場。 何も悪いことの起こりそうにない平和な時間。そこで、束の間に僕は写真を撮り、これまでもこれからも老人はその場所を悪い奴らから守っている。問題はいつも山積みだ。そしてもちろん、それらは解決されない。いつまでも可能な限り、下から上へと積み重ねられていく。 いつまでか? 積み上げたものはいつか崩れる。平和で幸せそうな日曜日の朝だって。 フィルムが終わり、それが巻き戻されると僕は老人に礼を言い、娘を迎えにいくために車に乗る。カメラを鞄にしまい、車をUターンさせてもと来た道に走らせる。バックミラーには警備員の顔が映っている。彼はまた椅子に腰掛け、僕をじっと見ている。視線が重なる。僕は急かされるようにアクセルを踏んだ。 今でも、ハイウェイからはスクラップ置場が見える。ただそれらはもう隠されたメッセージではない。老人が今日もそこにいるのだと、僕は感じる。心の奥で……。それは目に見えない大きな掌のようになって、廃車の山と、僕とを支えてくれている。 |
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今回のミニチュアバンクーバーでは、前回のコキットラム市の東隣にある(えてして、一部のようにも見える)、ポート・コキットラム市を紹介したい。 では、始めに、靴下を片方用意してもらおう。できれば洗濯した、スポーツ系の物がいい。それのつま先を左、地図的に言うと西に向けて置いてもらいたい。これで当然、踵は右側、つまり東側になる。そのカカトの部分がポート・コキットラム市である。もし、あなたが幸運にしてちょうど、踵の強化してあるスポーツソックスを持っていたら、これは一目瞭然である。他の部分はすべてコキットラムなのに、そこだけがやけに分厚い。 だから名前が違う。市も違う。アキレス腱から踵を巡って足の裏側の部分でピット川とフレーザー川が合流し、ちょうどカカトの部分が港(ポート)になるから、ポート・コキットラム市である。全然、イチブではないのだ。ちなみに足の甲の上には、ちょこんとポート・ム−ディー市(前述)が載っている。いいですか、皆さん。この三市をメトロ・バンクーバーでは総称して、トライ(3つの)・シティーと呼び、この足首を巡るくびれた場所が、今日の話の激戦地となるのです。 川と川の合流点。コキットラム市が京阪沿線……そうだ、肝心の写真を忘れていた。 ギャザリング・プレースのベランダから。Rollei XF35にて撮影。Kodak T-MAX 400 使用。D76 1:1で現像。 桂川、宇治川、木津川が合流して淀川に交わる所。位置的な特徴、日本史における分れ目。運命のもつれ、緊迫したくびれ、それらを考慮して、ポート・コキットラム市は京都府八幡市(やわたし)にふさわしい。ここは日本史の踵(きびす)である。 八幡市の対岸には大山崎町があり、ここには言わずと知れた天下分け目の天王山がある。かつては織田信長を討った明智光秀と西国(毛利)遠征から急遽戻った羽柴秀吉が争った土地であり、幕末の長州人(真木和泉、久坂玄瑞の一部隊)は身を焦がして潔白を訴えるため、尊王攘夷の大書をかざし、ここから京都になだれ込んだ。鳥羽伏見の戦いでは、伏見奉行所が炎上したため幕府軍が下ってきた場所でもある。 土方歳三が率いる新選組は、鳥羽伏見の戦で敗れ淀まで退いた。その光景を地図で追うと京阪本線がちょうど手相の運命線のように見えてくる。幕府歩兵隊、会津藩兵、新選組は伏見から淀まで退き、淀城で再建を計ろうとしたが、ちょうど新政府軍に掲げられた錦旗の旗の影響からか、淀藩主から入城を拒まれてしまう。この迎撃線で新選組古参、井上源三郎が死亡。その後幕府軍は後退を重ね、現、京阪本線、橋本駅の東、男山に布陣する。地の利では(賊軍となった)幕府軍に絶対の利があったものの、対岸の大山崎を守備していた津藩が新政府軍(官軍)に寝返り、これに動揺した幕府軍は総崩れし、土方の新選組は淀川を下り大阪城に逃れる。このときの戦いで、新撰組諸士調役兼監察、山崎烝が重傷。(後、紀州湾沖にて死亡) 嗚呼。勝てば官軍。負ければ、賊軍。 ここで、きびすを返す。 今の大阪、京都の地図を見ても、やはりこの地域は合流点と言う印象を受ける。山崎から八幡市、久御山町、城陽市、伏見区にかけては、各社の鉄道が入り組んで走っている。JR奈良線、近鉄京都線、京阪本線、JR東海道新幹線、JR東海道本線、阪急京都線、京阪宇治線。 さあて、ポート・コキットラム。 ここは最初、農業地として開発されるが、その後、カナダ太平洋鉄道が進出し、土地の多くを敷地とされ、複数の線路の交錯する場所となった。こじつけではない。不思議と、こういう点でも共通するのだ。これもやはり土地と歴史の妙なのか。でも全然、イカツクないのだ。一度訪れると、ここはきっと誰もが好きになれるような可愛いらしい街である。ポート・コキットラム市、略してポコちゃん。こじんまりと小奇麗に整頓されていて、全然気負った所もなく、あっという間にメインストリートが終わるような街。僕はそんな所が好きだ。もちろん、大阪の眠らないネオンサインも大好きだけれど…… そうそう、写真がメインだったよね。 ポコのメインストリート。おいしい焼きたてのパンを売っているパン屋の前から。 お姉さんやおばさんが、ハムとかチーズも切り売りしてくれる。 Rollei XF35にて撮影。Kodak T-MAX 400 使用。D76 1:1で現像。 そうです。ミニチュアバンクーバーは写真がメイン。忘れてはなりません。 では、サンドウィッチでも作りますか。
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