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朝日の「地球の歴史」を読んでいますが、そう言えば、とふと疑問に思ったのは、「なぜ寿命のある生物が存在するのか」ということです。 「全ての命には寿命がある」と思っている人が多いとは思いますが、その答えは実はノーです。 二分裂で増えるような単細胞生物には、基本的には寿命がありませんし(ゾウリムシなどを除く)、樹木などの植物も、基本的には寿命はありません(たぶん)。 多細胞生物の動物でも、サンゴなどは寿命がありません。 大腸菌などの単細胞生物は二分裂で増えますが、環境の変化で死ぬ以外には寿命はありませんので、今生きているその生物は、基本的に数十億年前からずっと生き続けている生命です(死んだらそこで終わりですので)。 Wikipediaによれば、寿命がある生物と言うのは、実は生物の中では少数派だそうです。 となると、「なんのために寿命があるのか」というのは不思議ではあります。 普通に考えれば、生きられるだけ生きて、その間に殖えられるだけ殖えて子孫を残す、というのが最良の方法のような気もするのですが、寿命のある生物は、ある程度生きて生殖活動を行うと、後はやがて老化して、死んでしまいます。 ベニクラゲのように、ある程度老化して来るともう一度幼体に戻って若返る種もあるのに、なぜわざわざコストをかけて出来上がった個体をそこで終わりにさせてしまうのか、というのは不思議ではあります。 考えられる可能性としては、「体が複雑になって行く過程で、寿命というものが必然的に出来てしまった」ということか、「寿命というものがあるということそのものに意味がある」のかということです(それ以外もありそうですが)。 寿命というものができてしまったのは、単細胞生物から多細胞生物になり、有性生殖が行われるようになって来た辺りです。 体のしくみや部品が複雑なものになるにつれ、年齢とともに体の部品にガタが生じる可能性が出て来ます。 部品にガタの出て来た個体にコストをかけて再生させるよりも、その個体に見切りを付け、新しい個体をいちから作り出す方にコストをかけるという方が、種として有利だった、という可能性は考えられます。 そうなると、種にとって個体のそれぞれは、"使い捨て"ということなのかもしれません(個体としては悲しい話ですが)。 もうひとつは、寿命があるということ自体に意味があるという可能性です。 種の生存の戦略として、単細胞生物の戦略は、「シンプルなシステムで、増えられる所でとにかく増える」ということのようです。 一方で、多細胞生物、それも有性生殖を行う種の戦略は、「自らの形を変えながら、環境の変化に適応して行く」ということのようです。 誕生してから、生殖可能な段階まで成長し、生殖にのぞむことのできた個体と言うのは、それだけ環境での生存に適した個体だということを意味しています。 そうして、環境を生き延びた個体同士が生殖を行い、作り出された子どもというのは、間違いなく先の代の個体よりも優れた形質を持った個体です。 となると、古い形質を持った個体が生きながらえながら、同じ形質の子を作って行くよりも、さらに優れた形質を持った個体が、速いサイクルで、どんどん代を重ねて行ってくれた方が、種としては良い、ということなのかもしれません。 となると、生殖を終えた個体は、「古い用済み個体」として、コストをかける意味が無くなる、ということなのかもしれません(これも悲しい話ですが)。 ただ、そうなると植物が長い寿命を持つことの説明をしにくいのですが、植物は部品の汎用性も高いので、メンテナンスにそれほどコストがかからないということなのかもしれません。 テロメアがどうのという話がありますが、あれは寿命がある理由というよりは、要因の方の話だと思います。 ほ乳類もテロメラーゼ自体は持っているらしいですが、それほど発揮されていないということからすると、もしかするとやはり寿命があるということには意味があるのかも知れないですね。 ※転載、リンクはご自由にどうぞ
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命について
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命について、命の大切さについて、考えている事です
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先日、フィラリアだって一生懸命生きている、という記事を書いたところ、 「面白い視点で見ますね」 というコメントをいくつかもらいました。 「一寸の虫にも五分の魂」 とは昔から言われる言葉ですが、 僕としては、それは適切な言葉ではないと思います。 なぜなら、その言葉は、 「虫にも人間ほどではないものの、かすかには魂を持っている」 という意味ですが、人間と比べて魂がわずかであるということを、 人間自身になぜ言えるのか、と思うからです。 人間の命は尊く、虫の命はそれほどでもない、 という言葉は、人がその知性で勝手につくり出した、 勝手な理屈に他ならないものです。 では、 「虫も人も同じ価値があるとでも言うのか」 とは必ず返って来る言葉だと思うのですが、 それも違います。 僕としては、 「命の価値や尊さなどは、人間などに断定できるようなものではない」 ということなのだと思っています。 「命は価値がある」ということも、「命は価値がない」ということも、 人間には命の価値を断定することができると言っている点において、 同じく傲慢さを内に秘めているのだと思います。 正しくは、 「命に絶対的な価値があるかどうかということなどは、 人間に分かるようなことではない」 ということなのだと思います。 僕たちに出来ることは、命の絶対的な価値を断定することではなく、 命に向き合い、その命をどう感じるかと言うことだけです。 フィラリアに関して言えば、 「犬は命の価値が高く、フィラリアは命の価値が低いから殺す」 のではなく、 「僕たちは犬のことを大切に思っており、 フィラリアが感染すると僕たちが大切に感じている犬の命を脅かすことになる。 だからフィラリアに対しては薬を用いて、殺させてもらう」 ということなのだと思います。 フィラリアだって自分のために生きているだけですし、 けして邪悪だから生存すること自体が地球上での許されない罪である、 というわけではありません。 ただ、犬の命とフィラリアの命を天秤にかけ (通常は意識すらしないですが)、 犬の命を取るので駆除をする、ということです。 犬は価値あるので生きなければいけないから治療し、 フィラリアは価値がなく、死ななければいけないから殺す、 ということではありません。 僕たちは犬の命を大切に思い、生きて欲しいと願うから、 (それほど大切に思わない)フィラリアを殺すことを選択する、 ということです。 人間は命あるものの価値を断定できるほど偉い存在でもないですし、 知性にも限りのある存在です。 僕たちは命と向き合い、無意識のうちに自分達の都合で、 命に価値付けを行っています。 僕たちが命に向き合い、どの命を大切に思うか、 どの命を大切にしようとするかということは、 その命への価値付けを元に行っています。 かといって、価値付けを元に命の扱い方を異なるものとする、 と言うこと自体は、誤りではありません。 人が他の命を利用しながらでなければ生きて行けない存在である以上、 僕たちに取っての利益、感情をもとに、 命を価値付けすると言うことは、 ともすれば残酷なこの世界で、ヒトとして生きる上では、 避けては通れないことであるからです。 ただ、その価値付けが、けして正しいということではなく、 自分達の好きか嫌いかという好みによって、 自分達の勝手で命を知らず知らず、自分達のものさしに当てはめている、 ということは覚えておかなければいけないと思います。 ※傑作、ランキングをクリックしていただけますと、うれしい限りです。
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「人には生きる権利がある」 というのは、当たり前の言葉として受け止められています。 それを否定することはおろか、疑問を投げかけたとしても、 それだけでおかしな人間であると疑われるのは避けられません。 その根っこをほじくり返して考えようとするのは、リスクを伴うことかもしれません。 でも、自然科学をベースとして、 ・命の歴史は人の誕生よりも、はるか昔から続いて来た ・人は数百万年前というごく最近、この地球上に誕生した ・生きる権利という考え方がされるようになったのは、数百年前からである ということから考えると、 僕には、 「地球上で人間だけが生きる権利を持っている」 「僕たちが生きる権利を持つのは当たり前だ」 などとはとても思えません。 生きる権利という言葉に関して、世の中には、 「人間がこの世で特別で尊い存在だからです」 と真顔で言える人もいるのかもしれません。 人は食物連鎖の頂点に立っている、 と考えている人もいるかもしれませんが、 人間は本来、食う立場と食われる立場の間に位置する、 中間くらいの存在だと思います。 牙や爪等の特別な武器を持っている訳ではありませんが、 他の動物と比べて、卓越した知性を持ったがために、 文明を発達させ、食物連鎖の輪から抜け出る存在になってしまっただけです。 その知性も、けして絶対的なものではなく、 他の動物と比べると高い、という相対的なものです。 自分たちが特別で尊いから、 生きる権利を持っているのは当たり前だと思っている人もいます。 でも、僕はそうではないと思います。 「人には生きる権利がある」 という言葉が示していることはふたつあると思います。 ひとつには、 「人間にはそういう概念を創造し、共有し合えるほどに知性が発達している」 ということです。 そして、もうひとつは、 「人間は、自分たちが偉いと平気で言い張るほどの傲慢さを持ち合わせている」 ということだと思います。 人間は知性を持った動物だと思います。 でも、その知性を持っても、 自分たちが傲慢なことを言っているということにはあまり気づいてはいません。 生きる権利というのは、人間が作った概念であり、人間だけのものです。 人間同士では通じるものの、人間社会以外では通じません。 人は、しばしば自分たちとは別に生きている命を見て、 あの命は生きる権利があり、あの命は生きる権利がない、 などと考えることがあります。 でも、人間社会の枠を超えて、人の論理とは別に生きている命たちに、 自分達のものさしを押し付けようとするのは間違っています。 誤解なきよう言っておけば、僕は「生きる権利」を否定している訳ではありません。 人間同士で共有できる考えであるということは、 人間の社会の中では大切にし合える考え方であるということです。 ただ、それを地球上での自明の真理と考えることが間違っているということです。 「僕たちはお互いに生きる権利を認め合える社会を作って行きたい」 「生きる権利の名の下、お互いを大切にし合って行きたい」 これは正しいし、何の間違いもありません。 でも、 「人間は生きる権利を持っていて、地球上で好き勝手にするのは当たり前だ」 「生きる権利を持っている人間は、地球上で特別な存在だ」 と、そう考えるのは間違っているということです。 人間社会の中でなら、大切な考え方になる一方、 それをはみ出して考えようとすると、とんでもなく間違っていて傲慢な考え方になってしまいます。 自分たちの作った考え方であり、自分たちだけにしか通用しないものです。 その限界を知ったうえで、大切にし合うということが必要なのだと思います。 ※転載、リンクはご自由にどうぞ。
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命を軽んじるような事件がたびたび起こる現在、 さらにしっかりと子どもたちに「命の大切さ」を伝えなければいけないと、 テレビや報道などで毎日のように叫ばれています。 子どもたちに命の大切さを伝えようとするとき、 「命は価値ある尊いものです」 「だから大切にしなければいけません」 という理屈で教えようとするのが、 今の命の大切さの内容の主流となっていると思います。 命を価値の高いものだと見なし、その価値の高さ故に大切にする、 という論理は、社会の中で、 疑ってはいけない"真理"として考えられています。 そして、時折命を大切と考えず、 粗末に扱うような人間が出たりすると、 大人達は戸惑い、さらに 「命の大切さを教えなければいけない」 と声を張り上げています。 でも、命と向き合う仕事につく僕としては、 今の大人達の命の大切さへの考え方や、 子どもたちへの伝え方には、なにやら疑問を感じてしまいます。 「命の高い価値」を根拠として、 大切に扱う事を義務として押し付けるというあり方は、 最初の時点から少なからず間違いを含んでいるのではないかと思います。 なぜなら、命というものは、 人間に価値が高いかどうか、尊いかどうかなど、 判断できるようなものではなく、 価値の高さ、尊さを根拠として大切に扱うように言う事など、 そもそも人間にはどだい無理であるからです。 大人達はしばしば、「なぜ命が大切であるか」ということを議論しあい、 そこからこねくりだした理屈を"根拠"として、 命を大切なものとして受け入れ、扱うよう子どもたちに強制しようと考えます。 大人達は、命を大切にするには、 それ相応の根拠がなければいけないと思っているかのようです。 でも、自分達に分かるはずのないものを根拠にしても、 それはフィクションを土台にしているものでしかありません。 フィクションを土台にした理屈をいくら熱っぽく説いたところで、 それにリアリティを感じられない人間が出て来るのは当然だと思います。 人間には長い命の歴史の流れの中で、 つい最近生まれでて来た存在であり、 その知性は絶対的なものではなく限界がある、と素直に考えるならば、 人間には命の価値を判断する事も、断定する事も出来はしないと思います。 自分達には命の価値の高さは断言など出来ないという事を前提にすれば、 「命の価値」を判断しようとしている時点で、 分かるはずのない事を分かると言っているということであり、 最初の時点から考え方が間違っていると思います。 「命の価値」自体、人間には分かるはずのないものだ、 という前提に立つと、今の命の大切さの理屈と言うのは、 根底から成り立たない事になってしまいます。 命を大切に扱わないようになってしまった子どもたちは、 命の大切さの理屈にうさんくささを感じているからこそ、 「なぜ命が大切なのか分からない」 と言っているのですが、それを聞いた大人達は、 「自分達が理解している真理を理解できないとは恐ろしい事だ」 と恐れ、子どもたちが自分達の信じている事を疑いなく信じるように、 さらに強制していかなければいけないと考えているのです。 でもそれは言うならば、おとぎ話への信仰を強制しているに過ぎません。 おとぎ話を真実だと言いはって、 子どもたちに押し付けようとしているというのが、 今の命の大切さの実際の姿だと思います。 フィクションを基礎にした理屈など、 どうこねくり回して繕ったところで、 結局はおとぎ話である事に他なりません。 命の価値の理屈を根拠にした「命の大切さ」は、 フィクションを真実として受け入れないと成り立たないものです。 冷静に考えれば、眉唾物のおかしな点だらけなのですが (命を大切にしましょうと言いながら、 別のところでは、平気で命を粗末にしています)、 それは現在常識とされ、信仰の領域まで到達してしまっているために、 疑う事すら許されなくなってしまいます。 フィクションを真実として言い張らなければ、命の大切さが成り立たない 今の「命の大切さ」においての一番の問題点はそこにあると思います。 「なぜ命は大切なのか」 と考えようとしても、それはそう考えようとする時点で、 分かるはずのないものを分かろうとしているという事であり、 そのアプローチ自体が間違いです。 本当は、 「人間は命を大切なものとして考えようとしている」 ということなのであり、 「なぜ人は命を大切なものとして考えようとするのか」 というアプローチでしか、本当の命の大切さにたどり着く事も、 子どもたちに嘘なく命の大切さを伝える事も出来ません。 「命は価値が高いものなんだよ」 と伝えようとしている時点で、 それは人間に言えるはずのない事を言おうとしています。 言えるはずのない事を言おうとするなら、 その話ができあがる途上で、必ず嘘と間違いが入り込んできます。 今の命の大切さは、フィクションを基礎としています。 フィクションを真実と見なさなければ成り立ちません。 でも、そんな命の大切さは間違っています。 本当の命の大切さは、命自身の持つ価値を前提にしなければ、 語る事が出来ないというようなものではありません。 本当の命の大切さは、命の中にではなく、 命と向き合う人の心の中にあるものです。 命の価値を根拠にするのではなく、 命を大切に感じる心を源にして、 命を大切に感じられるようになったときが、 本当の命の大切さを身につけるようになった状態なのだと思います。 「命は大切にしないといけません」 ではありません。 「命を大切にしたい」 そう心から願い、大切にしようとするのが本当の命の大切さです。 命の大切さは、「知る」ことの出来るようなものではなく、 「教える」ことのできるようなものでもありません。 本当の命の大切さは、命に向き合ってそれぞれの心で感じ、 それぞれの心で願う事でしか成り立たないものです。 子どもたちに対して大人が出来る事は、 命の大切さを知らしめる事でも、教える事でもありません。 その命なりに生きている姿を見せる事によって、 子どもたちが命に向き合い、考え、感じ、 心を育んで行く、その手助けをしてあげることだけなのだと思います。 ※傑作、ランキングをクリックしていただけますと、うれしい限りです。
転載、リンクはフリーとさせていただきます。 もともと僕が書きたかったテーマの核心部分のひとつです。 ご意見お聞かせいただければ幸いです。 |
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生きる権利というと、それがあって当たり前で、 それを軽視するのは許されない、という感がありますが、 獣医師をしている僕からすると、 それはかなり怪しい概念であるような気もします。 「人権」というと、その名の通り、 「すべての人には、生きる権利がある」 ということですが、考えようによっては、 これはかなり傲慢な考え方を含んでいます。 言い方を変えて、 「すべての人は地球上で生きる権利を持っている。」 という文章が合っているかどうかと言えば、 僕はけしてそんな事はないと思います。 なぜなら、権利というものは、人間が勝手に言っているだけの言葉であって、 人間そのものに地球上での生きる権利があるかどうかということは、 人間自身にはどうとも言えるはずのない事であるからです。 自然科学がより真実に近いとすれば、 人間は偶然と必然が絡み合い、 生命の進化の途上でたまたま誕生した存在であると思います。 人間は他の生物よりは優れた知性を持っていますが、 それも絶対的なものではなく、人間が環境を生き抜くために、 武器として手に入れたものです。 「知性が高い」というのも、人間から見た、 他の生物と比べた上での相対的なものです。 人間に生きる権利があるかどうかなど、 人間自身には分かるはずも、断言できるはずもありません。 ただ、そんな概念を考えだせるほどに知性を発達させたがために、 そんなことを言い出した、という事なのだと思います。 言えるはずのない事をなぜ断言できるかと言えば、 それは人間が傲慢だからとしか言えないと思います。 生きる権利というものは、人間が社会を発展させる上でつくり出した概念であり、 それは人間同士でのみ通じるものです。 生きる権利が誰にあるか、と人間はしばしば考えようとしますが、 自分達の社会の中で、「誰に生きる権利を認めあうか」 という切り口でしか、嘘なく言う事は出来ないと思います。 人間は時に、自分達に生きる権利があるという事を前提に、 他のどの生物まで生きる権利があるか、ということを議論したりします。 それは、自分自身に対しても言えるはずがないものを、 他の生物にまで言おうとしているという事です。 地球上で絶対的な「生きる権利」を持つものなど、 誰一人いたりはしません。 他の生物に生きる権利を与える権限も、奪う権限も、 人間にはありません。 生きる権利や人権と言うのは、 お互いに生きる権利を認めあおうと考えあう人間の社会の中でのみ通じる、 人間だけのオリジナルの概念です。 他の生物は生きる権利を持たないという事でもなく、 生きる権利を理解できないほどに下等という事でもありません。 ただ、何を持って環境を生き抜くかと言う手段が、 人間とは違うというだけです。 人間は知性を持つから尊く、命の価値が高いという考えは、 不遜かつ傲慢であり、誤りを含んでいます。 人間がなぜ生きる権利という考えを生み出し、 大切にしあおうとしているかと言えば、 人間は生きる権利を考えださないと、 不幸な人間を生み出してしまうほどに欲深く、 その一方で、生きる権利という考え方を大切にする事によって、 他の人にも幸せに生きて欲しいと願うほどに優しさを持った ("優しさ"も人間の概念ですが)生物であるという事です。 すべての生物は、生を渇望し、 与えられた命の中で、それぞれ精一杯生きているのだと思います。 命の形、あり方は、それぞれの命によって、それぞれです。 人間は、それぞれ精一杯生きている、自分達とは違う命を見て、 しばしばあれはどうだ、これはどうだと価値付けをしようとします。 自分達が生きていくために他の命に価値付けをしようとするのは、 人間の生存手段のためには自然な事ではあると思いますが、 自分達が勝手に付けた価値付けをもとに、 他の命を好き勝手に扱おうとしようとするのは、 人間の悪い癖なのだと思います。 ※傑作、ランキングをクリックしていただけますと、うれしい限りです。
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