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カメラの書庫 今回はずんぐりした、PENTAX645。シャッター速度は1000分の1秒から15秒まで、中央重点測光、自動巻き上げ、そして、最大の特徴(とりえ)はブローニー・フィルムで、6x4.5センチの大きさの写真が撮れること。これは35ミリフィルムに比べて、約3倍のフィルム面積にあたる。つまり、より精細な写真が撮れるというか、まあ、デジタル的に説明するなら画素数、つまり情報量が3倍であると言うことだろうか。1984年発売。 それでは、半年ぶりの(!)ロック史とともに見る1984年。 1月24日 アップル・コンピュータ『マッキントッシュ』発表 ヴァン・ヘイレン『1984』発表 2月 ボン・ジョヴィ、デビュー 『Footloose』のサントラ発売。爆発的に売れる。 3月 江崎グリコ社長、何者かに誘拐される(グリコ、森永事件) スタイル・カウンシル『Cafe Bleu』発表 4月1日 マーヴィン・ゲイ、父親によって射殺される 6月 プリンス『Purple Rain』発表 ブルース・スプリングスティーン『Born in the USA』発表 8月 レッド・ホット・チリペッパーズ、デビュー 9月 デビッド・ボウイ『Tonight』発表 10月 ブライアン・アダムス『Reckless』発表 11月29日 バンド・エイド『Do they know it’s Christmas?』発売 久しぶりなので、いつもより多めに書きました。これも情報量の多さ。 ですから今回は、話せば長い物語。 1984年11月25日 午前9時 ロンドン 曇り この日、エチオピア飢饉のチャリティーとして、ボブ・ゲルドフ(ブームタウン・ラッツ)とミッジ・ユーロ(ウルトラヴォックス)が曲を作り、24時間だけSARMスタジオを無料で借り、当時イギリスで人気のあったミュージシャン達を集め、一枚の記念すべきレコードを作った。このバンド名をバンド・エイドと言い、この時録音した曲が『Do they know it’s Christmas?』である。 報道陣の群がる中に、続々とミュージシャン達がスタジオ入りしていく。デュラン・デュラン、スパンダー・バレエ、ポール・ヤング、(ボーイ・ジョージを除く)カルチャー・クラブ、ジョージ・マイケル(ワム!)、クール&ザ・ギャング(なぜ?)、スティング、ボノとアダム・クレイトン(U2)、フィル・コリンズ、ポール・ウェラー(スタイルカウンシル)、バナナラマ等々、ちなみにこの時、ボーイ・ジョージはニューヨークでまだ眠っており、ボブ・ゲルドフに電話で叩き起こされる。 ミッジとボブは、先ず集まったメンバー全員にコーラス部分を歌わせ、録音し、その後、一人ずつのボーカリストに一曲を通して歌わせている。これは誰がどのソロ・パートを歌うかを決める重要なテストであり、また歌う方にとっては自分の見せ場でもあった。皆が牽制し合う中、最初にマイクの前に立ったのは、スパンダー・バレエのイケメン、トニー・ハードリー(どこか宝塚的な感じのする)であった。この時歌った中で、最もボブに強く意外な印象を与えたのがボノである。まだこの頃のU2は、ポスト・パンクバンドの兄ちゃんくらいにしか認識しかされていなかったのだ。 ボブ・ゲルドフの作詞した『Do they know it’s Christmas?』の歌詞はこのように始まる。 クリスマスには 恐れるものは何もなく クリスマスには 光が溢れ 影が消える 私達の満ち足りた世界では 喜びの微笑みは広がり 手を取り合い肩を抱きかかえる 年に一度の 特別な日に しかし 祈ることがあるんだ 私達の知らない人達のために 幸せを楽しんでいる こんな時に 難しいけれど 窓の向こうに広がる世界には 恐れに震えている人達がいて そこを流れる水は ほんの頬をつたう苦い涙だけ クリスマスの鐘の音さえ 彼らには破滅の響きに聞こえるのだ そうさ 私達は今夜神に感謝する それが私達でなく 彼らであったことに この歌詞の最後の部分。ボブ・ゲルドフがどうしても入れたかった現実感、誰も言いたがらないが、不幸が自分のものでなく、他人であってよかったという本音の部分。ここをボノに歌わせようとボブは決める。一通りセッションの終わった後、それを知らないボノはボブ・ゲルドフに、あの部分だけは歌いたくないと告げる。それは当時まだ硬派な社会批判やロマンティックな宗教観をベースにして、静かに底から震えるようなロックをしていたU2にとっては相反する歌詞であったと思う。しかし。 「あのパートは君に歌ってもらおうと決めた」とボブは言った。「あそこを歌えるのは、君しかいないのだ」と。 結局、ボノはこれを受け入れ、髪型の可愛いスティングと、当時人気のあったサイモン・ル・ボン(デュラン・デュラン)との間に挟まれ、とても真摯に、祈るように歌っている。まさにこの部分が下品にならなかったのは、ボブ・ゲルドフが求めていた、ボノの人間的な深みのためだったと言えるのかもしれない。 ちなみに、1984年から20年後の2004年、今度はスーダン救済のために録音されたバンド・エイド20の『Do they know it’s Christmas?』にもボノは参加し、同じパートを歌っている。 ボノ曰く、「あのパートの歌い方は、あれからずっと気になっていた。あそこは本当はシャウトするべきではなかったんじゃないかって。だから今回もあそこを歌って、歌い方を変えようと思った。本当は、ささやくように歌うべきなんだって、わかったからさ」 よかったら、聞いてみてください。 「……」 あまり違わないと思うのですが。 それからも、プロデュースも担当しているミッジ・ユーロによって録音は続けられ、先ず最初のパートは、ポール・(every time you go away)ヤングが歌い、当時のスター達が、それぞれに割り当てられたパートを録音していく。 午後六時。ボブに電話で叩き起こされたボーイ・ジョージ(カルチャー・クラブ)がコンコルドでロンドンに到着し、SARMスタジオで録音をすませると、全ての予定が終了。後はボブ・ゲルドフとミッジ・ユーロでのミックス作業となり、それが終わるのが11月26日の午前8時。ボブ・ゲルドフは最後に声明を録音している。 「このレコードは1984年11月25日に録音された。現在、26日の午前8時。私達は24時間ここにいたことになる。さあ、家に帰ろう」 レコードは大急ぎでプレスされ、ビートルズの『サージェントペパーズ』を手がけたことで有名な、ピーター・ブレイクのジャケットを冠して、1984年11月29日に発売される。この記念すべきレコードは飛ぶように売れ、シングル・チャートでの売り上げ350万枚を記録。翌年のUSA・フォー・アフリカ、世界2大都市同時進行のライブ・エイドに発展し、いわゆるチャリティー・ブーム(そんなブームがあるとして)を巻き起こすことになる。この売り上げ枚数は1997年、ダイアナ妃を追悼したエルトン・ジョンの『Candle in the Wind』の売り上げ、500万枚まで、抜かれることはなかった。 もちろん過去にも、チャリティーの音楽活動はあった。でも一曲にこれだけのスターを一斉に集めて、一緒に歌わせて、映像を記録し編集し、MTVでPVを流して基金を集めたことは今までになかった。この一曲に詰められた情報量の多さ。 ちなみに、この映像はyoutubeで見られる。探していくと、メイキング・オブ的なものもあり興味深く、今回の書庫のネタもそれらを下敷きにしている。現在と比べてみるとよくわかると思うが、あのスタジオで真面目にチャリティーとして参加している人達だけが今でも一線で活躍している。ボノ、スティング、ポール・ウェラー等。それ以外の当時売れていたスター達は、パーティーみたいな感じで集まってきて、遊んでいるように見えてしまう。誰とは言わないが、メディアに対しても自分たちのことしか語らず、エチオピアの飢饉なんてすっかり忘れている。そうして彼らは消えていった。いや、細々と十両くらいで相撲を取っているのかもしれないが、それらはテレビでは映らない。彼らは時に本来の仕事とは関係なく、彼らの起こしたニュースで存在を確認されたりする。ありがちなパターン。いちいち、誰とは言わないが。 だから、何にでも真面目に取り組もうと言う話ではなく、忘れていました、PENTAX645。 このカメラ、ずんぐりして大きいので、今どきこれを首からかけて歩いていたりすると、それは何だと聞かれたりする。一昔前の、いや、もっと前のビデオカメラくらいの大きさはある。変な奴だと思われているのかもしれない。だからかどうか、このカメラを構えた時、一瞬まわりがしんとなる。 「……」 1984年11月26日 午前8時 ロンドン 曇り さあ、家に帰ろう。
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2010年09月26日
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