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霊のこと

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 つい先日、友人から、カミさんを通してこんな相談を受けました。担当していたお爺さんが事故で亡くなったそうです。彼女は、東京で介護師をされている3人の子どもの母親です。
 夜勤で深夜廊下を一人歩いていると、背中から首筋に、その霊魂を感じるそうです。誰に話をしても分かってもらえず、まして夫にも笑われてしまう。悶々としていた時に、私なら聞いてくれると思った、といいます。

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 そんなことがあろうと、すでに寒川神社のお札と「清め土」を渡していました。富士浅間神社や森戸神社などは「お砂さん」と呼びますが寒川神社は神嶽山の「清め土」。どちらも効用は同じで、最強です。
 「お爺さんの部屋の入口とベランダの戸口の左右にパラパラっと撒いて、ついででいいから近くの神社か仏閣で、お爺さん出てこないでください、成仏して下さいとお願いすればすぐ消えてしまうよ。まあ、お札を身に着けていればなおいいですよ」
 解決です。二日目にお礼の電話が来ました。

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 叔父のいる施設でも、同じ階で亡くなられた方が、真昼の廊下を歩いている姿を何度か目視しました。その姿は儚く消えますが、自分には当たり前のことと思っています。藤の咲く4月17日の夜中、応接間に年配の女性がいました。「結界」をしてあるので、浮遊している霊魂であるはずがありません。昨晩、こんな人がいたけれど、友人の命日を調べて、と義母にいうと、やはり友達でした。

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 5月、またしても知らない女性が応接間から、義母の部屋へ。前回の友人よりもずっと若い感じです。この方の特徴をいうと、若くして亡くなったお姉さんかもしれない、といいます。仏壇に飾ってある小さな写真をみると、確かに昨晩の人でした。
 それから数日後、義母は救急車で病院へ。助けに来られたのかもしれません。大難は確かに小難に転じていたのですから…。

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不思議なことは此岸にはたくさんあります。桜の下から嫉妬や憤怒に女性が鬼に変身した般若が出てくる話はお能の世界でも多いですね。般若とは、悟りを得るための智慧であるとは仏教の用語です。嫉妬や憤怒を乗り越えるのも修行の一つなのでしょう。

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大井町の飲食店の並ぶ裏通りです。この看板、悪趣味ですが現世の人々の心をよく顕しているようにも思えます。理解のできないことは彼岸よりも此岸に多い。酔って喧嘩を売る人々よりも霊魂の方がずっと優しいに決まっているのです。

◎ヤフーブログはこのまま最期まで継続していきます。
併行してアメーバブログを開設しました。https://ameblo.jp/nori1948です。

三冊子

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 京都宇治にある曹洞宗寺院で得度された岩佐晋風さんを思い出します。私は晋風さんに後押しされ、紙パルプ倶楽部俳句会に入りました。二十四歳の時でした。その後、晋風さんは業界紙の記者から生命保険会社に転職して定年を迎え、シベリア抑留中に亡くなった仲間を供養するために僧となるべく修行に励みました。
 晋風さんは私を俳句会に送り込んだ後には会から遠ざかりました。数年の修行を経て僧籍を得ると平成三年に、念願の『虜囚〜一兵士の視点』を自費出版し、捕虜となった軍幹部の横暴ぶりを世に曝しました。その本が私の手元に届いて間もなく、晋風さんは亡くなりました。
 紙パルプ倶楽部には短歌会と俳句会があって、短歌会はアララギ派の大御所で紙塑人形人間国宝の鹿児島寿蔵翁が先生、俳句は大御所富安風生翁が先生でした。私の入会した時は短歌は鹿児島寿蔵翁の弟子利根川保雄先生、俳句は富安風生翁の弟子橋本花風先生に『草茎』主宰の宇田零雨先生が加わっていました。

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 この二つの会は小野青人さんが世話人としてご尽力されていましたが、青人さんに頼まれて短歌も一年余り勉強させていただきました。青人さんは満州で役人をされていた方で、台湾の元商務大臣で実業家の友人である楊さんはハルピン市長でした。後に私は楊さんに台湾で大変にお世話になりました。終戦の時に岸信介、佐藤栄作兄弟をひそかに日本へと逃したのは私です、と訊かされ驚いたものです。
 俳句の会はその後、宇田零雨先生一人になりました。零雨先生は松尾芭蕉研究、連句研究の権威であり、また『草茎式俳諧』の宗匠でもありました。そこで、俳句会では芭蕉の連句、三十六歌仙の勉強会と並行して、さっそく多くの連衆が参加できる「付勝歌仙」が興行されました。

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 芭蕉十哲のひとり服部土芳の『三冊子』に芭蕉の言葉が載っています。
 「たとへば歌仙は三十六句なり。一歩も後へ帰る心なし。行くにしたがひ心の改まるは、ただ先へ行く心なればなり」
 振り返ることなく先へとすすむべし、は人生訓にも似ています。こうやって、五七五、七七と連句は進みます。
 歌仙を巻くルールは様々な取り決めがあり複雑に見えますが、これを覚えるのもまた楽しい。たとえば、定座(じょうざ)というものがあります。動かせない場です。二花三月(にかさんげつ)といって花の句が二ヶ所、月の句が三ヶ所、三十六句の決められた場所に散りばめられます。
 人生には二度華々しい時がある、また三度は清々しいことがあるであろう、ということなのです。

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 これらのルールは捌き手、すなわち宗匠によって指示されるので、ルールをすべて覚えようとしても無理があります。楽しみながら参加する。背伸びしたところでどうにもなりません。これも人生哲学です。
 そうこうしているうちに俳諧を十年以上楽しませていただきました。三十六句の発句は後に俳句として独立、脇句の五七五は点者(宗匠)河合川柳によって川柳として独立しました。
 三十六句の最後の句を揚げ句といいます。直接的ではありませんが、発句に一脈通じているのを良しとします。二人以上の座で誰も読むことのできない一つの人生を構築する、芭蕉の素晴らしさに乾杯です。
 ちなみに三十六句最後の揚げ句ですが「揚げ句の果て」という言葉は、ここから生まれたのものなです。

ゼームス坂の万愚節

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JR大井町駅から仙台坂に向かって最初の信号機にゼームス坂の表示があります。その信号を左折すると国道一号線に向かう坂があります。この坂は元は浅間坂と呼ばれる急坂でしたが、坂下付近に住んでいたジェームスが住民たちの難儀を知ってより私財を投じて緩やかな坂に改修しました。

それ以来この坂はゼームス坂と呼ばれるようになったということです。太平洋戦争中、我が国においては外国の言葉はもちろん、横文字のカタカナは統制されて一切使うことができませんでした。しかし、この「ゼームス坂」だけは唯一例外でした。


山梨県身延町の日蓮宗総本山久遠寺に一人の外国人の墓があるのをご存知でしょうか。

明治四十一年(1908)、横浜のとある病院で七十一歳の生涯を終えた英国ジャーデン・マディソン商会長崎支社元社員、ジョン・M・ジェームスの遺体は自宅に運ばれて朝夕礼拝していた純銀製の釈迦牟尼佛、文殊菩薩、普賢菩薩の下へと横たえられました。そして、日蓮宗の導師豊永日良師によって葬儀が営まれました。

「私が死んだら火葬にして、その灰を富士山の白雪の上に撒いてくれ」と口癖のように言っていたジェームスは、日本への永住を決意したときから仏教に興味を持ち、日蓮宗宗学者の小川泰堂師に仏教を学んで日蓮宗に帰依していました。

そして戒律を守る生活を送り生涯妻帯しませんでした。息を引きとる数日前に突然「私の遺骨は身延山に」と遺言し、臨終の際には法華経を唱えて目を閉ざした、と伝えます。

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義関臣

その遺言に従って、親友の義関臣(よしおみ)らによって久遠寺にお墓が建立されました。

後に男爵となった福島県出身の関は学問を好み嘉永四年(1852)から剣術・槍術・弓術・馬術・砲術を修業、藩校の明道館に学ぶと、藩校幹事の橋本左内に非凡の才を認められ、文久二年(1862)江戸へ出て昌平坂学問所へ入学、元治元年(1864)には書生寮の舎長を務めました。

慶応二年(1866)十二月のこと、全国をわたり勤皇運動に挺身していた関は長文の意見書を携え長崎の坂本龍馬を訪ねました。このとき龍馬は関の意見書を読んで、おおいに意気投合したそうです。前年、龍馬によって結成された浪士の貿易結社、亀山社中の一員となり、発展的に名称変更した私設海軍の貿易会社「海援隊」にも所属しました。この「海援隊」に協力していたのがこの年来日した英国船ローナ号の船長、キャプテン・ジェームス二十八歳でした。

関は龍馬の勧めもあって、イギリスへの密航を決意しました。慶応三年(1866)7月10日、ローナ号で長崎を出帆、上海から香港を経由してシンガポールに向かいますが、大暴風雨に遭遇して船は沈没、乗組員とともに上陸すると今度は海賊にとり囲まれました。一難去ってまた一難です。ジェームスらはピストル、関らは日本刀で応戦して、ようやくこれを蹴散らしましたが、二人はイギリス行きをあきらめて日本に戻ることにしました。以来、二人は篤い友情に結ばれ、ジェームスは日本にとどまる覚悟をしました。

当時、ヨーロッパ諸国は植民地政策の中でキリスト教を大いに利用していました。ジェームスは上海や香港あたりで布教している宣教師たちの悪どいやり方を関に話し、その怒りをぶちまけました。このときから、日本仏教の自らを律する穏やかな信仰に次第に惹かれていきました。

日本人となったジェームスは明治五年(1872)に海軍省に入省、イギリスからの軍艦の購入方法を教え、測量調査や航海術の指導に従事しました。横浜鎮守府顧問、海軍省顧問、逓信省顧問などを歴任して、終には日本海軍の父と呼ばれるようになりました。明治二十三年には政府より終身年金を受け、その五年後には勲二等旭日賞を受勲したのです。

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その坂の途中左手に入る道があります。「智恵子の『レモン哀歌』の碑はこちら」という案内板があります。しばらく歩くと左手の大きなマンション入口に「三越ゼームス坂マンション」とあり、次のように刻まれています。

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ゼームス 邸跡地について

 此の処は南品川英国人ジョンMジェームス邸跡地である。
 
 Mジェームスは慶応二年(1863)二十八歳の時来日した。そして坂本龍馬等とも知り合い、後に日本海軍創設に貢献。明治五年海軍省雇い入れ以降幾多の変遷を経て住まいを此の地に構え隣人に慕われつつ明治四十一年七十歳にて没した。

 墓は身延山山本堂浦山に在り「日本帝国勲二等英国人甲比丹ゼームスの墓」と刻まれている。

 その頃のジェームス在り日を偲ぶ庭の欅 も品川区の保存指定樹として樹齢百十年の姿そのままに苔むす石垣と共に昔の面影を今に止めている。

昭和五十八年十月

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ゼームスの碑から道一つ隔てたところに階段があり、桜の木の下に彫刻家高村光太郎の妻、智恵子の「レモン哀歌」の碑があります。そこは、かつて智恵子が亡くなったゼームス坂病院の跡地がありました。

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「レモン哀歌」碑は高太郎が智恵子の最期の様子を描いた直筆原稿の写しでもあります。

                  レモン哀歌   高村光太郎

          そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
          かなしく白くあかるい死の床で
          わたしの手からとつた一つのレモンを
          あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
          トパアズいろの香気が立つ
          その数滴の天のものなるレモンの汁は
          ぱつとあなたの意識を正常にした
          あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
          わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
          あなたの咽喉に嵐はあるが
          かういふ命の瀬戸ぎはに
          智恵子はもとの智恵子となり
          生涯の愛を一瞬にかたむけた
          それからひと時
          昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
          あなたの機関ははそれなり止まつた
          写真の前に挿した桜の花かげに
          すずしく光るレモンを今日も置かう

                        詩集『智恵子抄』より

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ゼームス坂に戻り、坂下へと歩きます。左手に鎮座するのは東間森稲荷です。「東間森」とはご祭神倉稲魂命を守護する狐の棲んでいた「稲荷森」のことかと思われます。「十間森」とか、それぞれ、その地にちなんで漢字を当てた例は多く見られます。創建年代は不詳です。古くは熊野社(ご祭神伊邪那岐命 伊邪那美命)でした。後に宇迦之売命が勧請され稲荷守稲荷社と改称、相殿に祭神伊邪那岐命 伊邪那美命が祀られ、後に東間森稲荷神社と改称されました。

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道の反対側です。懐かしい昭和の匂いがします。品川区には、このような建物があちらこちらにまだ残っています。

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その並びには馬頭観音堂があります。ゼームス坂(浅間坂)を登るのに馬が交通手段に使役されたので安全を祈願して,馬頭観音が祀られたそうです。

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ゼームス坂の一番下に曹洞宗瑞雲山天龍禅寺があります。江戸時代、ここ南品川宿の曹洞宗瑞雲山天竜寺の他に下谷新坂本町の曹洞宗功徳山天竜寺、谷中三崎の臨済宗海雲山天竜寺、内藤新宿追分禅宗曹洞派護本山天竜寺と三ヶ寺ありました。江戸城近くの下谷新坂本町の功徳山天竜寺は徳川家康が、ここ瑞雲山天竜寺の二世住職嶺育を篤く信頼し、嶺育を住まわせるために下谷に同名の寺を建立したものです。

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ゼームス坂を下って突き当たった東西の道は、品川宿から碑文谷仁王尊(碑文谷法華寺、現在の円融寺)へ向かう碑文谷仁王道といわれていました。そこにある天龍寺本堂の左側、墓地への入り口の脇に大きな耳に手をかざし何か物音を聴いているような姿の小さな三体のお地蔵さんは「碑文谷踏切責任地蔵尊」といわれています。

大正七年(1918)五月十八日深夜、M銀行の行員が大崎の自宅に帰るため品川駅から人力車に乗り碑文谷仁王堂に入りました。東海道線までの急勾配の上り坂を登り、現在は隧道になっている碑文谷踏切にさしかかった時遮断棹は上がっていました。

その時当直の踏切り番は二人。しかし、一人が仮眠中で一人が居眠りをしていたため遮断棹を下ろさなかったのが原因でした。当時踏切り番は激務にもかかわらず朝七時交代の一昼夜勤務であったため、みんなは過労から居眠りをしてしまったのだろうと話し合っていました。
 
しかし、二人は事故の責任を痛感し、事故直後大井町駅寄りの線路上に身を伏せて命を絶ちました。当時の都新聞(東京新聞の前身)にも「会葬者皆泣く葬儀」と二人の踏切り番の死を悼む記事が掲載され、多くの人の同情を誘いました。

天竜寺の「碑文谷踏切責任地蔵尊」は、この事故で亡くなった行員と踏切り番の供養のために造立されたものでした。

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国道一号線の手前右側にあるのが時宗深広山無涯院海蔵寺です。永仁六年(1298)藤沢遊行寺二祖他阿真教上人が、宗祖一遍上人の教えを継ぎ、念仏をすすめて諸国を巡化の途中、たまたま当地にとどまること三年間、多くの衆生を教化された時に、妙覚庵運心称する妙好人があり、上人の徳風に帰依され、祖先伝来の三尊仏を上人に寄進し、伽藍を結構して運心の寄附の三尊仏を安置したのが現在のご本尊です。

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江戸時代に入り、品川宿がおかれ、ここで死亡した人達も葬られました。元禄四年(1691)から明和二年に至るまでその数七万余人といわれています。宝永五年(1708)七月八日、土地の有力な信者の集まりがこれを改葬し、その骨を集め、墳墓を築きその上に観音像を安置した塚が巷間に伝えている「頭痛塚」です。頭痛を病めるものがその平癒祈願をすると利益があるといって、香煙の耐えたことがないと伝えています。

この塚に,天保の大飢饉(1833〜1840頃)の折に亡くなった二百十五人を祀る「二百十五人塚」も合葬され、また当時鈴ヶ森刑場で処刑された人の首の一部や、品川遊郭に於いて死亡した遊女等も埋葬されて、総称を「首塚」と名付けられました。

この首塚の他に,慶応元年(1885)に造立された「津波溺死者供養塔」、大正四年(1915)造立の「京浜鉄道轢死者供養塔」、昭和七年(1832)造立の「関東大震火災横死者供養塔」などが建立されています。いずれも無縁の横死者の霊を供養するもので,海蔵寺は品川の「投込寺」と呼ばれています。

ダメージ加工

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私の愛用しているダメージ加工のGパンです。若者に負けじと穿いているのですが。毎日手入れをしている白髭が、じゃまをしたようです。白髭は犬や猫を振り返らせ、嬰児の笑顔を誘いますが、園児の女の子に「おじいちゃん、転んだんだよ。私と一緒、膝をすりむいてかわいそう」「ムム…」おしゃれのつもりが???

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義母が9月には退院して帰ってきます。一日の塩分摂取量が6グラム以下。厨房担当ですから、一食2グラムを守らないと再び脳梗塞を招きます。栄養士の指示に従わないと、ということで、毎日、トライをしています。食材も選ばないと大変なことになってしまいます。日本酒と白ワインビネガーに少し寝かせた生鮭を焼いて、オリーブオイルで炒めた野菜に併せてみました。毎日のメニューに、肉と野菜と酢と大豆を用意しなけれななりません。

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豆腐ハンバーグは豚のひき肉で、茸も必須です。

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豚肉のブロックをたっぷりの穀物酢で煮込みます。ソースは蜜柑です。酢肉は細かく切って炒め物にも使えます。砂糖は、きびの砂糖か蜂蜜。塩が使えないので、ニンニクやショウガ、胡椒をうまく利用するようにします。

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新鮮な真鰯を見つけました。塩を使わず白ワインビネガーで一晩漬けてみました。

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舞茸は必須かもしれません。油を抜いたがんも、豚肉、人参、ジャガイモ、蓮根と煮ました。出汁は利尻昆布と鰹節、それにアゴを加え、減塩醤油で味を調えます。

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大根を出汁で煮ました。木綿豆腐を水切りして崩し、卵を絡めました。病院食の定番ですが、大根の味付けをしっかりとし、冷蔵庫に寝かしておいたら、透きとおる大根との相性がいいし、黒コショウの効いた卵豆腐です。

昨日、義母が外出で家に戻り、昼食を食べました。冷蔵庫に寝かした豚肉の野菜煮や大根煮を美味しいと食してくれました。今後は、自家製ドレッシングにも挑戦します。あと10日もすれば退院ですから。3食をうまく献立にしたいと思っています。お役目が一つ増えました。

宿河原堰

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時間があったので、船島稲荷の近所を散策しました。そもそもこの辺りは目的の病院の道路を挟んだ隣接地でした。

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遥かに見える二つの建物は宿河原堰です。手前の川がニヶ領用水宿河原堀の取水口です。来よう来ようと思っていた場所なので感動もしています。九年前の桜の頃にに訪れて以来の場所なのです。

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3キロほど上流に中之島堰があり、ニヶ領用水本流の取水口を尋ねたことがあります。時々堰に貯った水が放流されます。そんなときはサイレンが一分刻みで放流を知らせます。

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遅咲きのげんげの花、この暑さをよく凌いできました。可憐です。

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ニヶ領せせらぎ館で、水槽を見たり、資料をいただいたりしました。結構発見があって面白かったですね。

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ニヶ領用水宿河原堀の取水口です。

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道を挟んだ橋の向こうが宿河原堰遊歩道の出発点となります。

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病室へはいったのが13時ちょうど。認知症が進んでいるとはいえ、私のことは良く分かります。耳が聞こえないので、私の質問等は筆談です。母の大腿骨骨折は、手術できないので、投薬だけで病院にいるわけにはいきません。かといって、24時間介護体制の施設は、かつて義父の登録で600人待ち。老後の安心のない日本の現状です。

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