どうぶつ病院診療日記

動物病院の診察風景や、獣医師が日頃思っていることなど

「命の大切さ」はどこにある?

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・命の大切さを取り戻すために

 もしも僕が、「命の大切さを知ってますか?」と聞かれたら、僕は「そんなものは知りません」と答えます。
 でもそれが、「命を大切に感じますか?」という問いであったとしたら、僕は「命を大切に感じます」と答えます。

 「命の大切さ」は、”知る”ことができるようなものではなく、まして”教える”ことができるようなものでもありません。
 大人達には、こども達に「命の大切さを教える」ことなんてできません。できることは、「命を大切に感じる心を育てさせる」ことまでです。

 命を大切に感じることは、自分の心の中の「生への願い」を源泉とするものです。
 そして、他人を大切に思う気持ちは、「自分を大切に思う気持ち」がその対象を拡げ、「愛する人にも精一杯生きて欲しい」と願うまでに成長したものです。

 「なぜ命を大切にするのか?」、その問いへの答えは、
 <「命を大切にしたい」という願いを、人が心の中に抱くから>
 です。

 今までは、「命の大切さ」はそうしなければならない“義務”でした。人は「命の大切さ」について、フィクションの上に成り立ったものを真理だと考え、“高い価値”を根拠とする義務として命を捉えていました。

 本当の「命の大切さ」はそんなものではありません。
 命は、「大切にしなければならないから、大切にする」ものなのではありません。

 「命の大切さ」は、命の側にあるのではなく、命と向き合う人の心の側にあります。

 「命の大切さ」は、命の側に確固として存在する真理ではなく、人の心の中にある心や人間性を源泉として、心の中からわき出る「命への想い」なのです。
 そして、自分の心の中のやさしさや思いやりといった人間性を大切にするために、相手に精一杯生きて欲しいと願う自分の願いを叶えるために、他の命に向き合っていくという考え方が、今のヒューマニズムを乗り越えるための価値観であると思います。

 現代は、今までの常識の土台が崩れ去り、「命の大切さ」の根底が失われてしまっている時代です。そんな中で大人達が慌てふためきながら、おとぎ話を真実として信仰するよう声を張り上げているというのが、今の「命の大切さ」の実態です。

 うそ偽りなく、本心から人が互いを大切にしあえるようにするためには、本当の「命の大切さ」を取り戻さなければなりません。
 フィクションを土台とした義務からではなく、人が、お互いに「大切にしたい」と感じあい、自分の心の中の願望を源泉として、心からお互いを大切にしあえるようになったとき、それがまがい物ではない、本当の「命の大切さ」を取り戻せた状態なのだと、そう思います。

・受け継がれる命、託される願い

 人間が自分以外に対して特に、強く、「精一杯生きて欲しい」と願うのは、自分達の跡を継いでいってくれる、こども達に対してです。
 親はこども達に、命を受け継がせていく役目を担っています。そして、命をこども達に受け継がせるときには、自分達からこども達に対して、「精一杯生きていって欲しい」と、「生への願い」をも託していきます。

 大人達は、こども達に「より良い生を送って欲しい」と願うからこそ、精一杯努力をし、生活環境や社会のしくみをより良くして、こども達に引き継がせていくのです。
 親にとっては、こども達が精一杯生きていってくれることは、「愛するものに精一杯生きて欲しい」と願い託される、自分の心の中の「生への願い」が叶えられるということです。

 社会をつくり、その中で生きる人間にとって、「生きる」ということの意味のひとつは、自分達が親、さらにその前の世代から受け継いだ財産を、自分達の手でよりよいものにし、こども達に受け継がせていくということでもあります。

 生きるということは、命のリレーを積み重ねていくことです。そして、命のリレーの中で、「生への願い」は子から、さらにその子へと、代を重ね、願われ、託されていきます。
 「精一杯生きて欲しい」と願われ、育っていったこども達は、やがて、自分の心の中に「精一杯生きていきたい」という、自分自身の生に対しての願望を育んでいきます。

 自分自身の存在を大切に感じる心は、自分以外の存在を大切に感じる心の出発点となります。
 自分自身の存在を大切に感じない人間が、他人を本当に大切に感じることはできません。命を大切に感じる心は、常に自分の心の中から出発し、自分の外に向けて対象を拡げていくからです。命を大切に感じる心は常に内から生まれ、外へと向かって拡がっていきます。

 僕達大人がするべきことは、こども達の心に、生に喜びを持ち、自分自身の存在を大切に感じる気持ちを育てさせることです。そのために、何より親がまず見せるべきなのは、自分達が精一杯生きているという後ろ姿だと思います。親自身が自分の生を、喜びを持って送っているという姿を持っていなければ、子供が「生きる」ということそのものに対して、意味や喜びを感じることなどできるはずもありません。

 そして、「生きる」ということの喜びを伝えると共に、「全ての命はそれぞれ精一杯生きている」ということ、「その精一杯生きている命をいただきながら、今自分達が生きている」ということを教えていかなければなりません。
 整理をして考えれば、

1.自分はひとりで生きているわけではない。いろいろな人のおかげで、いろいろな命のおかげで、自分が、今生きている。
2.どの人も、どの命も、それぞれ精一杯生きている。
3.自分はその中で、自身の生と他の命を大切にしながら、精一杯生きていく。

 ということになるかと思います。
 命の存在、命への思い、それらのことを伝えられたなら、こども達は自然に「自分達も精一杯生きていきたい」と感じ、願ってくれるようになると思います。こども自身が、喜びを持って、自分の意志で「精一杯生きていきたい」と感じてくれるようになることこそが、何より大切なことです。

 子ども達が、自分自身の中に、「精一杯生きて行きたい」「命を大切にしたい」と感じる心をしっかり育んでくれたなら、大人が「命の大切さ」について、おとぎ話を語る必要はないのです。


終章 こども達に「命の大切さ」をどう伝えるか

・何を、どう伝えるのか

 こども達に「命の大切さ」を教えるということは、実は案外大変なことです。それは、こども達に「命の大切さを伝える」ということを、どうやっていけばいいのかが分からずに悩んでいるという問題と、「命の大切さ」とはそもそも何なのかということが、大人の側にもなかなか把握しきれないということの、2つの問題があります。

 現在は、大人達は「ともかく命は大切なものだ」と考え、こども達にもそう信じさせることを目指しています。「命が大切」であるのは“常識”であり、疑うことなく受け入れるべき“自明の真理”であると信じているからです。大人達は、「命の大切さ」という“自明の真理”を信じられない人間は“非常識”な人間だと考えます。

 そして、大人達は、こども達の「なぜ命は大切なの?」という質問を聞くと、“非常識”な質問に慌て、「なぜ?」という質問には答えようとはせず、ともかく命の大切さへの信仰を持たせようとやっきになります。
 大人達は、そんな質問をすること自体が、「命の大切さ」への信仰を持っていない悪い状態であると考えます。そして、そんな問いを持つこと自体が許されない行為であるかのように考えます。

 でも、「命は大切だ」と認識させることだけを目指したとしても、それはそもそも教育とは呼べるものではありません。それは教育ではなく、洗脳によってこども達の思考を枠にはめていこうとしているだけです。
 子供から考えることを取り上げるのではなく、むしろ、大人も、こども達と一緒に「なぜ命は大切なものとされるのか」「なぜ人は、命を大切なものだと考えるのか」ということを、自分自身の心で問い直してみるべきであると思います。

 これまでに述べてきたように、「命の大切さ」の根っこを考えていったとしても、それはそれほど不届きなことではありません。むしろ、その根っこを考えず、“常識”を盲信しようとすることの方が、よほど良くない行為です。

 今は、こども達に、「命の大切さ」についての表面的な部分しか伝えようとはしていません。その一番大きな理由は、大人自身が「命の大切さ」とは何かということをつかみ切れていないからです。

 しかし、こども達に命の大切さを伝えようとして、「よいか、命は大切なんだ」と説いたところで、中身のない言葉を繰り返し聞かせることに、あまり意味はありません。こども達が、なぜ命を大切にしなければならないのかという、「命の大切さ」の奥底にあるものを理解しなければ、その言葉に意味はありません。

 よく、大人は「命の大切さを知る」という言葉を使います。でも実際には、「命の大切さ」を知るということはできません。命の大切さは確固としてこの地球上に存在するものではなく、人間の頭と心の中に、価値観として、思いとして、存在するものでしかないからです。
 実際に人間にできることは、「命の大切さを知る」ことではなく、「命を大切と感じる」ことでしかありません。

 こども達に「命の大切さ」を教えようと言っている人や、「命の大切さ」を知っていると言っている人たちが思い描いている「命の大切さ」は、実際には幻想にすぎないものです。”知っている”と言っている時点で、根本的に、スタート地点も考え方も間違っているのです。

 よく、大人はこども達に「命の大切さ」を教えようとして、動物と触れさせようとします。そして、しばしば「ほら、かわいいでしょう。だから大切にしましょう。」と言います。
 でも、かわいいから大切にしましょうと言うことは、実際には「命の大切さ」を教えることではなく、むしろ、本当の「命の大切さ」からはかけ離れた行為です。

 それは、動物の持つ特徴に対して、人間がどう感じるかによって価値づけをし、その価値づけを根拠として、大切にすることを義務として与えようとすることでしかないからです。
 命そのものを大切にしているのではなく、そのものが持つ高い価値を大切にさせようとしているのです。そこで大切にされているのは、命そのものではなく、人間が勝手に付けた幻想にすぎない「価値」です。

 命を命として大切にするということは、命に価値づけをし、そこに付けられた価値を大切にすることではありません。相手を精一杯生きているひとつの命として扱い、かつ、自分がそれに対して、感じ、考える心を持ったひとりの人間として向き合うということです。人としての心でもって、命に接すると言っても良いかも知れません。

 動物と触れ合わせたときに、「命の大切さ」を伝えようとして、こども達にまず語るべき事は「命は高い価値を持っている」ということではありません。動物と向き合ったときに、まずこども達に伝えるべきなのは、その動物がそれぞれ自分なりに「精一杯生きている」ということです。

 世界には、いろんなかたちとしくみを持った命が存在します。彼らは、人間に驚きをもたらしたり、きれいな色で喜びを与えてくれるために、その姿かたちをしているのではありません。
 それぞれの祖先は、それぞれの環境の中で、それぞれ精一杯生き抜き、次世代へと命のバトンを手渡すために生を送り、命を受け継いできました。その積み重ねの結果として、それぞれの命は、それぞれのかたちと生き方をしています。

 人にとってかわいく見えるか、かっこ良く見えるか、そんなこととは関係なく、それぞれの命は、それぞれが与えられた命の中で、懸命に生きています。
 その精一杯生きている命に対してどう向き合っていくか、それは自分達の人間性の問題であり、人としての生き様の問題です。
 今までの「命の大切さ」は、相手に焦点を当てて、「大切にされるべき相手」という語り方をしていました。でも本当は、「命の大切さ」はそんなものではないと思います。

 相手に焦点を当て、その価値について語ることは、多くのうそと誤り、矛盾を生み出します。相手の価値を語ろうとすることは、人が自分達の知性を過信し、語り得ないものを語ろうとしていることであるからです。うそ偽りも矛盾もない語り方をしようと思うなら、自分たちの側に焦点を当て、自分自身の心の問題として語らなければいけません。

 それは、自分が、向き合っている命に対して、どう感じ、どうふるまっていくかという問題として考えるということです。本当に見つめるべきなのは、自分達の心です。

 「命の大切さ」とは、どこにあるものなのか?
 その答えは、もうお分かりだと思います。
 「命の大切さ」とは、相手の中にではなく、自分の心の中にあるものなのです。
 自分たちの持つ、人としての心、そしてその心から溢れ出て来る生への、命への思い、それが「命の大切さ」の根源なのです。

 これまでは、相手の持つ高い価値を根拠とした義務のものとして、「命の大切さ」を語ろうとしてきました。うそや誤り、矛盾を含まない、本当の「命の大切さ」を語ろうとするなら、その軸を“価値”から“願い”へと変えることが必要です。

 命は、「価値があるから大切にしなければならない」ものなのではありません。人がその心で、「大切なものだと感じるから、大切にしたいと願う」ものなのです。
 「命の大切さ」の根底にあるのは、自分自身の精一杯生きていたいと願う思い、大切に思う存在に精一杯生きて欲しいと願う思い、それらの「生への願い」です。

 「生への願い」は、まず自分の生に対して向けられ、本人の「精一杯生きていたい」という願いが生まれます。そしてその願いとともに、自分以外の命に対しても、「生きて欲しい」と願う気持ちも生まれます。自分自身の存在を大切に思い、いとおしく感じる気持ちは、「命の大切さ」の土台となるものなのです。

 そして、自分を大切に感じられるようになった状態から一段階進むと、自分を大切に思うのと同じように、相手をも大切に思う心が生まれます。「大切に思う相手に、精一杯生きて欲しい」と願う思い、それが相手に対して託される「生への願い」です。
 相手を大切にすることは、自分の中に相手に託す「生への願い」を持つことであり、自分の心と人間性を大切にすることなのです。


・「生への願い」を持っていない人間

 今でも世界中には、生きていたいと願っていても、飢えや病気や戦争のために、生きていくことのできない人間がたくさんいます。その一方で、経済の発達した国の中には、生きていたいと願っていなくても、整備された社会のおかげでそれなりに生きていくことができる人間というのも存在しています。

 贅沢なことには違いありませんが、生への願望を持てないような環境に育ってしまった人間というのも悲しくはあります。
 せっかく生まれてきて生きているのだから、喜びを持って生を送っていって欲しいと願わずにはいられません。そういう、生への願望を持っていない人間に対して、社会はどう向き合っていけばいいのでしょうか。

 「生きていたくなくとも、とりあえず生きろ」と言うのも、たしかにひとつの方法ですが、生きるということにおいて大切なのは、やはり「生きていたい」という思いの方であると思います。「生きていたくない」と思っている人たちへの社会としての対処は、まずその人たちの心の中に、生に対する願望をかき立てるよう促すことです。

 生に絶望し、一時的に死にたいと願うに至ってしまった人でも、潜在的には生に対する願望を持っています。ただ、生きていくことへの恐怖や不安、絶望感が、生への願望を覆い隠し、閉じこめてしまっているだけです。

 また、人間は、自分自身が「精一杯生きていたい」と願う思い以外に、自分が大切に思う人に対して「精一杯生きて欲しい」と願う、相手に託す「生への願い」も心に持っています。

 同じ人として社会に暮らしているのなら、それは仲間であり、大切な存在として「生きて欲しい」と願われる存在です。
 人は、自分の心に「生きて欲しい」と願う気持ちを持つからこそ、一時的に生きていたくないと思っている人間に対しても「生きろ」と言うのです。

 生きていたくないと思っている人間に、「おまえが今考えていることは誤りであり、生きることが正しいから、がんばって生きろ」と言うことは、「生きて欲しい」という思いから来る言葉です。また、社会の多数が生きるということは意味のあることだと信じているからこそ、“正しい価値観”を押しつけようとしているのです。

 強制的に「生きること」を押しつけることは、一時的な迷いで生への意志と願望を失っているだけの人に対して、願望を取り戻させるのには時として有効です。一時的に迷っているだけの人でも、生きてさえいれば、また「精一杯生きていきたい」と考えるようになり、生への願望を取り戻すようになる可能性も期待できます。

 しかし、死んでしまえばその可能性は永久に失われます。そうすれば、本人が生への願望を取り戻す可能性のみならず、社会に生きる他の人の「その人に精一杯活きて欲しい」という願いも、同時に断ち切られてしまうことになります。

 今の「命の大切さ」の考えのもとでは、「人が生きること」はそれだけで価値あるものだから、死んではならないと考えることが可能です。しかし、人の命が持つ“特別な価値”を幻想と考えると、命の価値を根拠にして、生きることを義務とする考え方は通用しなくなります。

 生きることが義務でないなら、「お前がどう思おうと、生きていなければならない」とは言えません。言えるのは、「僕達は、君に生きて欲しいと願っている」というところまでです。「命の大切さ」を生みだしている大本は、命の側の価値の高さではなく、命に対しての願いの側にあるからです。

 「命の大切さ」の軸を“価値”から“願望”へとパラダイム・シフトさせた思考のもとでは、「生きる」ということについては、「価値があるから、生きる」という考え方から、「生きていたいから、生きる」という考え方へと移行します。

 しかし、「命の大切さ」を生への願望を源泉とするものと考えようとすると、命に与えられた高い価値を根拠とする、義務としての「生きること」とは、また別の問題が出てきています。
 生きていたいという思い、生きて欲しいという思い、その生への願望こそを大切にするべきものと考えると、「生への願望を持たない人間」の生をどう考えていけばいいのかという問題が生じてきます。

 それに対する最も理想的な答えは、「生きていたいと思っていない人間には、もう一度生への願望を取り戻し、その願望を源泉として、生きることに対しての喜びを感じながら生きていって欲しい」というものになります。
 しかし、他の人の「生きて欲しい」という願いが届かず、「生きていたい」という願いがどうしても出てこないという人間に対しては、義務として考えるのに比べると、強制力は弱いかもしれません。

 生への願望を一番大切なものと考えると、どうしても生きていたくないと言っている人間へのアプローチは、周りの人間からの、「生きて欲しい」願いからということになり、それにはパターナリズム(周りの人間が、よかれと思うことを本人に変わって選択すること)をとらざるをえないかもしれません。

 パターナリズムをとったとしても、その後の本人の生への向き合い方は、本人次第です。人が、自分の生を精一杯生きていくということに対しては、何よりもまず、本人の生きる意志や生への願望が一番大切なのです。

 でも、もし生きることに絶望し、生きる気力を失っている人がいたら、自分が今まで生きてきたということがどういうことなのかをもう一度考え直してみて欲しいと願います。
 人は、ひとりで自然に育ち、今まで大きくなったのではありません。自分がそこまで生きてきた過程において、自分が生きるために、自分以外の数え切れないほどの命を犠牲にしてきました。その犠牲の上に立って、今、自分は存在し、生きているのです。

 自分の手を、じっと見てみてください。そこに息づく細胞ひとつひとつには、これまでに自分が糧としてきたたくさんの命が、ぎゅっとつまっています。
 自分が今生きているということは、その命をつなぐために、今日まで無数の命が糧とされてきたということの証でもあります。

 今の自分の命を軽んじるということは、今までに自分が犠牲にしてきた全ての命を軽んじるということであり、自分の命を自ら絶つということは、それまでに犠牲にしてきた命を全て無駄にしてしまうということです。
 そして、だらだらと生を送るということは、自分のだらだらとした生のために、精一杯生きている無数の命を犠牲にするということです。

 それぞれの命は、人間の都合とはまるで関係なく、自分自身の生のために、それぞれ精一杯生きています。その精一杯生きている自分の命を、だらだら生きるもののために奪われるとしたら、殺される側としてはたまったものではないと思います。

 犠牲にされる命は、人間に犠牲にされるために生まれ、生きてきたわけではありません。僕たちは、その命ひとつひとつを、自分達のために奪って当たり前の存在だという訳でもありません。
 その事を考えるなら、人間は、自分達が犠牲にした命に対して感謝し、自分達の姿を見せても恥ずかしくない生き方をしなければいけません。

 彼らのことを考えるなら、精一杯生きなければならないと思います。
 自分達が犠牲にしてきた命の分まで精一杯生きていくということが、僕達人間にできる、精一杯の恩返しなのだと思います。


第七章.嫌でも生きなければならないのか

・生きるということは命を奪うということ

 地球上に存在する全ての命は、それぞれが利用することのできる生活環境を活用し、利用することのできる栄養源を最大限に利用して増えることができるように、環境に合わせて、少しずつかたちを変えながら、枝分かれをし、いろんな姿となって今まで歩んできています。

 全ての命にとっての至上命題となっているように見えるものは、与えられた環境を生き抜き、次の世代へと命のバトンを引き継がせていくということです。
 もちろん、生きている命の中で、環境を生き抜く能力に優れたものが生き抜き、増える能力を持ったものが増えたという、ただそれだけの、単純なものなのかも知れません。究極の「生の目的」があるのかどうかについては、それこそ人間の知性を超えたことであり、僕達には分かりません。

 ただ、少なくとも言えることは、「それぞれの命は、それぞれに与えられた環境のもとで、精一杯生きている」ということです。
 それぞれの命は、自分達が生きていくために、他の命を自身のために犠牲にしながら生きています。そのことは種として生まれ持った“さが”であり、それ自体は善でも悪でもありません。そのことを“善”だとか、“悪”と呼ぼうとするなら、それは人間の価値観を、自分達の知性の枠を超えたところに当てはめようとしているということであり、そうしようとする行為自体が間違っています。

 人が、自分達が生きていくために他の命を犠牲にすることも、命がそうやって生きていかなければならないしくみを持っているためであり、それ自体は、ヒトがヒトである限り、そうするしかない、人にとっての“さが”です。

 人は、自分達の利益のために他の命を犠牲にする一方で、感情というものも持っているため、自分達が犠牲にする命に対しても想いを向け、食べられる命を哀れみます。あるいは、しばしば自分達の罪悪感を消すために、自分達が他の命を犠牲にすることを正当化するための理屈を考えようとします。

 しかし、「自分達が生きるために他の命を犠牲にする」ということを「人間以外の存在は人間に犠牲にされて当然だ」という論理にすり替えようとするなら、それはエゴとうそ偽りにまみれた自分勝手な理屈でしかありません。

 「自分達は特別な存在だ」という、フィクションの上に乗っかった理屈をもとに正当性を主張するのではなく、自分達が何を行っているかを、まずありのままに見なければいけません。そしてそこから、人として感じ、考えなくてはいけません。

 人間は、他の命を食べて当然の存在だから他の動物を食べるのではありません。自分達が生きていくためにはそうするしかないからこそ、他の命を食べるのです。
 他の命は、人間に役立てられるために存在しているのではありません。

 僕たちは、他の命を自分達のために犠牲にして当然の、特別な存在だという訳でもありません。
 他の命を、「自分達のために存在している」と主張することは、自分達の感情が傷つかないように創り出された、都合のいい、自分勝手な理屈にすぎません。

 命の存在の意味を人間が断定できると思うことは間違いです。人間の知性は、そこまで無限の能力を持っているようなものではありません。命への価値づけは、人間の知性によって、人間の都合の良いように付けられているものです。人間のために役立つから“良い存在”、人間に害を加えるから“悪い存在”と命にレッテルを貼ることは、人間側の傲慢な解釈でしかありません。

 自分達が他の命を犠牲にすることを、当たり前のことだと思ってはいけません。
 地球上に存在する命は、人間の価値づけとは関係なく生き、存在しています。あくまでも、彼らはそれぞれ、自分たちの生をまっとうすることを目指しています。そして、僕達人間は、その、精一杯生きている命を奪って、自分達が生きるために役立てているのです。

 僕達が生きるために犠牲にされる無数の命のおかげで、今僕達は存在し、生きています。そのことを忘れてはいけません。目を背けてもいけません。こども達には、自分達が生きるために殺されている動物がいることを、しっかり伝えなければならないと思います。

 僕達がゴハンを食べるときに、「いただきます」と手を合わせるのは、生きている命を奪い、自分達のために「命をいただく」ということを意味しています。
 中には、ウシやブタといった家畜は、神様が自分達の食料にするためにこの世に与えてくださったのだから、神様に「食料を与えてくださってありがとうございます」と感謝をしたとしても、食べられて当然の家畜に対して感謝をする道理などない、と考えている人もいるかも知れません。

 でも、その理屈自体が、自分達の行為を正当化するために創り上げられたものであり、自分達の良心を心の奥へと追いやっている行為であると思います。
 自分達が犠牲にする命に対して、「食べられて当然」と考えるのは間違っていると思います。

 人間がするべきなのは、犠牲にすることを正当化することではありません。何より大切なことは、人間が生きるために犠牲にする命に対して感謝をするということです。そうして、感謝をしつつ、犠牲にした命に対して、恥ずかしくない生き方をするということです。

 恥ずかしくない生き方をするということは、僕たちが奪った、精一杯生きていた命の分まで、僕たち自身が精一杯生きるということです。
 もちろん、感謝をし、精一杯生きたとして、犠牲にされた命がそれで許してくれるわけではないし、納得してくれるわけでもないと思います。

 しかし、感謝し、精一杯生きることを、自分達の心の中にある人間性を大切にする行為だと考えるならば、何よりまず自分達の心のために、そして人としての生き様を大切するために、必要なことだと思います。
 僕達は、自分達が生きるために犠牲にしている命に対して、日々の暮らしの中でわりあい無頓着であると思います。

 それは、動物を殺す行為が、日頃の生活の中で、自分達に目に付きにくい所で行われているということと、そういうことを考えると良心にさいなまれるので、あまり考えないようにして生活しているということもあるかと思います。
 目に見えるところで行われていると、それで心が痛むので、さらに目に付きにくい所に押しやられる部分もあるかと思います。

 でも、自分達の持つやさしさや思いやりといった人間性を大切にしようと考えるなら、僕達のために命を奪われるものの存在を、軽んじたり、ぞんざいに扱うことはできないと思います。

 彼らの存在に感謝し、彼らの生きている環境を少しでも住み良いものにしてあげることは、僕達の人間性に関わってくる問題です。自分達が日頃から搾取している動物を見て、「彼らが自分達に搾取されるのは当然なのだ」などとは、けして言ってはいけないことだと思います。


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