日溜まりの樹の下で

Happy New Year! 2019年もよろしくお願いします。

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平和と穏やかさを

書くべきかどうか、よく分からず、結局今になってしまったが、
例のイスラム国に人質になった日本人二人は帰らぬ人となってしまった。

こんなに落ち込むニュースは久しぶりだ。
そして、このイスラム国関連のニュースは毎日続いている。昨日は、アメリカ人の若い女性も殺害され、
そして、世界はどんどん、憎しみでいっぱいになっていくように思える。

日本の首相の対応については、色々言われているけれど、
私は「戦う」とか、「許さない」という発言は、どうも世界に対し、戦争をしないと約束した国の発言としては、いいのだろうか、と思ってしまう。

私が日本人として誇りに思うのは、過去に何があったにせよ、「二度と戦争を起こさない」としている姿勢なのに。
こんな国は、日本とスイスぐらいでしょう?これは、誇りに思わなくてはいけない。
戦わない正義。それが、日本にあることは、本当に素晴らしいことだ。

どうか、軍事主義にだけは走ってほしくない。

犠牲になった、湯川さん、後藤さんの色々な記事を読むと、
特に後藤さんが命をかけて、呼びかけたかったことが伝わってきて、
そして、それは、絶対に「報復」ではないと思える。
後藤さんの伝えたかったことは、平和への願いなんじゃないだろうか。
彼のすべてを受け入れたように見える死の直前の姿を、私はビデオできちんと見ることさえ、辛くてできなかったけれど、それでも、色々な気持ちが伝わってきた。

日本には彼らを責める人もいたり、自己責任だという人もたくさんいる。けれど、そんな言葉も、ちょっと悲しいというか、私としては、今言うべきことは、違うような、、、と、違和感ばかり感じてしまう。
今世界に満ちている、憎しみ、恨み、怒りの渦に入り込んでしまっているような。。。そんな感じがする。

そんな中で、ヨルダンの人たちが、ろうそくを灯しながら
「We are with Kenji」(私たちはけんじと共に居る)とさけんでいたのを見た。
外国人の人のために、そうやって祈ってくれるヨルダンの人たち、この行為はなんと素晴らしいんだろうと心打たれた。私たちは、外国の人のために、そういうことをしようって思わないんじゃないだろうか。

なんとなく、これこそ、私たちが今するべきことなのに、と思わされた。
中東って、とても日本人が知りえない遠いところで、私もよく分からないエリアだ。
イスラム国は、まったく理解ができない。でも、同じ中東にも、こんな人たちもたくさんいるんだろうなと。

私は、相変わらず、小さくて、祈ることしかできないけれど、
とにかく、殺された日本人の二人、それから、ヨルダンのパイロット、処刑されたイスラム国の女性、
アメリカ人の殺害された女性、他すべての犠牲者のために祈る。

この憎しみに満ちた世界が早く平和に近づきますように。少しでも穏やかになりますように。

祈りが届きますように

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今日は友人に誘われて、隣の町のいつも行く教会とは別な教会へ行った。

この教会に来るのは、これで5回目。自分の教えてる学生さんのお父さんが時々説教をするということで、その学生さんに誘われて来たのが、きっかけ。でも、今はその子はここには住んでいない。

でも、別な友人がここに来ていて、一緒に行こうと時々誘ってくれる。
ここは、私のいつも行く教会とはまったく違うタイプの教会で、来ているのは若者ばかり。音楽はクリスチャンロック、ギター、チェロ、ドラムで演奏し、伝統的な賛美歌もアレンジされて歌われる。

こんな現代的な雰囲気だけれども、若い人たちの祈る心はよく伝わってくる。
歌を歌う時、祈るの強い思いが集まっている人たちの顔や態度からしっかりと。

自分でもここでバンドの音楽に合わせて、歌を歌うと、
心が高まってくる。涙が出そうになる。

今日も、ここに来て、色々なことを考えさせられた。

私が今強く心の中で祈っていることは、

「イスラム国」に捕われている二人の日本人の二人の男性のことだ。映像やニュースを見てから、本当にずっと常に私の祈りは彼らのことばかりだ。今の時点では、一人はもう殺害されてしまったかもしれないとされているけれど、どうなのだろう。

この世の中に、こんな恐ろしいことを平気で行う組織があって、それが宗教に根ざしているのだから、まったく驚く。でも、まったく関係のない私が見ていても、本当に心を引き裂かれるようなあの映像を一体彼らの家族はどうやって受け止めるのだろうか。

情けないけれど、私にできることは祈ることしかない。
どうか、どうか、無事に救出されますように。
殺されたとされている情報が間違っていますように。

たくさんの祈りが届きますように。。。。


クリスマス礼拝

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今年のクリスマスは家で過ごす事になっつた。
夫の実家は感謝祭の休みに行ったので、今回は夫婦二人でお友達を二人我が家にご招待してということにした。これからお料理だ。

昨夜のクリスマスイブは私の教会へ、Mr.Dと、、、そして、去年もそうだったが、
以前の夫のご両親と一緒という面白いメンバーで。笑。
最近、Mr.Dはめっきりこの前の夫の両親と仲良くなり、一緒に教会へ入っていく姿はまるで本当の親子のよう。

今回は、この子供たちによるベル演奏でスタート。
前の二人が頑張ってる感じがとてもかわいかった❤

そして、コーラスの皆さんがどんどんクリスマスの曲を演奏し、、、

最後にキャンドルサービスが。

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壇上にあるアドベンドキャンドルの火をみんなで分け合って、
歌いながら火を灯していくのだ。

このサービスが私はとても好きである。
皆で静かにイエス様の誕生を祝う。
普段教会に来ていないような人たちも来て一緒に祝う。
この暖かい雰囲気が大好きだ。

夫のMr.Dも普段はここに来ないけれど、
このクリスマスのサービスには一緒に来てくれる。
そして、この前の義父母と一緒に祝ってくれる。この姿を見ると、
アメリカ人の心の広さを身にしみて感じる。

前の夫の義父母にクリスマスのギフトもいただいた。
猫と犬の置物、クロスのイヤリング、そして、お金まで!! これは、ちょっと二人でびっくりした。
以前、前の夫と家族だった時はこの義母によくプレゼントにお金を頂いたが、
離婚してからは普通のプレゼントを頂いていた。やはり家族でなくなったのだから、そういうものだろうと思っていたのだが、今回また同じような額のお金を頂いたのだ。

一緒に入っていたカードに「Mr. D...私の娘の〇〇子を幸せにしてくれてありがとう。」
と書いてあって、涙が出た。

Mr.Dと一緒になって、そして、面白い形で
また夫婦共々家族の一員として
受け入れられたような。。。
そんな感じがした。

神様、ありがとうございます。
どうか皆が幸せなクリスマスを迎えていますように。


クリスマスイブの教会

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クリスマスイブの夕方、教会のキャンドルサービスに行ってきた。

毎年前の夫の義父、義母と行っているのだが、

今年はなんと!!Mr.Dも一緒に。

ということで、以前の夫の義父母と今の夫の四人という面白いメンバーに!

でも、義父母も教会の人たちもとても温かい目で迎え入れてくれた。
前の夫と結婚した時の牧師さんも来ていて、(今の牧師さんは違う方)
紹介したら、
「おお、よかった。幸せになって。」と言って握手してくれた。
本当は神の前で添い遂げると約束したはずなのに、
また再婚して、
ちょっと後ろめたいというか、どうしたらいいのかなと思ったりもしたのに、
優しい笑顔で、挨拶してくれて、

本当に嬉しかった。

でも、一番嬉しかったのは、Mr.Dがここに来てくれたこと。
Dはクリスチャン子供の時、洗礼を受けてはいるが、教会に行くこともないし、家族が途中で教会に行かなくなり、すごく違和感があると言っていたからだ。

「どちらかと言うと、日本で寺に行くほうがいい。もっとしっくりする。」とまで言う。笑。

でも、「君にとっては大切なことだから。僕は行くよ。」と言ってくれた。

前の夫の義父母もとても喜んで一緒に行ってくれた。

こんな愛情ある人たちと
イブを教会で過ごせたこと、

本当に幸せに思う。

ありがとう、皆さん。

舌は火である

ヤコブ 3:5- 3:10 より。

「舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ごらんなさい、あのように小さい火があのような大きな森を燃やします。

舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、体全体を汚し、人生の車輪を焼き、
そしてゲヘナの火にやって焼かれます。

どのような種類の獣も鳥も、はうものも生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。

しかし、舌を制御することは、誰もできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

私たちは舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌を持って、神にかたどって造られた人をのろいます。

賛美とのろいが同じ口から出ているのです。私の兄弟たち、そのようなことがあってはなりません。

今日、教会で読んだ聖書の一節ですが、

ちょうど、色々なことで、それをその人に伝えることの周りへの影響などを考えて悩んでいたところだったので、
この一節が心に染みました。

いわゆるゴシップは、たとえそれが小さなことであっても、大きな火となり、そして、自らをも焼きつくす。
そんな気がします。でも、舌を制御する、それはとても難しいことです。でも、制御しなくてはならないのだと心から思いました。

最近、教会へ行くと、その時自分の必要な言葉がちょうど説教に使われるので、とても不思議に思っていたら、
一緒に行ったお友達も同じことを思ったと言いました。

今日はそのお友達が実は洗礼を受けたのでその人の教会に行って、この言葉をたまたま読んだのですが、
それも意味あることなんだろうと思いました。




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