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先日、ebayで落とした、Rolleiの XF35です。シンガポール製。また買っちゃいました。 測光はプログラムEEのみ。シャッターはバルブ、1/30から段階的に1/650まで。絞りは2.3から16まで。AEロック可。距離系連動。ローライのコンパクトにしては珍しいレンジファインダー機、これに釣られて、レンズが40ミリのゾナーとくれば、その気になって入札。その後。少し後悔するものの、思った以上に安く落札したので納得。これは一種のボランティア精神、というか、エコである(Go Green)。こういった捨てられそうな使われていないカメラを、僕が(安く)保護して、大切に使ってあげるのだ。 それでは、お馴染みのロック史と共に見る1975年。 1月17日 ボブ・ディラン『Blood On The Tracks(血の轍)』発表 4月30日 サイゴン陥落。ベトナム戦争終結 5月 イーグルス『One Of These Nights(呪われた夜)』発表 6月 ジェフ・ベック『Blow By Blow(ギター殺人者の凱旋)』発表 8月4日 日本赤軍がマレーシアのクアラルンプールのアメリカ大使館を占拠 8月25日 ブルース・スプリングスティーン『Born To Run(明日なき暴走)』発表 10月4日 タイムボカン(タイムボカンシリーズ)放送開始 11月 パティ・スミス『Horses』発表、デビュー。 11月14日 クィーン『A Night At The Opera(オペラ座の夜)』発表 *【今回はアルバムのオリジナルと日本語タイトルを一緒に載せてみました。当時のハードロックやヘビーメタル系の日本語タイトルにはおかしなものが多く、どこからどうやってこういうタイトルになるのかと首を傾げたくなるものがたくさんあります。『ギター殺人者の凱旋』は、やっぱなしでしょう】 1975年と言えば、昭和50年である。 僕はこのページを書くにあたっていろいろと調べてみた。先ず、この書庫がCameraである以上、主役はあくまでローライのXF35でなければならない。ローライと言えば、二眼レフ。その後は、35シリーズのコンパクトも発売し、どちらも有名で高価な品物である。でも、このXFは違う。有名でも高価でもない。XF35はローライの流れから外れた異端児である。では何故ローライXF35は生まれたのか。 話は、飛ぶ。 昭和50年の大学進学率は30%弱。高卒男子初任給は6から7万円。大卒男子初任給は9万円前後である。煙草ではゴールデンバットが30円、ハイライトが120円。当時はコーヒー一杯が200円であった。 さらに、飛ぶ。 カメラの歴史を見ると1975年には初代ピッカリコニカが発売。この頃、日本カメラ業界は一眼レフと平行して、コンパクトカメラの普及に力を注いでいた。コニカのC35シリーズ、ヤシカのエレクトロシリーズ、ミノルタのハイマチックシリーズ、キヤノンのキヤノネットシリーズ、等々。どれも、名機としてふさわしい日本が誇るコンパクトカメラである。小さくて、簡単で、しかもよく写る。きっと若いお父さん達は、最初の子供が生まれるとカメラ屋に走っていき、これら国産コンパクトカメラを買ったのだと思う。当時、一眼レフは標準レンズ付きで10万円程度。コンパクトは2万円から3万円弱で販売されていた。それでも、給料の1/3。カメラはまだまだ高価なものであり、庶民にしてはライカとかコンタックス、またはローライなんて現実味のない品物であった。 庶民。(しょみん)とは、人口の多数を占める一般的な人々のことである。 庶民には、通例、平民などが該当し、貴族などの特権階級に対して、一般階級の人々を指すことが多い。現代社会においては、一般市民とも呼ばれることも多い。また庶民と言う言葉を大衆と同義で用いられることもあるが、厳格に区別して用いられることもある。庶民は、風俗の担い手でもあり、民俗学や文化人類学などにおいても注目されている。(ウィキペディア参照) ローライは庶民のカメラを作った。それだけ、庶民の購買力は魅力的であり、日本製のコンパクトは市場の脅威であったのであろう。だから、妥協した。パワーはすでに庶民にあった。庶民が労働力として物を作り、購入し、消費した。彼らこそが時代の担い手になり、先導し、巨大な消費を生み出し始めていた。言い方によっては、高度資本主義の先駆けとも言える。 庶民。 ロックは庶民の音楽である。本来、労働者階級の歌である。ブルース・スプリングステーンは街にたむろする、決して裕福ではない若者の心情を歌い、およそ社交とは呼べない彼らの付き合いや駆け引き、憧れを切実な言葉で表し、ダイナミックなロックンロールに仕上げた。歴史的名盤、ボスの最高傑作『Born To Run』はこの年に生まれる。 ロックン・ロール。 この書庫が、ロック史と関わっている以上、ここにもう一人の主人公、今回は初めてのヒロインを僕は登場させたい。 パティ・スミス。 彼女は詩人であり、パンクの女王とも呼ばれている。デビューが1975年だから、ラモーンズのそれよりも1年早い。彼女はニューヨーク・ドールズの前座を無伴奏、マイクなしで行い、クチコミで有名になり、自費でレコードを製作した。 その後、アリスタと契約し、プロデュースに元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケールを迎えデビューアルバム『Horses』を録音、発表する。ロックファン必聴。まさに凄まじいアルバム。おそらく最も恐ろしい、正直言って類を見ないほどハマるデビューアルバムだと思う。僕みたいなおじさんが言うんだから間違いない。ジャケット写真の撮影は、彼女の親友となり、同居までしたロバート・メイプルソープ。アルバムの内容とは多少のギャップがあるが、とっても素敵な写真である。 話は、戻る。 1975年。そういう庶民パワーとコストダウンの必要に迫られ、あぐらをかいていられなくなったローライはシンガポールに工場を作り、ついに異端児のローライ35XFを生み出す。たいしたカメラではないけれど、異端というところと、庶民的なところ、それにローライのこだわりが今となっては面白い。 後のパンク・ムーブメントにつながる臭い。 ローライ社は、この安っぽい庶民的なXF35に、先述した40ミリの、コーティングの美しい、コンパクトとしては前玉の極めて大きいゾナーを搭載し、消費者の購買欲を煽り、それを個性とした。言うなれば、このXF35は、鯛の尾頭だけがついたサンマの塩焼きであろう。あくまで庶民を対象にした、食欲をそそるカメラであり、見栄がちらちら見え隠れするシロモノである。でも、これを決して悪く取らないで欲しい。なぜなら、僕みたいな庶民がゾナーを堪能できるのはこんな機会しかないのだから。 またしても、余談が過ぎた。 が、余談ついでに言わせてもらうと、REMのマイケル・スタイプはパティ・スミスの『Horses』に相当な衝撃を受け、ロックを志したらしい。ちなみにREMも僕の大好きなバンドである。 PS:パティとXF35を同じように扱うのは多少、不本意である。本文がそういう流れになり、そう受け取られても仕方がないが、あくまで『庶民』と言うキーワードが先にあり、異端がパンクに繋がり、こだわりが才能や個性を意味しているのであって、決して鯛の尾頭付きサンマの塩焼きがパティ・スミスではない。それをこの追記で、くれぐれも断わっておきたいと思う。 パティ・スミスのライブが幸いなことにyoutubeで見られます。 Land/Horsesは必見です。あまりの格好よさに度肝を抜かれます。 このページ了。
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Camera
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1978年発売。FUJICA ST605Nである。フジカとはあの富士フィルムが昔、一時だけ、コニカの真似をしてつけた名前(だと思われる)。ST605NのNなんて歯切れの悪い名前は、輸出モデル故。どうしてか輸出モデルは、中途半端な名前が多い。使用はM42スクリューマウントで、絞り込み測光。そのあたりはペンタックスのSPに似ている。最高シャッタースピードは、700分の1秒???? なぜ? 500分の一秒だと、あこがれの先輩に嫌われると思ったからなのか、ほんの少し背伸びをしたところが、少女のようにけなげである。だって、フジカですもの…… 1978年。時代は『サタデー・ナイト・フィーバー』の大ヒットによるディスコブーム。 1月 TBS『ザ・ベストテン』放送開始 ヴァン・へイレン『炎の導火線』にて鮮烈のデビュー SEX PISTOLSから、ジョニー・ロットン脱退 4月 『サタデー・ナイト・フィーバー』日本で公開 5月20日 新東京国際空港(現成田国際空港)開港 6月25日 サザン・オールスターズが,シングル『勝手にシンドバッド』でデビュー 8月 日本テレビ『愛は地球を救う』放送開始 アーケードゲーム『スペース・インベーダー』タイトーより発売 9月7日 THE WHOのドラマー、キース・ムーンが、ドラッグで死亡 10月13日 SEX PISTOLSのシド・ヴィシャス、恋人のナンシーを殺害 11月 ポリス 『OUTLANDOS D'AMOUR』でデビュー 11月25日 YMOがアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』でデビュー この年は、街中にディスコと、駅前にゲームセンターが乱立した。昭和53年である。キーワードは『電子化』この頃あたりから、おもちゃだって何だって電子化していったような記憶がある。もう30年も前の話だから、ホント、驚くよね。ゲーセンがパチンコ屋の横にできてて、インベーダーゲームしてるやつの周りに集まって、俺らガキはそんなのを見て浮かれてた。ディスコとか、フィーバーとか、ナゴヤ撃ちとかって、もうみんな言わないよね。そんなくすぐったい言葉がこの頃にはいっぱいあるのさ。ガンダーラとか、ABBAとか、ビージーズとか、フジカとか…… 弱冠21歳でデビューし、衝撃のテクニックで世界を沸かせた、エディー・ヴァン・へイレンを今回は敢えて隅っこに押しやり、日本のロック界の出来事に注目してもらいたい。サザンのデビュー、それにYMOのデビューである。この当時、まだサザンはコミックバンド風の匂いと、革命児の煌めきの中間にいた。僕は、熱心なサザンのファンではない。いや、むしろファンでさえない。だからこんなことを言うのは熱心なファンに対して失礼かと思うが、サザンの出現、言うなれば、桑田圭祐のシュールな歌詞と、あの英語っぽく歌う歌唱法、当時何を言っとるのかわからんとか、これ日本語かとか言われた、いわゆる桑田節が、後の<日本の音楽を変えた>と断言して間違いないと僕は思う。 パンクはピストルズに始まりピストルズに終わった。 そして、11月25日、1978年を語るに最もふさわしいYMOが登場する。彼らはコンピュータ、シンセサイザー、演奏技術、コンセプト、ファッション、コマーシャル、グローバルな展開、全てにおいて一番高い所から現れたように、言うなれば降臨したように、僕らガキには感じられた。かっこいいんだぜニッポンは、そんな風に自慢ができたのは、(サディスティック・ミカバンドには悪いかも知れないが)こと音楽に関して言えば、国民にとって初めてだったのだ。 『電子化』 この言葉の響きは、30年前のガキに、明るく便利な、かっこいい未来を想像させた。WALKMAN発売の前年。カメラも電子化が進み、シャッター優先、絞り優先、プログラム測光、ファインダー内のLED表示がその象徴になった。そんな年に生まれたのが、けなげなこのカメラ。電池を使えば、ふらっと追針式の針が揺れる。もちろん電池なんてハイカラなものはなくてもいい。どっちみち絞り込み測光のマニュアルフォーカスだから、ネガなら勘にまかせて撮ったほうがはやい。その名は、FUJICA ST605N。共学の高校に入学したばかりの、ちょっと古風な女の子。まだ小さな胸がドキドキしている。そう思えば、回りくどい名前も、由緒あるものに思えてくる。 ああ、日本。 実はここだけの話。このカメラは、娘がお小遣いから買ってくれた。近くのヤードセールにいとこと用事で行った時、どこかのおばさんがこのカメラをとてもさりげなく売っていたらしい。僕のあの娘はそれに気づき、いつも飲んだくれの父が、少しも役に立たないおんぼろカメラ収集を愛好していて、ひょっとしたらこのカメラが気に入るかもしれない、と言ったところ、おばさんが涙ながらに半額で売ってくれたというのだ。けなげさは時に、何よりも人間的で美しい。なにしろ、10ドルが5ドルになる。 娘が買ってくれたフジカさんは、電池を入れても、露出計が働かない。それがどうした。そう、僕は言ってやりたい。それが、どうした。彼女はまだ、大人の世界の準備ができていないのだ。いや、ちょっと待て……、30年前だから、もう、だめなのかな。でも、えーーーい。それが、どうした。 僕のフジカさんは、今でもフジノン(これもコニカの真似?)の55㎜2.2を付けて、高校一年生の女子のように美しくけなげにたたずんでいます。まるで、初めて詩に感動した女子高生が、学校の帰りの市立の図書館で、偶然出会った正岡子規の俳句を、指折り数えて詠んでいるように。 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 それでは、今日はこの辺で…… PS: YMOの1979年のヨーロッパツアー、特にギリシャのものがyou tubeで見られます。とてもかっこいい。ギターの渡辺香津美、サポートの矢野顕子。それに、特にドラムの高橋ユキヒロ氏のドラミングは必見です。このクールさには驚きます。ガキだった僕には、この凄さがわからなかった。できれば、生でとことん感じたいタイトさです。
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発売は1983年4月。 原産国名(日本名)は、X-500と言います。 よろしくお願いします。 私の姉は、XシリーズのフラッグシップであるXー700で、私の妹は、1985年に発売されて、一眼レフカメラに革命を起こす、かの有名な、ミノルタα7000です。 ちなみに私には異母姉妹のミノルタX−600がいます。 この複雑なミノルタ家において、なぜ私が生まれたのか考えるのが、今までの私の人生のほとんどでした。 X−700という、完成された姉がいるのに、なぜ、私が両親から(特に父方から)生を授かったのか。何かそこには、大切な意味が在ったのか…… それに、私の生まれた二年後に、ミノルタ家はα7000を産み、この世の繁栄を築くのです。なら、なおさら、なぜ私がこの世にいるのか…… 私の今までの25年間は、このことを知るための時間でした。私は来る日も来る日も、いろいろとネットで調べ、恥ずかしながら、少しずつ自分のアイデンティティーを形成してきたのです。 私は、誇るべきミノルタX系を引き継いだ最後のものです。明るく見やすいファインダー。滑らかな巻き上げレバー。ただ、X−700よりもっとマニュアルな(しつこい)使い方を私に要求してくださる方のために、そんな殿方に、私は奉仕するために生まれたのです。 それと、手探りの使者。スパイ。企業のおとり…… 後に、まったく今までの系列とは違う、α系の血筋である、α−7000姫を世に送り出していいものかどうか、ミノルタ家は迷っていたのだと思います。ですから、私は試験的に市場にさらされ、おそらくは予想と希望通り、あまり売れませんでした。 私はそれを不幸だとは思っていません。むしろ、ミノルタ家に貢献できた、優秀で美しいX−700姉様の持っているほとんどすべての長所を受け継いだ、こだわりのマニュアル機であることに感謝しているくらいでいるのです。 私の生まれた1983年にはこんなことがありました。 4月15日 東京ディズニーランド開園 5月 KINKS 『STATE OF CONFUSION』発表 6月 POLICE 『SYNCHRONICITY』発表 7月15日 任天堂 ファミコン発売 8月 Billy Joel 『AN INNOCENT MAN』発表 9月1日 大韓航空機事件 11月 ポール・マッカートニー『パイプス・オブ・ピース』発表 12月 The Rolling Stones 『Under Cover』発表 12月 Van Halen 『1984』発表 前年の1982年に、マイケル・ジャクソンは『スリラー』で、何とグラミー賞の8部門をかっさらっていきました。 もちろんマイケルはロックではありません。しかし、それはきっと音楽シーンにおいて、他のアーティスト達に、自分達の《これから》の方向を考えさせることになったと思います。 ここで、私は自分の生まれた1983年を『兆し』の年だと名付けます。 メタリカ 1stアルバム『Kill Them All』発表 レッド・ホット・チリペッパーズ結成 私は時代の波の切っ先に、遅れたマニュアルの存在として、我が身を屋根の上の風見鶏のように晒し、自分自身の時代の終りと真っ向から対決しました。その時は夢中でした。しかし、数年後に、学んだことがあります。 コケコッコー。受け入れるのです。『兆し』を。それはとても勇気のいることですけれど。 この先、時代はオートフォーカスに変わり、ロックは多様化とともに発展していきます。遅れてはならない。けれど、忘れてはならないことがある。 私のアイデンティティー。 皆さん。最後まで聞いて頂き、ありがとうございました。 最後に、ミノルタ家、並びに遅れて親族になったコニカ家の崩壊をとても悲しく思っておられる皆様と共に、1分間黙祷したいと思います。 2008年10月9日 その時あなたのいる場所で、正午より1分間。 黙祷。
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きやのんいおすきっすすりい です。 1999年4月発売。《小型、軽量、サイレント、簡単操作》をコンセプトに、Canon EOS Kissの初代が発売されたのが1993年。これは、その三代目にあたる。 まさにコンセプト通り、何の不足もないカメラ。それに十分なスペックだから、本格的な撮影だってできてしまう。流石はキヤノン。商売上手。色気たっぷり……キッスだなんて、恥ずかしいではないですか。 このカメラは祖父から譲り受けた。日本にいた頃の僕は、カメラにも写真にも興味がなく、そんな祖父の趣味さえ知らなかったのだが、後に母から伝え聞き、祖父が所有のカメラの一つをセットでくれるということになった。どうしてキッスなのか?それは知らない。《小型、軽量、サイレント、簡単操作》が喜ばれると思ったからなのか、そのコンセプトが逆に祖父の所有欲を衰退させたからなのか、だめだよ、やっぱ、キッスだなんて…からなのか。 とにかく、この名前は、何と言うか、僕にしてみれば、『パンティー・ストッキング』くらい恥ずかしい。 ないんてぃーんないんてぃーないん。 1999年。ノストラダムスの大予言、人類滅亡の年である。それにコンピュータの誤作動によるパニックを危惧した、2000年問題が懸念され、終末論的な風潮がどことなく漂っていた頃である。そうです。時代は救世主を待ち望んでいたのです。 1999年 デビッド・ボウイ『hours...』を発表。 でいびっとばうい。 ロック史を紐解くと、1999年の欄には、たった一行、これだけが記されている。 地球に堕ちてきた男。ルー・リードのセカンドアルバムのプロデュースをして彼を救ったり、イギー・ポップを再生させたり、救世主として、彼は少なくともロック界に手を貸している。 デビッド・ボウイは常に時代の先端を進んでいた。ハイテクなキヤノンのように。『hours...』はそんな彼が初めて、ふと立ち止まり、自分と、『老いる』という現実に向き合った作品と言える。ある時、ふと、じっくりと、何かの拍子に、鏡の中の自分を見て、愕然と、え、いつの間に、しかも、とても、リアルに、突きつけられる、『老い』。彼はこれと折り合いを付けるために、このアルバムを作り、自分を赦し、折り返しのボードを蹴り、リターンした。当時、ボウイ52歳。遅くない? (もちろん、天才はそんなこと気にしない。若いモデルの嫁をもらったから、庶民的な『老い』なんて、40代に感じている暇はなかったのだ) 僕の祖父が、キヤノンのEOS KISS IIIを僕にくれたときのことを考えると、僕はいつもこの『老い』という宿命的な命題にぶつかる。時代の流れと技術に追いつけなくたった自分。そのコンセプトには、理解を示す一方、もはや魅了されなくなっている自分。便利で簡単なことを、持て余してしまい、むしろ面倒くさいプロセスに喜びを見いだしている自分。どうしてもEFレンズが好きになれない自分。 ちょっと納得。 キヤノンEFレンズのラインナップはどこからどのように見ても、世界一である。もし、あなたが相当なお金持ちなら、キヤノンを僕はお勧めする。白レンズ、Lレンズ、何でも買えや……、そら、ええがな、当たり前やないか、何十万円もするレンズ、わしゃ買われへん。買えるわけないやろ。いやいや、ひがみやないねん、そやから、ええがな、買えば、好きにしなはれ…… キヤノンのキットレンズや廉価版の安いEFレンズは、他社に比べて、優等生、偏差値の高い私立の進学校的である。 そう、悪い所がないのです。 もちろん、これをどのように受け入れるかは、あなたしだいであるけれど、僕からすると、そこに、個性がないと感じてしまう。FDマウントの頃のキヤノンはもっと個性的だったように思える。まあ、これも『老い』のせいなのかも知れないが、ハイテクで、画一的優等生のキヤノンが、あまりに今の日本を表していると思えるのは、僕の思い過ごしなのであろうか。 いや、もうキヤノンの悪口はこれでよそう。レンズ・ラインナップの豊富さ。それにmade in Japanにこだわる姿勢は今日において、感動的でさえある。 がんばれキヤノン。がんばれニッポン。北京オリンピックは、もうすぐそこだ! *ちなみに、EOS KISSの北米名称は、EOS REBEL(反抗)です。日本国内においては、柔らかな女性的なイメージであるのに対し、北米ではその正反対な、シャープな男性的なイメージで販売しています。(you tube で canon eos rebel commercial で検索すれば、髪の毛ふさふさのアンドレ・アガシが見られます) Do dodo, dodo dodoo... rebel rebel...
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ペンタックス、キヤノン、オリンパス、ミノルタ、と所有していれば十分すぎるわけで、普通の人からすると、ニコンが新たに必要なはずはなかった。浮気心といえば、言える。でも、来るべきして来ることになっていたのだ、という運命の方を僕は信じる。だって、ペンタ、キヤノン、オリ、ミノルタンときて、ニコンがないのは、青レンジャーのいないゴレンジャーではないか。 発売は1988年。この年のキーワードは『ブリッジ』 1988年と言えば昭和63年、昭和最後の年で、バブル絶頂の頃である。 この頃はいわゆる異常な現象がたくさん見られた。どうしてだろう。あの頃を思い出すと、集団で幻覚を見ていたような感じがするのだ。ご機嫌でド派手な、LAメタルが流行っていた頃。 ロック史においても、このあたりから特筆するような出来事がなくなっていく。 3月13日 青函トンネル開通 ロン・ウッドがボ・ディドリーと来日 ミックジャガーが、J・サトリアーニとS・フィリップスを連れて大興奮の初来日 4月10日 瀬戸大橋開通 10月10日 U2『魂の叫び』2枚組アルバムとドキュメンタリー映画を発表。 えー、瀬戸大橋はまさに『ブリッジ』ですけど、それだけ? いや、もちろんそれだけではないよ。この年のカメラグランプリは何と京セラの『サムライ』が受賞している。いわゆる『ブリッジカメラ』なんです。そして、この頃にはそんなへんてこなカメラがたくさん生産されていたのです。 オリンパス『イズム』、リコー『ミライ』、キヤノン『オートボーイ・ジェット』等々。ハイスペックでやたらごちゃごちゃしていて、高価で、ご陽気で、ド派手で、ぜんぜん不必要。 元々、コンパクトカメラと一眼レフをつなぐ意味で『ブリッジカメラ』と名付けられたらしく、要するにズームレンズ固定式のフルオート一眼レフなのですが、(それもスターウォーズやガンダム的なスペースチックな形をした)こんなのいる?あなた、欲しい? まさにバブル時代だからこそ生まれたカメラ。まあ、記念として持っておいてもいいかもしれないけれど……って、やめとこうねこれ以上。 『ブリッジ』その2。ミックジャガーが2年後に来日するストーンズの先駆け(橋渡し的な存在)として待望の初来日。この頃はまだ、ウドー音楽事務所だったから、整理券もらって並べばいい席が取れたんだよな。大阪城ホール。ホンキートンクでの幕開け。絶叫、跳躍、そして絶叫。 『ブリッジ』その3。『魂の叫び』このアルバムは『ヨシュア・ツリー』と『アクトン・ベイビー』の間に位置する。U2のひたむきなロックンロールが最高傑作『Joshua Tree』で昇華し、宗教性を帯びるまでになり、その後の彼らの方向性を模索していたであろう時に、彼らが彼らの方法で世に問うた2枚組アルバム。僕曰く『ブリッジレコード』(映画は前半が白黒で後半がカラーだった)言うまでもなく、U2は『アクトン・ベイビー』で華々しく、さらに進歩し、どこまでも彼ららしく再生する。 言うなれば、らしさ、というのが一番大切なのではないか。 で、ニコンに話は戻る。 このF801はまったくもってニコンらしい。バブル時代に迎合せず、らしさを貫いた逸品。8000分の1秒シャッター。ペンタプリズム。ストロボ250分の1秒同調。軽量にして最高のスペック。ニコンのオートフォーカスのはしり。信じられないかもしれないが、この頃はまだ、一眼レフのオートフォーカスは確固とした存在ではなかったのだ。まあ、そういった見方からしても、この801はブリッジ的かな。ニコンが伝統のFマウントでオートフォーカスに参戦するF4への橋渡し。十分な戦闘能力を持った脇差し。 そうです。やっとここに来ましたね。 僕にとって、ニコンF801は1尺9寸5分の堀川国広のような気がします。 どんな時でも、太刀の代わりとして戦える、切れ味鋭い名刀。あの、ハイアイポイントの明るいファインダー、できれば、あのシャッター音を聞いてみてください。これはとても官能的です。鋼と鋼が打ち合う音みたいに。そう、きっとしびれますよ。 何はともあれ、僕はついに底なし沼のニコンを手にし、ついに、バンバラバンバンバンのゴレンジャーを揃えました。 50mm 1.8については、この先、時間があれば……。 |






