どうぶつ病院診療日記

動物病院の診察風景や、獣医師が日頃思っていることなど

日本古代史

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ニギハヤヒと纒向

日本古代史において、一番重要なキーパーソンの一人でありながら、あまり知名度が高くないのが「ニギハヤヒ」です。

神社では天照国と書かれている神です。
古事記においては、神武天皇が東征して来た時に、神武天皇以前にすでに畿内に入っていた、と書かれている不思議な天津神です。
その後、東征して来た神武にくだり、物部氏の祖先となった、とされています。
さらっと書いてありますし、マイナーな神なので、誰それ?という人も多いかと思います。

神武が東征してくる前に天津神の子孫が畿内に入っているということ自体がおかしな話ですし、本来だったら記述する必要すらない話です。
でも、わざわざそんなことを書く必要があったし、書かざるを得なかったと、いうことが重要なのだと思います。

僕が現時点で考えている古代史のストーリーは、
「出雲、吉備、東海などがヤマト・ネットワーク(弥生人による東国開発のための流通ネットワーク)を作り、最終的に九州がネットワークに参加して日本が統一された。」
というものです。

この中で、ニギハヤヒは最重要の人物(一代の人間とは限りません)のひとりです。
なぜなら、「神武の前に畿内に入り、長髄彦の主人となっていたニギハヤヒ」こそが、神武の東征以前の纒向の元々の主であった可能性が高いからです。

天津神であるというのは大陸からやって来た弥生人であるということであり、舞い降りてその地を治めていたというのは、その地域で豪族としてボスの座に収まっていたということです。
纒向は3世紀頃に、"何もなかった地に突如現れた"都市ですが、「まきむく("真東を向く"の意)」という名の通り、弥生人が東国に進出し、土地を開発して行くために、計画的に作られた都市だと思います。

その最大の目的は、「流通」だと思います。
出雲と吉備と東海が協力して都市を造ったというのは、お互いにメリットがあったからであり、特に大陸からの進んだ技術、鉄、知識などをもたらした出雲が国づくりに大きな役割を果たしたということは、国づくりの神として各地に大国主が祀ってあることを見ても分かる通りです。

纒向は活発に成長し、計画通り、もしくは想像以上に東国の国づくりは順調に進みました。
それと同時に、予想外の出来事が起こりました。
それは、「纒向が予想外に力を付けすぎた」ということです。

纒向の建設から東国作り開始の時期において、纒向はネットワークの盟主でも何でもなく、出雲からしてみればはるかに格下の、「流通所の所長」クラスの存在だったと思います。
支えてやらなければ立つのもおぼつかない、そんな知識も技術も物資も頼りない存在だったからこそ、国づくりに力を貸してやったのだと思います。

ところが東国の開発が進み、流通が盛んになってくると、東国と瀬戸内海の間という絶好の地理的環境の賜物あって、どんどん富が蓄積されて行き、三輪王権と呼べるだけの力を身につけ、大きな古墳まで作れるだけの力を身につけて来ました。
そうなると、出雲と纒向の力関係は逆転し、やがてネットワークの盟主の座は、出雲から纒向へと移るまでになりました(国ゆずり)。

国ゆずりの後に、九州に天孫が降臨し、東征が行われるという流れに不可解なものを感じる人は多いと思いますが、天孫降臨の前に畿内と出雲の間で国ゆずりがあったと考えると、流れがすっきりします。

纒向はこの時点で、盟主的な存在にはなりましたが、その当時はまだ絶対的な存在ではありません。
勢力同士のつながりのネットワークにおいて、相対的に力が強い、というだけのものです。
ネットワークの中で力を持っているだけなので、他を従えている訳でもありませんし、大陸への出口である出雲にはどうしても頭が上がらない部分があります。

あとひとつ絶対的な力を持つためには、強いカリスマ、大陸との強力な直通のパイプが必要です。
地方豪族でしかないニギハヤヒにはそれだけのカリスマはありませんし、大陸とのパイプも、その時点では出雲を通してしかありません。
とこの辺りで、今までヤマト・ネットワークのライバルであった北九州の勢力に、戦乱が起こりました。

ニギハヤヒにとっては、強いカリスマと大陸との直接交易路を得ることができるチャンスです。
北九州と畿内がつながり、瀬戸内海を流通路として使うことができるようになれば、出雲も吉備に対して、絶対的な優位に立つことができるようになります。
北九州の王にとっても、連合に加わることができ、しかもそこの大王になることができるというのは大きな魅力です。

ニギハヤヒと北九州の王の思惑が一致し、北九州から王族を畿内に迎え入れ、纒向と北九州の王族が一体化して大王となる(天皇の称号は天武のあたりからです)という"ハツクニシラス"的な出来事が起こりました。

畿内の勢力の中には、北九州から王族がやって来るということに反対している人たちもいたでしょうし、畿内入りにあたっては、多少のいざこざは当然あったものと思われます。

東征後は大王の位置には神武の系統をおき、その妃にはニギハヤヒの系統をすえるというかたちで(第一代〜九代まで)、ニギハヤヒの系統は、実質的な実力者としての地位を保っています。

ところで、第十代以降の天皇の妃には、ニギハヤヒの血統ではなく、別の所から妃を持ってくるようになっています。
第十代天皇である崇神天皇もまた、"ハツクニシラス"と呼ばれていることからも(神武と崇神は同一人物だという説もありますが)、その辺りで政変があり、ニギハヤヒの血統は、皇室から排除されたのだと思います。

そして、ニギハヤヒの末裔は物部氏として、ヤマト王権の中で武門の地位にありましたが("もののふ"の語源)、やがて失脚し(蘇我氏との争い)、ニギハヤヒの名前もしだいに低い地位へと移って行きます。
ニギハヤヒは天照国という名前で祀られていますが、現在ではニギハヤヒを祀っている神社は数少なくなっています。
神社の中には主祭神を天照国から天照(アマテラス)に替えられるなどして、本来の主祭神を封じられてしまった所も少なくないという話です。

邪馬台国は北九州に、三輪王朝は奈良に、それぞれの勢力が別々に存在した。
北九州は中国・朝鮮に近く、最新の文化を取り入れており、鉄も朝鮮経由で手に入れることができ、3世紀までは奈良よりもはるかに進んでいた。
一方、奈良の勢力は大陸からは遠いが、人と物の交流の交差点として、出雲、東海、吉備、丹後などと、経済的な同盟のように結びつきつつあった(「環濠集落の消滅」)。
出雲などを通じて、大陸の文化や鉄をある程度は手に入れていたが(「国作り」)、中国大陸との直接の交通は、北九州の勢力によって塞がれていた。
中国大陸から見た日本とは、九州の倭がそのものであり、その向こうにある近畿などの文化圏は認識されていない。
「倭国大乱」は北九州の勢力内の争いである。

北九州にはいくつもの国があり、2世紀後半には戦乱状態にあったが、3世紀に入ると伊都国の公孫氏とのつながり、日の巫女の呪術の力を背景として、連合のようなゆるやかな形となった。
3世紀中旬、公孫氏の滅亡、「卑弥呼」の死によりバランスが崩れ、邪馬台国連合は戦争状態に陥った。
混乱状態の中、日の巫女は伊都国の王族とともに瀬戸内海を東に逃げ、奈良の勢力(三輪王朝)の元にたどり着いた(「神武の東征」)。

三輪王朝はその頃、他の勢力と結びつきながら勢力を拡大しつつあったが、
北九州に勢力を拡大することは、大陸との交流を直接行うためにも、奈良の勢力にとって望ましいことであった。

三輪王朝は日の巫女を迎え入れ、その呪術の力を手に入れた。
伊都国の王族は、三輪王朝に迎え入れられ、後に婚姻関係を結ぶ。
日の巫女の呪術の力、伊都国の血統を手に入れた三輪王朝は、日の巫女(壱与)と王族に力を貸し、邪馬台国の戦乱は治まる。
戦乱で弱体化し、日の巫女の呪術の力も失っていた北九州勢力は、兵力を得て戻って来た日の巫女たちに抗うこともできなかった。
それと同時に北九州勢力は奈良の勢力のもとに下る。
北九州からは近畿へと人が移り住み、4世紀中に、北九州と奈良の力関係は完全に逆転してしまった。

出雲はかつては大陸とつながる上でも重要な文化的パートナーであったが、北九州進出後は重要度が下がり、かつて国土を繁栄させた神として名を残すばかりとなった。
日の巫女の呪術の力を得た三輪王朝は、それまでの銅鐸を用いた祭儀を取りやめ、日の象徴としての銅鏡を用いた祭儀へと移り変わって行く(「銅鐸文化の終焉」)。

北九州の王族の血統は奈良の血統に流れ込み、九州を従える正当な理由のひとつになった一方で、日の巫女は用済みとなり、むしろ邪魔な存在となった。
日の巫女の持つ呪術の力は三輪王朝に簒奪され、日の巫女は三輪山に生け贄として捧げられた。
日の巫女は再生できないように、陰部を破壊され殺された(「箸墓」)。
呪術の象徴にして三種の神器のひとつである勾玉は、以後宮中で保管される。

高貴にして偉大なる日の巫女の力は死後も畏れられた。
その墓は天皇と同じほどの規模とされ、日の巫女を祀る神社は大きなものとなった。
しかし、天皇家は「日の巫女殺し」というその最大のタブー故、宮中からは遠ざけた所に神社を配し、直接天皇が詣でることもなかった。

北九州進出後、王族内には三輪王朝純粋の血統と、九州王族の血統があったが、応神天皇の時代に九州王族の血統が王権を奪い(「武内宿禰のクーデター」)、「王族・日の巫女の東遷」は、「神武の東征」として九州から畿内へと、"勝って進んだ"話に書き換えられた。
天津神が舞い降りた地が九州とされたのも、天孫の後裔が、九州から畿内へ"勝利者"として移る物語にしなければならなかったからである(「天孫降臨」)。

僕は、「ヤマト」という名称は、北九州が連合に入ってからの名称だと思っています。
したがって、北九州が入っていない段階での連合の名称はヤマトでもないと思うのですが(あえて言うならヤヨイ連合か)、なんと言っていたのか名称を知るすべもなく、ややこしいので「ヤマト連合」という名称で書きます。

ヤマト連合は、出雲、吉備、丹後、東海などがゆるやかな連合を組んだネットワークですが、その一番の目玉は、「纒向に政治・宗教に特化した都市を建設した」ということです。
纒向は3世紀になって、突如計画的に作られた都市ですが、そこから出土する土器は全国から流入している、という特徴があります。

その内訳は、伊勢・東海:49%、北陸・山陰:17%、河内10%、吉備7%、近江5%、その他7%です。
東海が地理的にも近いので土器は多いですが、祭祀関係の土器は、吉備からのものが一番多いようで、建設にあたっての旗振り役は吉備ではないかとも言われています。

通常の勢力というのは、農業が発達して人口が増えて、そこから都市へと発展して行くという経過を辿りますが、纒向の場合は、そういうバックボーンがなく、突然出現しています。
その後、纒向がヤマト王権の中心地に発展して行くことからすると、何かの目的を持って纒向が作られた、と考えられます。

纒向が建設されたのは3世紀前半頃と言われていますが、この頃の日本、東アジアの情勢はと言えば、北九州に文化、鉄の発達した勢力があり、中国は後漢が終焉を迎えつつあり(220年に滅亡)、代わって魏が強大になって来ます。
しかし魏は全国制覇の手前でつまづいてしまい、三国時代となってしまいました。
魏は呉を攻めるために、倭(北九州)=邪馬台国との連携を組むことを望んでおり、しばしば倭を訪れていました。

吉備などの東の勢力から見れば、鉄は下関で抑えられていて、なおかつ魏と北九州が組みつつある、という状況は、かなりの切迫感を感じたであろうと思います。
各勢力がどんぐりの背比べで争い合っているだけであれば、連合など考えなくても良いのでしょうけれども、切羽詰まった外圧と言うのは、同盟関係を組む大きな動機となります。

初期には、東の勢力同士で争っている場合じゃない、同盟を組んで対抗しないとやられるかもしれない、という思いがあったのではないかと思います。
もしも仮に魏から援軍をもらって北九州勢力が東に攻めて来たとしたら、東の勢力は存亡の危機にさらされてしまいます。
同盟を組む、一番最初の動機は、北九州に共同して対抗するためのものだったと思います。

そして、同盟を組む利点としては、それだけではありません。
もたらされるさらに大きな利点が、「勢力同士の流通の潤滑化」です。

3世紀初頭というのは弥生時代の末期ですが、弥生人が弥生人である所以と言うのは、「稲作を行う」ということです。
この頃は弥生人も海沿い、川沿いを中心に東日本までも稲作が広がりつつありましたが、東日本に稲作が進出するにあたっては、「植生の違い」と「縄文人の抵抗」というふたつがあります。

植生は関ヶ原の辺りから、西は照葉樹林、東は落葉広葉樹主体で、生えている樹木の種類が異なります。
植生が違うと、当然稲作のための土地作りも違う訳で、これまでのノウハウがそのままは通じず、東海以東に進出した弥生人は、「これは一筋縄ではいかん」と思ったことと思います。

しかも、それまでの生活スタイルを変えられなくないと稲作に抵抗する縄文人が多く住んでいる訳で(好戦的ではありませんが)、個々人がばらばらに入り込んで行くのではなく、より組織的に治水、灌漑を行って行く必要があると考えたと思います。

そのために何より必要なものは鉄です。
鉄と言うと、剣を作って戦争をする、というイメージがありますが、一番鉄がその力を発揮するのは、荒れた土地を耕し、開墾を行うための農具製作においてです。

鉄があれば、土地を開墾し、人口を増やすことができます。
人口が増えれば、米がたくさん採れ、流通が盛んになり、国が豊かになります。

そのために必要なのは、ネットワークです。
下関は北九州に抑えられていて、流通を妨げられています。
吉備、畿内、東海は、鉄を流入させることができません。

しかし、出雲が大陸への入り口になってくれれば、対馬海流に乗って、鉄を国内に運んでくることができます。
そして出雲から吉備に鉄を運び、瀬戸内海を経由すれば、纒向はすぐそこです(当時大阪北部は海でした)。
そして纒向から東海へと鉄を運べば、そこを拠点に東日本の開墾=国づくりを行うことができます。

纒向が東日本の開発を想定して作られたということは、その名前からもうかがうことができます。
古い日本語で、東は(キ)と呼びます。
つまり、マキムクとは、「真東を向いている」という意味の都市です。
東に向かって町を作る意味、というのは、この時代、弥生人が稲作による国づくりを行うため、という意味を持っているのだと思います。
縄文人は、自分たちから攻めてくる程好戦的な人種でもありません。

防衛同盟以上の目的として考えられる動機として、各勢力ごとに考えると、

出雲:大陸から鉄などを輸入して、流通から富を得る
   大陸から逃げて来た人を畿内に送ることで、難民対策をすることができる
吉備:北九州に抑えられていてなかなか入手できない鉄などを得ることができる。
   瀬戸内海の流通で富を得る。
東海:東を開墾して、米を作ることができる。
   弥生人が東日本にどんどん入って行くことができる。

という、大きなメリットが考えられます。
それぞれの勢力が、それぞれ大きな利益を得ることができる同盟です。
勢力間で争う必要はなくなるので、集落の周りに塹壕をめぐらす「環濠集落」は徐々に姿を消して行きます。
争いは物流を損ねますので、得る物よりも失う物の方が多くなります。

また、各勢力間の調整役、物流センターとして、纒向を建設しました。
それまで纒向には何も無かったですが、位置が絶妙でした。
各勢力の中央に位置し、瀬戸内海へ抜けるのもすぐで、東海へのアクセスもすぐです。
防衛においても、天然の要害に挟まれ、西から攻めて来られても東から援軍を呼ぶことができます(落とすとすれば、東から攻めるのが一番ということでもあります)。

大陸からは出雲を通して、鉄以外に、たくさんの大陸人、文化、最新技術が入って来たと思います。
折しも三国時代、戦争で大陸を抜け出した人は、倭国の乱でもめている北九州よりも、より安定している地域へと逃げて来ます。
それらの人・物は、畿内へとどんどん入って来て、国づくりのために大きな力となりました。
ヤマト連合の発展・畿内の国づくりに計り知れない貢献をしたというその実績こそが、三輪山に大国主が祀られ、国づくりの神と呼ばれた、その最大の理由なのだろうと思います。

やがて、北九州がヤマト連合=ヤマト・ネットワークに入ってくれれば、北九州経由で鉄が入って来て、そのまま瀬戸内海を通り、畿内へと鉄・物資・文化を運ぶことができるようになりました。

出雲は存在価値を失います。
そしてやがてかつて国づくりを行った神として神話の中に姿をとどめるのみになって行ったのだと思います。

そして、吉備の形状、出雲の貼り石、九州の装飾具などの各地の埋葬文化を複合させて作られたのが、「前方後円墳」です。
前方後円墳は、各地の文化が組み合わさったものであり、ヤマト・ネットワークに入っていることの印です。
連合に加わっている首長にしかその埋葬法は認められておらず、前方後円墳が全国に広がって行くということは、ヤマト連合の影響力が広がって行っているということを意味しています。

ヤマト・ネットワークに入れば、鉄などの物資や最新の文化などを得ることができます。
地域の王は、その物資、文化をもとに自分の国を開発することができます。
そして見返りに、畿内の大王に対しては、見返りとしての朝貢を行います。
最新技術の前方後円墳を作らせてもらえるということは、安定した国づくりを行って行けるということの看板となるものです。

国づくりのための物資・文化を与え、見返りを得る、それは経営的な手法であり、まさに「ヤマト・フランチャイズ」と呼べるようなものなのだと思います。

ヤマト・フランチャイズを継続的に発展させるために絶対に必要なものは、「九州から大陸の物資・文化を取り込むためのパイプ」です。
だからこそ、絶対に、なんとしても、九州と畿内の間のパイプを切るわけにはいきませんでした。
九州が特別であり、ヤマトの名前を名乗らなくてはいけなかった理由、北九州を特別扱いして王族を迎え入れなくてはいけなかった、その特別な理由がそこにあるのだと思います。

そこで、王族単位で強固な血縁関係を持つために、北九州の王族を畿内に迎え、絶対にパイプが切れないようにしようとしました。
それこそが「東遷」として記紀に名を残している事柄の正体なのだと思います。

「邪馬台国なんてどこにあってもかまわない」
そう思っている時期が、僕にもありました。

でも、邪馬台国が九州にあるか、畿内にあるかによって、九州にあった邪馬台国が東遷したのか(もしくは無関係なのか)、畿内にあった邪馬台国が、そのままヤマト王権に発展して行ったのかということなので、どこに邪馬台国があったのかというのは大問題なのです。

大きく論争になっているのは、北九州か、畿内(奈良)なのか、ということです。
中には四国だとか、ジャワだとかいろんな意見があるようですが、今のところはその2つにしぼられて議論されているようです。
3世紀くらいまでは、九州が畿内よりもはるかに鉄が豊富で(大陸から輸入していました)、文化も進んでいたため、東遷論を取る人は、強大だった北九州が、東に移り、畿内の勢力を打ち倒してヤマト王権を打ち立てた、と考えます。

畿内に邪馬台国があったと考える人は、そのまま邪馬台国が発展してヤマト王権になったと考えます。
九州は畿内の邪馬台国に組み込まれて統一されたということです。
どちらも引っかかる点はあります。

北九州に邪馬台国があったというのであれば、その頃に建設された纒向の存在をどう説明するのか、その後のヤマト王建との関係はどうなのか、北九州が大陸に近く文化も発達していて鉄も輸入しやすかったのに、そちらをわざわざ放棄する形で東遷などするものなのか。
3世紀まで北九州の方が文化も鉄も上だったのに、5世紀になるといつの間にか逆転しているということを、どう説明するのか。

一方、畿内に邪馬台国があったというのであれば、こちらも引っかかるものはあります。
畿内の鉄の流通、使用量は、3世紀の段階では、圧倒的に北九州よりも下でした(そもそも纒向自体が、3世紀になって突如現れた政治/宗教都市です)。
文化的にも北九州の方が大陸に近い分レベルが高く、3世紀前半の段階で北九州を素通りして畿内に来れるか、というのは疑問です。
畿内が鉄や文化を大陸から輸入しようとしても、下関海峡を北九州勢力が抑えている限りそれは無理です。
まして鉄というのは、戦争にも使われる特別な資材である訳で、北九州の勢力が、自分たちの足下を素通りして畿内に運ばれて行くのを、みすみす見過ごすはずがありません。
魏が畿内とつながるというのも、北九州勢力からすれば脅威である訳で、下関海峡を通って、定期的に畿内と大陸が連絡を通ると言うのは、畿内と九州が結んでいない限り、不可能です。

と、ここで僕の説としては、
「邪馬台国は北九州にあった。
 そして、出雲、吉備、丹後、東海などが連合して纒向を建設し、連合を組んだ。
 やがて、北九州は連合に下り、日本は統一された。」
というものなります。
ずっと大陸と連絡を取っていた倭は、北九州のことで、2世紀から3世紀にかけてあった「倭の乱」は北九州の中の争いだということです。

「ヤマト」の名は、北九州が連合に下った時に、纒向を中心とする連合(三輪王朝)が、その名を受け継いだのだと思います。
そもそも邪馬台国の読み方ですが、台は「ト」だと思います。
卑弥呼の次に魏志倭人伝に登場して来る台与(壱与と同一です)は、読みが「トヨ」なわけで、昔も今も邪馬台国は「ヤマト国」だったわけです。

ではなぜ畿内がヤマトを名乗ったかと言えば、利便性、正統性の問題であると思います。
中国からすれば、ずっと連絡を取って来たのは北九州の「ヤマト」であるわけで、それが急に別の国に倒されてしまった(わけではないと思いますが)とすると、大陸からの流通も障害される可能性があります。
流通と国交を連続的に行おうとするのであれば、国としての系統も直系である方が好ましいです。

そこで、大陸から大使がやって来て、
「あれ?ここってヤマトじゃなかったでしたっけ?」
となった時に、
「いや、実は、ヤマトは東に移りましてん!」
と言えば、ヤマトは滅んだ訳ではなく、移動しただけなんですよという口上になったのだろうと思います。

もうひとつは、正統性が本当にあって、名乗ることは正当であったのだろうと思います。
というのは、北九州が畿内の連合に加わるにあたって、畿内の方にとっては単なる連合ではダメだったのであろうということです。
詳しくは次の記事で述べますが、畿内が北九州と組むにあたっては、たんなる連合ではなく、王族同士が強固な血縁関係を持ち、それどころか同一の王族になるくらいの関係でなければならなかった、ということなのだろうと思います。
なぜなら、それこそが連合を組んだ目的と直結する事柄であるだろうからです。

そして、九州から王族が畿内に移った時に、多くの人を連れて行ったため、畿内には北九州にある地名までもが移り、3世紀までの北九州>>畿内から、畿内>北九州、という状態になったのだと思います。

ということで、話は、
「なぜ連合は組まれたのか、なぜ組まなければならなかったのか」
という考察に移ります。
それこそが、日本古代史の鍵となることなのではないかと思っています。

日本古代史 序章

趣味で日本の古代史を勉強しています。
本を20冊くらい読んだ所で、おぼろげながら自分なりの古代史が浮かんできましたので、
こちらにも書いて行きます。

日本古代史は、少々本を読んだから分かる、というものではないです。
分かっていることをつなぎ合わせて、ストーリーを考える、という作業が必要です。
おおざっぱな古代の流れは、

----------------------------------------------------------

・縄文時代(約1万6,500年前〜約3,000年前)
縄文人が日本大陸に移り住む。
狩猟採集生活。

・弥生時代(300 BC頃–250 AD頃)
弥生人が主に九州から移りすむ。
稲作が大陸から伝播
北九州、吉備、出雲などの勢力圏が勃興。

・古墳時代(250頃–600末頃)
ヤマト王権が王権を確立

----------------------------------------------------------

という流れです(ざっくりしすぎですが)。
これをさらに細かく書くと、

----------------------------------------------------------

BC2
銅鐸文化始まる

BC1

AD1
57奴国、後漢に金印を授かる

AD2
107倭国王(北九州?)帥升、後漢王に謁見

後半  倭国大乱

AD3
248頃卑弥呼没する、以後倭国の乱
265魏滅亡
280呉滅亡

前半〜 纒向遺跡建設
中頃  箸墓古墳作られる、前方後円墳の確立
 ?  銅鐸文化の終焉

AD4
316西晋滅亡
391倭、高句麗・新羅を破る

AD5
413倭王讃による朝貢
463吉備の反乱

----------------------------------------------------------

です。
問題は、各勢力圏勃興からヤマト王権の確立の流れが不明だということです。
250年頃が邪馬台国の記事があり、それから好太王碑文の391年の記載まで飛んでいます。
気がつくと王権ができていた?という感じであり、謎の4世紀と言われる物です。

この中で、一番のキーワードは纒向遺跡の建設ということだと思います(前方後円墳と銅鐸も、実は大きなできごとです)。
纒向は、3世紀に突如現れた、政治と宗教に特化しており、計画的に、人工的に作られた町だということです。

通常の勢力圏のように、農業人口が増え、王ができた、というのではなく、最初から政治のためだけの町ができるということの意味は、勢力圏同士が結びつき、いわば「ヤマト・ネットワーク」のコントロールセンターとしての町を作った、ということです。
その後、北九州もそのネットワークに参加し、日本が統一に向かって行った、というのが一番考えられる筋道だと思います。

と、そうなるとここで疑問がいくつかです。

・邪馬台国はどこにあった?
・倭国ってどこを指しているの?
・なぜヤマト・ネットワークは作られた?
・大王は誰がなった?
・神武の東征とは何?
・出雲の国ゆずりとは何?
・神武、崇神、応神とは誰?

答えのでない疑問も多いのですが、考えられることを書いて行こうと思います。
興味のある方限定の投稿ですが。

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