地球のしずく

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随身門を左に折れて鳥居をくぐり境内を抜けました。府中街道を左へ道なりに歩きます。イトーヨーカドー辺りからはじまる長い下り坂は御殿坂と呼ばれます。「江戸名所図会」には、「家康が国司の館跡に御殿を建てた」と記されています。府中御殿は、家康が江戸城に入城した天正18年(1590)に、家康は奥州征伐を終えた豊臣秀吉をもてなすために建てたと伝えられています。
 
イトーヨーカドーの立体駐車場のあった場所の発掘調査によって府中御殿の存在は裏付けられました。
その御殿は正保4年(1646)の府中の大火で焼失すると再建されることはありませんでした。
 
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坂を下り降りると左手に神社がありました。真言宗豊山派本覚山妙光院真如寺の境外仏堂金比羅堂でした。本来大国魂神社からは墓地へと通じる地獄坂、別名暗闇坂から金比羅坂を通って来るのです。金比羅坂は明治末頃にハケ下から参詣するために創られたものです。文化13年(1816)に改築された金比羅堂は妙光院の鎮守堂で「金比良宮」の扁額が掲げられていました。
 
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多摩八十八ヶ所霊場 第23番札所 延命地蔵菩薩
 
妙光院 御殿地ノ東ノ方ニアリ本覺山真如寺ト號ス新義真言宗京都仁和寺ノ末御朱印一五石ノ寺領ヲ附セラル末寺門徒凡二十三院ヲ統フ本尊地蔵木ノ坐像長一尺六寸胎蔵ニ行基ノ木像アリト云又木像ノ不動アリ長一尺三寸立身弘法大師ノ作本尊ノ側に安ス當院ハ貞観元年真如法親王ノ開山ニテニ世慈済僧正也ト云後遥カノ星霜ヲヘテ元亨十一年法印宿源修理ヲ加ヘシヨシ東照宮此邊へ御遊猟ノ時屢當山ヘ駕ヲ寄ラレシヨシステニ此ホトリニ御殿地アリソノ頃賜ハル所ノ蜀紅錦の袈裟ナリトテ今ニ寺宝トス大猷院殿モ當ニ御入アリテ御筆ノ黒書ヲ下サレシコトアリ是モ今ニ秘蔵セリ慶長中管ノ修復ヲ加ヘラレシコトアリ寛永十一年御殿鬱収ノ災ニ罹リシ時此寺モ同ク烏有ス其時ハ御殿興榮ノ餘財ニ白銀五貫ヲ添テ再建ノ料ニ下サレシヨシ同十七年工全ソ竣セリ元禄ノ頃ヨリ官ノ修造ヲ停ランシト云境内西福寺跡トテ除地十五歩ノ所アリ西福寺ハ當山ノ子院ナリトソ其廃セシ年歴ヲツタヘス
 
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貞観元年(859)行基菩薩の刻んだ地蔵菩薩を本尊としてこの地に安置された真如法親王の開山、弟子の慈済僧正が開基と伝えます。1,200年の風雪に耐えてきた古刹で、戦国時代には八王子城主北条氏照が帰依、江戸時代には徳川家康が帰依し御朱印地15石を寄進され、第3代将軍家光の篤い帰依を受けました。近在に28の末寺を有するなど、その繁栄ぶりは抜きんでていました。
 
家光からは数々の品物を下腸され、寺宝として今に伝えています。八王子城主北条氏照が護摩供をされた際の礼状が2通、また山号扁額、吉祥天像、百観音像、宝篋印塔、金銅蓮華形磬等が、寺宝とされています。
 
寛永11年(1634)に災禍に遭い、明治5年(1872)の大火では悉く鳥有に帰しましたが、昭和42年(1967)に本堂が再建されて、伽藍が整いました。
 
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妙光院の隣接地に天台宗叡光山安養寺がありました。貞観元年(859)、慈覚大師により開山され、その後、 永仁4年(1296)に中興開祖、尊海僧正が勅命により再興した古刹です。ご本尊は阿弥陀如来坐像、江戸時代は大国魂神社の別当寺でした。寺格は徳川家康公より15石の朱印境内除地を賜るとともに徳川幕府代々、当山住職が江戸城賀正登城の折りには色衣を着用し、 また 乗輿独礼をもって例としました。 明治16年(1883)には世良田長楽寺の末寺を離れ延暦寺の直轄寺となりました。
 
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「絵本・たぬきのお坊さん」府中市教育委員会
 
昔、等海僧正という坊様が住職をしていた頃、筑紫三位という若い僧が弟子入りを申し出ました。入門を許された三位は住職が感心するほどに一心に修行しました。3年を過ぎたある春の日、桜を見ようと寺の縁で柱にもたれていた三位はつい居眠りをしてしまいました。そこへ僧正がやって来て三位の後ろにふさふさした尻尾が出ているのに気づいて大変びっくりしました。三位は狸だったのです。正体を知られた三位はもはや寺に留まることは出来ないと、僧正にいとま乞いを申し出ました。
 
そして長年の恩返しにと、僧正に明日の夕暮れ人見ヶ原に来てほしいこと、そしてどんなことがあっても合掌だけはしないようにと告げました。僧正は告げられた通り人見ヶ原に行くと、どこからともなく美しい楽の音が聞こえ、五色の雲が棚引いて、彼方の浅間山辺りに、絢爛たる多宝塔が現れました。あまりの荘厳さに僧正は思わず合掌してしまったのです。するとたちまち塔は跡形も無く消えてしまい、あとにはただ三位の書簡だけが残されていました。僧正はこれを持ち帰り寺宝として大切に保管したという。
 
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鮎鷹に 黛ひくく 多摩の山  白草居
 
鮎鷹というのは徳川将軍が鮎捕りや鷹狩りを楽しんだこと。白草居は、高浜虚子の弟子の一人です。
 
本堂は寛政元年(1789)に再建されました。明治初年頃まで寺子屋としても使用され、 また、 明治8年6月には本堂を仮校舎として府中学校が成立するなど庶民への教育普及の役割も担っていました。 本堂中央には本尊秘仏弥陀三尊、 御前立の阿弥陀如来等が安置され、左脇間には元三慈恵大師御影、不動明王等、 右脇間には昆沙門天・吉祥天・善膩師童子が祀られています。
 
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多摩川三十三観音第5番札所
 
観音堂は明治44年ア(1911)に建立されました。 中央には浅草寺御分体の観世音菩薩、 左右に不動明王・荼枳尼天が安置されています。山門は高麗門様式で 棟札から天保4年(1833)に再建されました。
 
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車道を挟んで右手が競馬場、左手がハケ下の遊歩道となってました。天神坂の上の右手には日吉神社があり、その裏に日吉神社と背中を合わせるように小さな祠の天神社がありました。実は安養院でカメラが電池切れで、本堂を写せません。大いにあせりました。もう一度訪れなさいということなのです。
 
天神坂の名は大国魂神社の末社「天神社(あまつかみのやしろ)」が祀られている天神山に由来しています。競馬場から旧甲州街道まで広がる丘陵一帯は天神山、または国司の居館があったことから国造山と呼ばれました。天神社は少彦名命を祀る神社で武蔵総社が成立する以前からありました。
 
天神坂の坂下に妙見大菩薩と馬頭観世音菩薩が祀られた小社が並んでいて、3体の大きな馬頭観世音がありました。電池をこすり何とか1体を写真に収めることが出来ました。隣には競走馬の慰霊塔がありました。
 
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府中競馬場正門前交差点から普門寺前交差点を抜け八幡宿交差点から小金井街道に入りました。京王線にぶつかりこれを左折、京王線府中駅近くの喫茶店で休憩をとり、はじめに通った「けやき通り」の出発点に戻りました。ここで携帯があることに気付きました。左折したところにある公園に「遷都くん」がたくさんいたので、ここから再び写真で記録します。撮りこぼした神仏は次の機会に報告します。
 
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歩いているのは川越街道でした。分倍河原駅に行くには道を大きくそれているようです。旧甲州街道へと向かいます。 
 
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古木山諏訪院長福寺がありました。寛喜2年(1230)、一遍上人が開山し、天台宗勝福寺と称して創建された古刹で、その後、正応年間(1288〜1292)に遊行二祖真教の武蔵国巡化の際に時宗遊行派に改宗されました。六角形の御堂に合掌させていただきました。
 
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旧甲州街道らしいたたずまいが見られました。
 
 
勤行
 
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昨日は終日デスクワークでした。夕方、2つ先の町を巡礼しました。合掌。
 
 
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