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ゼームス坂の万愚節

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JR大井町駅から仙台坂に向かって最初の信号機にゼームス坂の表示があります。その信号を左折すると国道一号線に向かう坂があります。この坂は元は浅間坂と呼ばれる急坂でしたが、坂下付近に住んでいたジェームスが住民たちの難儀を知ってより私財を投じて緩やかな坂に改修しました。

それ以来この坂はゼームス坂と呼ばれるようになったということです。太平洋戦争中、我が国においては外国の言葉はもちろん、横文字のカタカナは統制されて一切使うことができませんでした。しかし、この「ゼームス坂」だけは唯一例外でした。


山梨県身延町の日蓮宗総本山久遠寺に一人の外国人の墓があるのをご存知でしょうか。

明治四十一年(1908)、横浜のとある病院で七十一歳の生涯を終えた英国ジャーデン・マディソン商会長崎支社元社員、ジョン・M・ジェームスの遺体は自宅に運ばれて朝夕礼拝していた純銀製の釈迦牟尼佛、文殊菩薩、普賢菩薩の下へと横たえられました。そして、日蓮宗の導師豊永日良師によって葬儀が営まれました。

「私が死んだら火葬にして、その灰を富士山の白雪の上に撒いてくれ」と口癖のように言っていたジェームスは、日本への永住を決意したときから仏教に興味を持ち、日蓮宗宗学者の小川泰堂師に仏教を学んで日蓮宗に帰依していました。

そして戒律を守る生活を送り生涯妻帯しませんでした。息を引きとる数日前に突然「私の遺骨は身延山に」と遺言し、臨終の際には法華経を唱えて目を閉ざした、と伝えます。

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義関臣

その遺言に従って、親友の義関臣(よしおみ)らによって久遠寺にお墓が建立されました。

後に男爵となった福島県出身の関は学問を好み嘉永四年(1852)から剣術・槍術・弓術・馬術・砲術を修業、藩校の明道館に学ぶと、藩校幹事の橋本左内に非凡の才を認められ、文久二年(1862)江戸へ出て昌平坂学問所へ入学、元治元年(1864)には書生寮の舎長を務めました。

慶応二年(1866)十二月のこと、全国をわたり勤皇運動に挺身していた関は長文の意見書を携え長崎の坂本龍馬を訪ねました。このとき龍馬は関の意見書を読んで、おおいに意気投合したそうです。前年、龍馬によって結成された浪士の貿易結社、亀山社中の一員となり、発展的に名称変更した私設海軍の貿易会社「海援隊」にも所属しました。この「海援隊」に協力していたのがこの年来日した英国船ローナ号の船長、キャプテン・ジェームス二十八歳でした。

関は龍馬の勧めもあって、イギリスへの密航を決意しました。慶応三年(1866)7月10日、ローナ号で長崎を出帆、上海から香港を経由してシンガポールに向かいますが、大暴風雨に遭遇して船は沈没、乗組員とともに上陸すると今度は海賊にとり囲まれました。一難去ってまた一難です。ジェームスらはピストル、関らは日本刀で応戦して、ようやくこれを蹴散らしましたが、二人はイギリス行きをあきらめて日本に戻ることにしました。以来、二人は篤い友情に結ばれ、ジェームスは日本にとどまる覚悟をしました。

当時、ヨーロッパ諸国は植民地政策の中でキリスト教を大いに利用していました。ジェームスは上海や香港あたりで布教している宣教師たちの悪どいやり方を関に話し、その怒りをぶちまけました。このときから、日本仏教の自らを律する穏やかな信仰に次第に惹かれていきました。

日本人となったジェームスは明治五年(1872)に海軍省に入省、イギリスからの軍艦の購入方法を教え、測量調査や航海術の指導に従事しました。横浜鎮守府顧問、海軍省顧問、逓信省顧問などを歴任して、終には日本海軍の父と呼ばれるようになりました。明治二十三年には政府より終身年金を受け、その五年後には勲二等旭日賞を受勲したのです。

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その坂の途中左手に入る道があります。「智恵子の『レモン哀歌』の碑はこちら」という案内板があります。しばらく歩くと左手の大きなマンション入口に「三越ゼームス坂マンション」とあり、次のように刻まれています。

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ゼームス 邸跡地について

 此の処は南品川英国人ジョンMジェームス邸跡地である。
 
 Mジェームスは慶応二年(1863)二十八歳の時来日した。そして坂本龍馬等とも知り合い、後に日本海軍創設に貢献。明治五年海軍省雇い入れ以降幾多の変遷を経て住まいを此の地に構え隣人に慕われつつ明治四十一年七十歳にて没した。

 墓は身延山山本堂浦山に在り「日本帝国勲二等英国人甲比丹ゼームスの墓」と刻まれている。

 その頃のジェームス在り日を偲ぶ庭の欅 も品川区の保存指定樹として樹齢百十年の姿そのままに苔むす石垣と共に昔の面影を今に止めている。

昭和五十八年十月

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ゼームスの碑から道一つ隔てたところに階段があり、桜の木の下に彫刻家高村光太郎の妻、智恵子の「レモン哀歌」の碑があります。そこは、かつて智恵子が亡くなったゼームス坂病院の跡地がありました。

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「レモン哀歌」碑は高太郎が智恵子の最期の様子を描いた直筆原稿の写しでもあります。

                  レモン哀歌   高村光太郎

          そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
          かなしく白くあかるい死の床で
          わたしの手からとつた一つのレモンを
          あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
          トパアズいろの香気が立つ
          その数滴の天のものなるレモンの汁は
          ぱつとあなたの意識を正常にした
          あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
          わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
          あなたの咽喉に嵐はあるが
          かういふ命の瀬戸ぎはに
          智恵子はもとの智恵子となり
          生涯の愛を一瞬にかたむけた
          それからひと時
          昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
          あなたの機関ははそれなり止まつた
          写真の前に挿した桜の花かげに
          すずしく光るレモンを今日も置かう

                        詩集『智恵子抄』より

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ゼームス坂に戻り、坂下へと歩きます。左手に鎮座するのは東間森稲荷です。「東間森」とはご祭神倉稲魂命を守護する狐の棲んでいた「稲荷森」のことかと思われます。「十間森」とか、それぞれ、その地にちなんで漢字を当てた例は多く見られます。創建年代は不詳です。古くは熊野社(ご祭神伊邪那岐命 伊邪那美命)でした。後に宇迦之売命が勧請され稲荷守稲荷社と改称、相殿に祭神伊邪那岐命 伊邪那美命が祀られ、後に東間森稲荷神社と改称されました。

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道の反対側です。懐かしい昭和の匂いがします。品川区には、このような建物があちらこちらにまだ残っています。

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その並びには馬頭観音堂があります。ゼームス坂(浅間坂)を登るのに馬が交通手段に使役されたので安全を祈願して,馬頭観音が祀られたそうです。

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ゼームス坂の一番下に曹洞宗瑞雲山天龍禅寺があります。江戸時代、ここ南品川宿の曹洞宗瑞雲山天竜寺の他に下谷新坂本町の曹洞宗功徳山天竜寺、谷中三崎の臨済宗海雲山天竜寺、内藤新宿追分禅宗曹洞派護本山天竜寺と三ヶ寺ありました。江戸城近くの下谷新坂本町の功徳山天竜寺は徳川家康が、ここ瑞雲山天竜寺の二世住職嶺育を篤く信頼し、嶺育を住まわせるために下谷に同名の寺を建立したものです。

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ゼームス坂を下って突き当たった東西の道は、品川宿から碑文谷仁王尊(碑文谷法華寺、現在の円融寺)へ向かう碑文谷仁王道といわれていました。そこにある天龍寺本堂の左側、墓地への入り口の脇に大きな耳に手をかざし何か物音を聴いているような姿の小さな三体のお地蔵さんは「碑文谷踏切責任地蔵尊」といわれています。

大正七年(1918)五月十八日深夜、M銀行の行員が大崎の自宅に帰るため品川駅から人力車に乗り碑文谷仁王堂に入りました。東海道線までの急勾配の上り坂を登り、現在は隧道になっている碑文谷踏切にさしかかった時遮断棹は上がっていました。

その時当直の踏切り番は二人。しかし、一人が仮眠中で一人が居眠りをしていたため遮断棹を下ろさなかったのが原因でした。当時踏切り番は激務にもかかわらず朝七時交代の一昼夜勤務であったため、みんなは過労から居眠りをしてしまったのだろうと話し合っていました。
 
しかし、二人は事故の責任を痛感し、事故直後大井町駅寄りの線路上に身を伏せて命を絶ちました。当時の都新聞(東京新聞の前身)にも「会葬者皆泣く葬儀」と二人の踏切り番の死を悼む記事が掲載され、多くの人の同情を誘いました。

天竜寺の「碑文谷踏切責任地蔵尊」は、この事故で亡くなった行員と踏切り番の供養のために造立されたものでした。

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国道一号線の手前右側にあるのが時宗深広山無涯院海蔵寺です。永仁六年(1298)藤沢遊行寺二祖他阿真教上人が、宗祖一遍上人の教えを継ぎ、念仏をすすめて諸国を巡化の途中、たまたま当地にとどまること三年間、多くの衆生を教化された時に、妙覚庵運心称する妙好人があり、上人の徳風に帰依され、祖先伝来の三尊仏を上人に寄進し、伽藍を結構して運心の寄附の三尊仏を安置したのが現在のご本尊です。

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江戸時代に入り、品川宿がおかれ、ここで死亡した人達も葬られました。元禄四年(1691)から明和二年に至るまでその数七万余人といわれています。宝永五年(1708)七月八日、土地の有力な信者の集まりがこれを改葬し、その骨を集め、墳墓を築きその上に観音像を安置した塚が巷間に伝えている「頭痛塚」です。頭痛を病めるものがその平癒祈願をすると利益があるといって、香煙の耐えたことがないと伝えています。

この塚に,天保の大飢饉(1833〜1840頃)の折に亡くなった二百十五人を祀る「二百十五人塚」も合葬され、また当時鈴ヶ森刑場で処刑された人の首の一部や、品川遊郭に於いて死亡した遊女等も埋葬されて、総称を「首塚」と名付けられました。

この首塚の他に,慶応元年(1885)に造立された「津波溺死者供養塔」、大正四年(1915)造立の「京浜鉄道轢死者供養塔」、昭和七年(1832)造立の「関東大震火災横死者供養塔」などが建立されています。いずれも無縁の横死者の霊を供養するもので,海蔵寺は品川の「投込寺」と呼ばれています。

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