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螢 映池 写真集ブログ: 謹賀新年 2012年が良い一年となりますように

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miniature vancouver page8

お久しぶりです。お元気ですか。
今回はコキットラムという名前の市を取り上げたいと思います。

お入りください。ありがとう。

コキットラムという変な名前はもともと、このあたりの先住民が呼んでいた地名であるらしい。だからもちろん、ちゃんとした意味がある。
『魚くさい』というのがその意味らしい。きっとそうだったのだろう。今まで僕が取り上げたリッチモンドとかニュー・ウエストミンスターなんて英国気取りな、意味のない名前より、はっきり言って僕はこっちの方がずうっと好きだ。だから、今回は生々しく、力強く、マルセル・プルーストの小説のようにエレガントに始まる。

くさい臭い。

かつて僕は、ニュー・ウエストミンスター市のアップタウンを大阪ビジネスパークとし、ポート・ムーディー市を伏見とし、バーナビー市を地下鉄御堂筋線、梅田から千里中央とした。驚くなかれ。僕は、コキットラム市においても、これらの条件を全て満たすことができる。

ニュー・ウエストミンスター市の北、バーナビー市の東、ポート・ムーディー市を通り越し、ずっと北に広がるコキットラム市は、京阪本線およびその周辺に置き換えられる。いわゆる淀屋橋から京橋を通り、守口市、門真市、寝屋川市、枚方市、これより京都に入り八幡市、京都市伏見区、七条、三条に至る全本線が、あまりぱっとしない広大なコキットラム市にあてはまる。

嗚呼、京阪は僕の高校時代。そして、あなたの高校時代。

僕とあなた、そして僕達の親友のしんちゃんとが今、おそろしく空いた緑色の京阪電車の各駅停車(普通)に乗っている。僕達は関目駅から乗り、守口市を越えてあてもなく先を目指している。受験の下見がてら、カネはなくともヒマを持て余し、先の不安に少しおびえている。いずれ、僕達は離ればなれの道を進むのだ。僕達は当時まだ西日本限定だった明治製菓のカール、うすあじを一緒に食べている。麦わら帽子のカールおじさん。それにつけてもおやつはカール。僕達は萱島駅のホームを貫く、樹齢700年と言われるクスノキを見て、十八歳らしく感動する。

京阪電車は、寝屋川市を過ぎ、やがて枚方パークの前を過ぎる。ここは、日本で最も古い遊園地。遊園地って今更ながら素晴らしい字面である。よく調べてみると、かの有名な大菊人形はもう終わったそうだ。やっぱり時代の流れには勝てないのかな。僕の十八歳はもう二十二年も前のことなんだから。だから、ここに現れる京阪沿線は自然と二十二年前の風景になる。でもきっと、あんまり変わってないんだろうと僕は勝手に想像している。京阪沿線なんだもの……

カールのうすあじを唾液で柔らかく浸し、味わい、飲み込むようにして、僕達の各駅停車はゆっくりと進んでゆく。樟葉を過ぎ、石清水八幡宮のある八幡市を過ぎ、伏見稲荷を通り越し、伏見桃山駅にたどり着く。大阪ではない土地に至り、僕達はちょっとしたプチ旅行気分を味わったりしながら深草を過ぎ、七条、三条,と来て大阪へ折り返す。もちろん改札は出ない。そんな切符は最初から持っていない。ヒマな僕達はただ逆のホームに移動して、もと来た道をまた各駅停車で帰っていく。これはちょうど僕の現在、つい最近四十歳になった僕のようだ。

下の写真は、樟葉(くずは)、コキットラム・センター周辺。
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続いて、Lafarge Lake。
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先述の伏見桃山駅には、明治天皇陵があり、その麓には乃木希典を祀る京都乃木神社がある。乃木希典は妻と共に明治天皇の死に殉死した。日露戦争時には乃木軍を率い二〇三高地を攻めたが攻めきれず、同じく長州の児玉源太郎の助けを得て、膨大な犠牲を払った後、ついにこれを陥落。かねて東郷平八郎率いる帝国海軍から要請のあった旅順港をようやく手中に収める。

以上は余談。(司馬遼太郎)

そもそも、このブログ自体、このmini van自体が余談である。

僕は今、二十二年後の三条京阪にいる。時刻は午後10時30分。そこであなたとしんちゃんと、英国パブで、ギネスとエビスのハーフ&ハーフで乾杯している。バックにはローリング・ストーンズの『地の塩』が流れている。1968年発表の名盤『ベガーズ・バンケット』B面の最後を飾る曲であり、ちなみにこの1968年に僕は生まれ、明治製菓のカールが生まれた。

以上は、またも余談。

くさい臭い。

ちなみに、樟葉(くずは)という地名は『古事記』に出てくる、ちゃんと意味のある地名である。

以下はウィキペディアからの抜粋。

『古事記』の崇神天皇記に楠葉の地名の由来が記されている。山背の建波邇安王(たけはにやすおう)の反乱に対して討伐軍として、天皇は、日子国夫玖命(ひこくにぶくのみひと)を派遣した。国夫玖命の射た矢が建波邇安王に命中し、反乱軍が逃げ出した。討伐軍はこれを追って「久須婆(くすば)」の渡しに追いつめた。逃げ場を失った兵士達は恐怖の余り糞を漏らして袴を汚してしまった。そのためここは「糞袴(くそはかま)」と名付けられたが現在は「久須婆」と呼ぶと書かれている。一方、『日本書紀』の崇神天皇紀では『糞袴』が現在訛って『楠葉』になったとする。

糞袴(くそばかま)

さあて、ぼちぼち、帰ろうか……

Minolta X-570にて撮影。 T-max 400使用。Kodak D-76 1:1にて現像。

miniature vancouver page7

メトロバンクーバーの西側に位置するリッチモンド市には、旧市街が存在する。まだ、陸路より海路の方が進んでいたころ、当時の州都ニュー・ウエストミンスター市からは定期的に汽船が運航されていた。その発着場所がリッチモンド市の旧市街、ルル島の最南端に位置する漁業の街、スティーブストンである。だから今回のこのページは、

ミニチュア・バンクーバー、リッチモンド市、旧市街編(ステーィブストン)とさせてもらう。

話が多少前後するが、リッチモンド市は何を隠そう《大阪ベイエリア》にあたる。こう聞くと、とてもかっこよく聞こえるが、それでいい。此花区とか大正区とかだと、ぶっちゃけ過ぎていけない。リッチモンド市はその位置と、土地の成り立ち、歴史、また発展の様子から鑑みて、《大阪ベイエリア》という、とても気の利いた、かっこいい名前を授かるに値すると考える。

で、今回のステーィブストンは《大阪ベイエリア》大阪市住之江区になる。やっぱり。

僕は前に、フレーザー河を大和川に例えた。その通り、リッチモンド市も大阪市住之江区も河は違えど、同じく流された土砂の堆積からできた土地である。住之江区はその昔、澄みの江であり、大和川の付け替え工事の後、堆積した土砂を使い新田として埋め立てられてできた陸地なのである。それら埋め立てた土地が時代とともに広がり発展して今の《大阪ベイエリア》につながる。

ステーィブストンの桟橋。漁師が船を泊め、魚を直接売るときもある。

イメージ 1


スティーブストンは日本人と縁の深い街である。最初に来たのは和歌山県出身の漁師で、工野儀兵衛、1887年のことらしい。彼がフレーザー河を上ってくる鮭の大群に驚いて、仲間を日本からたくさんよび、その後、他の土地からもたくさんの日本の漁師達が集まってきたのだ。男達は漁に出て、日本から呼び寄せた女達は缶詰工場で働き、彼らはしだいに日系人コミュニティーを形成していく。

1941年12月7日 真珠湾攻撃

これを機にして、不幸にも日系人は差別され、迫害を受けることになる。敵国の、日独伊同盟国の、ドイツ系カナダ人やイタリア系カナダ人とは一線を画され、おそらくは黄色人種だという理由から差別を受け、白色カナダ人の反日世論は頂点に達し、カナダ政府はついにブリティッシュ・コロンビア州の全日系人を海岸線から100マイル(160km)以遠に隔離、収容することにする。その数22000人。そのうち、カナダ市民権を持つもの、17000人。政府はそれだけでなく、全てのこれら日系人の資産を押収し、強制的に処分する。

初めてですが、ここで歴史的記録写真を掲載します。ファイルが小さいのであしからず。

イメージ 2


上は一瞬にして失われた資産。スティーブストンで、押収、処分された日系人の漁船、1337隻。

戦争が終り、日系人は組織を作り、戦時中の不当な仕打ちに対し抗議し続け、ようやく1988年にカナダ首相は議会で公式に謝罪し、補償を行う。

この間に、強制隔離された場所から、スティーブストンに帰ってきた人はどれくらいいたのか?

下は、スティーブストンの桟橋。その2。桟橋に泊るホエールウォッチングのボート。

イメージ 3


あなたは、どれくらいの割合だと思いますか? 全ての資産を失った人間が、生まれた故郷でもない場所に、わざわざ戻ってくる割合は?

その答えは、三分の一。

この割合が多いのか少ないのか、僕には判断しかねる。ただこのことを考えた時に、僕の脳裏に鮮やかに浮かび上がるのは、河に戻ってくる勇敢な鮭の姿だ。疲れ果て、全身傷だらけになってでも、ひたすら河を上ってくる鮭。ひょっとしたら、彼ら、戻ってきた漁師達とか、そんな日系人達も同じことを考えていたのかも知れない。ふと、そんな風に思う。

歴史記録写真以外、FUJICA ST605N にて撮影。(Camera書庫参照)ILFORD DELTA100、 D76 1:1で現像。

リッチモンド市、新市街編は、また今度……

miniature vancouver page 6

僕達は、いつもニュー・ウエストミンスター市を中心にしている。それはとても正しい見方である。なぜなら今、優勢のバンクーバー市を中心に据えてしまうと、どこをどうしても周りの市に適切な役割が与えられず、なおかつ、地理的にも矛盾が生じるからである。僕は今、このささやかな書庫を、ささやかなニュー・ウエストミンスター市から始められたことを幸運に思っている。始めたときは、そんなに先のことまで考えてなかった。言ってみれば、偶然だったのかも知れない。しかし、ニュー・ウエストミンスター市を天王寺と例えた瞬間、全ての歯車が噛み合い、僕達のページは、前に動き始めた。
ちょうど『黒潮号』が、阪和電気鉄道の路線を走り始めたときのように。

ニュー・ウエストミンスター市の名前はイギリスのヴィクトリア女王により命名された。その川を挟んだ向かい側の土地をカナダ人はちょうどイギリス本土と同じように、サーレー市と名付けた。地理的な符号である。サーモンの遡るフレーザー川が、ロンドンの中心を流れるテムズ川に置き換えられたのである。

それならば、僕はフレーザー川を大和川に置き換えよう。

天王寺からJR西日本(阪和線で)大和川を越えたところがサーレー市であり、そこは、大阪府堺市である。

この阪和線はもともと、阪和電気鉄道のものが南海電鉄になり、JR(国鉄)になった、いわく付きの路線である。だからか何かは知らぬが、我々大阪人(市内の大阪人)は、大和川を越える時にそれとなく襟を正してしまう。これが仁徳天皇陵に対する畏れなのか、かつてはイエズス会の宣教師に『東洋のヴェニス』と呼ばれた街に対する畏れなのかはわからない。でも、ちょっと気を引き締める必要があるのだ。そこは、境(さかい)であり、耳を澄ませれば、異国的なビートがどこからともなく聞こえてくるからだ。そんな、阪和線の堺市駅周辺がここ。

サーレー市 セントラル・シティー

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『サーレー』を一言で例えると『インド』である。『インド』はサーレー市の代名詞であり、時には形容詞であり、スパイスの利いた副詞である。

元々、アジア移民の多いメトロ・バンクーバーでは、人種の住み分けがよく見られる。まだここでは取り上げていないが、リッチモンド市などは本当に中国人ばっかりである。いやあ、人の多いこと多いこと、中国とインドの人口調査を海外移民を含めてすれば、いったい何億人になるのだろうか……?

話を元に戻そう。とにかく、サーレーはインド的でインド風なプチ・インドな街である。サブウェイ、マクドナルド、ピザハット、スターバックス、シェル・ガスステーション、とにかく至る所にインド人がいて、それも、ばりばりのインド人で、頭にターバンをグルグル巻いている。ほんと、タイガー・ジェットシンがニセモノに思えるくらいに。
「奥さん、困りますねえ。インドの使い方が少ないんじゃないですか、最近」なんて、村上春樹のインド屋さんに苦情を言われる心配などまったくないくらいに。

話が元に戻っていない。

インド人のことはひとまずここで、すべて忘れてください。

ここから先のことはインド人とは関係ありません。

それに、堺市民にも。(いや、そう言うと、これまでの話が何だったのかってことになりますが…)

諸君。
ここまで書いて、突然、僕は責任を感じたので、敢えて言う。もし、あなたがバンクーバーに旅行に来て、サーレーのセントラルシティー周辺を訪れることがあれば、注意してほしい。ここは、安全だとは言えない。セントラルシティーには駅があり、連絡の大きなバス停もあるけれど、ここは最も危険な場所だと地元で言われ、恐れられている。ここはタフでマッチョな場所だ。ドラッグ中毒や薬売りのチンピラがうろついていて、異様な雰囲気がしている。淀んだガスのような危険な臭い。だから、夜間は特に注意すること。もちろん、これは、サーレー市に限ったことではないけれど。

今、改めて、僕達は襟元を正す。腹に力を入れ、『はっ』と、気合いを入れ直す。前を見る。僕達はサムライなのだ。たとえ、堺の刀鍛冶の打った日本刀を腰に差していなくても。そこには、何かあるはずだ。

僕達の誇り。

サーレー市はバンクーバーの大和川(フレーザー川)を越えた、大阪府堺市にあたる。
 
堺 さかい 栄 境 界

サーレー市は、メトロ・バンクーバーの最南端の市の一つ。言わば、もうこれ以上、僕達は南には行けない。(でないと、和歌山県がアメリカになってしまう)
僕達は一度大きく深呼吸する。目を閉じ、自分の立っている足下に意識を集中し、目を開ける。

今日はこの辺で……

サーレー・セントラル・バス・ステーション

イメージ 2
 

miniature vancouver page 5

以前に僕は、ニュー・ウェストミンスター市のダウンタウンを天王寺、アップタウンを大阪ビジネスパークと例えた。それに、無謀にも僕は、ポート・ムーディ市を伏見とも言った。
それを変更するつもりはない。無理を承知で、あくまでこれに従う所存である。
というわけで、ここまで来たからには、メトロ・バンクーバーのど真ん中に位置するバーナビー市を訪れねばなるまい。
先の、ニュー・ウェストミンスター市のダウンタウンからアップタウンまでを、僕達は地下鉄谷町線で移動する。天王寺駅から北に向かって南森町駅まで。で、その一つ先からがバーナビー市になる。
だから南森町を乗り越して、僕達は東梅田駅で下車する。大阪駅前第四ビル方向に階段を上って、地下鉄御堂筋線梅田駅までを歩いていく。この道が比較的空いていて、ちょっと気が向けば中古カメラ屋をのぞく事だってできるからだ。
でも、やめとこう。今回はぐっとこらえて僕達は阪神百貨店の地下、スナックパーク入り口付近を目指す。だって、せっかくなんだから、イカ焼きくらい買ったっていいだろう?

君の同意を得て、僕達は列の最後尾におとなしく並ぶ。デラパンを僕は二枚。君は三枚買う事にする。その方が僕の良心の呵責が少なくて済むからだ。
僕達は阪神電車につながる広い階段に並んで座り、フーフーしながらデラパンを食べる。やっぱり、うまいなあとか何とか言いながら。もちろん、僕が一人でしゃべっている。君はフーフーしながら(猫舌なのだ)一心にイカ焼きを食べている。でも、こうしていると高校生の頃を思いだすなあ。野球をしていた頃。ロックンロールに目覚めた頃。まるい飯店とかレックとかトダカメラとか名曲堂とか……

食べ終わった君にちらっと急かせれて、僕達は立ち上がる。僕は遠い記憶を振り払い、重くなりかけた腰を上げる。『よっこらしょっ』て、えーっ、もう中年じゃん。

バーナビー市は地下鉄御堂筋線の梅田駅から千里中央駅までの範囲である。
だからもし君が今、大阪に住んでいて、御堂筋線に乗ることがあれば想像してほしい。うめだからせんちゅうの間、君はカナダのブリティッシュ・コロンビア州のバーナビー市にいるのだと。

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写真はバーナビー市の最北、バーナビー山から北側を見下ろしたもの。ボートがバラード入り江(ポート・ムーディ市に前述)を進んでいる。

キヤノンEOS KISSIII(カメラの書庫参照)、canon ef28-105mm USMにて撮影。Ilford Delta100使用。D-76 1:1にて現像。

バーナビー市にはメトロタウンという名前の、北米でたぶん2番目?に大きいショッピング・モールがある。北側には、イタリア系が多く、中心地メトロタウン近辺には中国系が多い。まあ、世界中で、中国人のいない都市はないけれど……
何と言うか、あまりメリハリはないが、巨大なバンクーバーのベッドタウンであり、大きな都市であり、多くの企業の本社もあり、山もあり、湖もあり、日系人の老人ホーム『さくら荘』だって、日系人会館だってあり、ニュー・ウェストミンスター市との境には、僕の住んでいるリトル・ピンク・ハウスだってある。

そうなんです。

まとまりなし。

ちなみに、バーナビー市は北海道釧路市と姉妹都市でもあるのです。ですから、バーナビー山にはアイヌ文化の立派なトーテム・ポールがあることも、この際ですから伝えておきます。
森のクマさんの彫り物。


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どこか寂しそうに思えるのは、気のせいかしら?

クマさんの言うことにゃ、お嬢さん、お逃げなさい、スタコラサッサッサーのサー、スタコラサッサッサーのサー。(この歌って、オリジナル?それとも、翻訳? 知ってる人いたら教えてください)

えーと。

聞きたまえ。
バーナビー市は地下鉄御堂筋線の梅田駅から千里中央駅までの範囲である。

だからもし君が今、大阪に住んでいて、御堂筋線に乗ることがあれば想像してほしい。うめだからせんちゅうの間、君はカナダのブリティッシュ・コロンビア州のバーナビー市にいるのだと。

それから、谷町線の天王寺から南森町の間はニュー・ウェストミンスターにいるのだと。

これで、次回に続けていいですか?

miniature vancouver page4

バンクーバーは夏が短い。
長く暗い、じめじめした冬が(治らない水虫みたく)しつこくあって、春、夏、秋が、やっと来たかと思うと、とんとんとんと駆け足で、とりわけ夏に限っては、全力疾走で過ぎていく。

確か、8年前の夏は3日しかなかった。

だから夏がくるともうそれは、スーパーの時間限定特売品を買いに行く主婦のように、いささか異常な興奮を持って、人々は水辺に急ぐ。

さて、『miniature vancouver』今回の舞台は、そんな水辺の一つ、Port Moody市である。

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(ほらね、ボートです。クリックにて拡大)

ポート・ムーディ市の歴史は前回のニュー・ウェストミンスター市と深い繋がりがある。
前回にも書いたように、ニュー・ウェストミンスター市は最初の州都であり、ダウンタウンであった。そこの防衛にあたり、Moody大佐なる人が任命され、北の入り江に向けて大きな道路を敷き、南からの攻撃に備えた。有事の際にはバラード入り江に軍艦を停泊させ、武器や軍隊をニュー・ウェストミンスターに輸送するのがその目的である。その道の名残りが現在のNorth Road(そのままですな)であります。古来から都市とは軍事的な計画性を持ってつくられているのです。

北にある防衛拠点。ならば、伏見か。(驚きましたか?)

歴史的に現在の京都市伏見区は京の都と大阪を船で結ぶ拠点でありました。言うまでもなく、戊辰戦争の発端になった鳥羽・伏見の戦いで、新選組が陣取ったのが伏見の奉行所。白刃振りかざし突撃を繰り返すも、薩長の近代的な火器の前では歯が立たず、幕軍は再起を図るために将軍、徳川慶喜のいた大阪城(上町台地、現在の大阪ビジネスパーク)まで引かざるを得ませんでした。

それに関連して思い起こされるのが、明治になって兵部大輔になった大村益次郎がとった計画。
彼は軍事上の重要施設を首都の東京には置かず、大阪に置きました。いずれ西郷隆盛の起こす西南戦争を予見し、兵器や物資を瀬戸内海経由で大阪湾から九州へ直送するために。
大村益次郎が大阪に置こうとした軍事施設は、陸海軍練兵場、兵学寮、兵器工場、それに火薬庫。
結局、練兵場は伏見に、火薬庫は宇治になり、西郷は予見通りに反乱を起こすのです。

と……ここまで言えば、もう納得ですね。Port Moody市は、ずばり伏見です。

それに、Port MoodyのMoody(むっつり、不機嫌、ふさぎ込んだ)と『伏見』の字から受ける印象が似ているではありませんか。

イメージ 2

(ほらね、ボートです。一年間の使用期間が、正月の門松くらいなのに、何故、ボートが欲しいのか? これは、現代の人間の異常な心理なのでしょうか。ハワイに住んでいる人が、ミンクの毛皮のコート持ってるかなあ…知っている人がいれば、教えて下さい)

Nikon F801 AiAF Nikkor 50mm 1.8(Cameraの書庫参照)にて撮影。
Ilford Delta100使用。Kodak D76 1:1で現像。

次回に続く。

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