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上の写真のAは大河内山荘横の展望所だが、ここから保津川峡谷を行くトロッコ列車が、また川下りの船を撮影できるが、トロッコの通過時刻が解らないと撮影は難しいし、望遠レンズも必要。峡谷の景観を入れるには標準ズーム科、広角系のズーム、船と乗客をクローズアップするには望遠、カメラは2台必要だ。Bは天龍寺。ここは一番写真が撮り易い。Cは旧嵯峨御所で、回遊式庭園の園池である大沢池の堤から多宝塔・大覚寺側をショットするのが観光写真撮影の定番。大井川(桂川/保津川)河畔より、周恩来の記念碑の脇を通り、Aに至る川寄りの坂道にはたくさんのカエデ類が植えられており、紅葉写真の有名な撮影スポットの一つとなっている。
【解説】
王朝時代における現在の天龍寺・清涼寺・大覚寺界隈だが、平安中期には嵯峨天皇の皇后の橘嘉智子(壇林皇后)が壇林寺、嵯峨天皇の皇子:源融(みなもとのとおるhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%9E%8D)の山荘:栖霞観(現在の清涼寺、おそらく『源氏物語』の嵯峨御堂)そして嵯峨天皇の離宮(嵯峨御所、現在の大覚寺)が中核的施設。壇林寺界隈は鎌倉時代には当時の天皇の離宮(亀山天皇の「亀山殿」)となり、大井川河畔の川端殿(現在の臨川寺)とともに荒廃した当時の洛中から疎開してきた公家政権側の権力中枢の置かれたところ。
天龍寺(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%BE%8D%E5%AF%BA)は亀山天皇の御所(亀山殿)跡に尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために建立したもので、他方、臨川寺(現在拝観中止)は鎌倉ー室町時代は川端殿という後醍醐天皇の皇子が相続した離宮が寺院化したものだが、無論、この地区の中核寺院は天龍寺で、ここの大方丈の南西角から見る曹源池周りの南方の嵐山あるいは松尾山や北西方の愛宕山を借景とした庭園の秋は絶品です。昭和の建築物:多宝殿内には後醍醐天皇の木彫が安置されている。
高感度が使えるカメラならこの禅寺のエッセンスを余すことなくショット出来るでしょう。しかし、教養がなければ、観光客の大半がそうであるように、そのエッセンスは目に入らないかも・・・。
平安時代中期の天皇:嵯峨天皇の離宮が現在の大覚寺です。鎌倉時代には北条氏によって公家政権側は大覚寺統と持明院統に分裂させられ、弱体化させられますが、大覚寺統のルーツはこの寺でした。後醍醐天皇ら南朝方の皇統がそうですね。
王朝時代には平安京内に墓所が作れませんでしたので、東山・嵯峨のような洛外には天皇や公家たちの山荘や墓所(それが寺院)が造立されました。『源氏物語』の宇治(宇治十帖の舞台は宇治市東部一帯、宇治市の木幡には藤原道長の建立した浄妙寺=現在の木幡小学校一帯)や親鸞が生まれ鴨長明が疎開(隠遁)した日野はその隣接地ですが、この界隈は王朝時代には王権を喪失した皇族たちの隠遁の場、人生の晩秋を送るところだった。
まさにautumnはfallでもあったわけだ。
人生の晩秋→葬送の地は東山の鳥辺野が有名だが、これと同様に嵯峨野はかれらの葬送の地なった。
室町時代には尊氏は天龍寺建設の予算をねん出するために天竜寺船を仕立て、対中国貿易の利益をその造営資金に充当する。その関係でこの一帯は商社員でもあり、通訳・外交官でもあり、また中国伝来の当時としては最新の医学・工学等様々の学芸の研究者でもあった禅僧たちが天龍寺界隈にはたくさん居住し、とくに臨川寺などは当時、わが国における中国書の一大印刷工場を兼ねた。足利将軍たち子弟たちはこの地区の禅寺に預けられ、学僧たちから「帝王学」を伝授された訳である。
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