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約5年前に作った大発だが、大発に興味を持つ人は、検索することがあるみたいだ。
だが完成画像をあまり載せていなかったので、改めて公開する。
スクラッチした大発D型の初期生産型に ファインモールドの八九式戦車を載せた。
日本兵は、タミヤとファインモールドを使っている。
前面と後面。
こうしてアップで見ると、アラが目立つ。
前面では特徴のW型船首が見えるが、実はその形状は良く分からない。
想像で作ってある。
このW型船首の評価は、戦時中の「安定して良好」から戦後の「乗りづらい」まである。戦時中の「安定して良好」は接岸した時 船体が左右に倒れず安定の意味だし、戦後の乗りづらいは海上を運行中はWの真ん中部分に海水を飲込むように進むため、船首が激しく上下動して乗りづらかったようだ。
船首の上半分は歩板として開くが 開いた歩板を巻き上げるのに初期の大発はエンジン動力を使用できた。機関室から歩板の巻き上げ機まで、パイプ(?)がつながっている。おそらくこの中をワイヤーが通っていたと思われる。
後期の大発では、歩板の巻き上げは手動のみで、エンジン動力は省略された。このパイプも後期型には、ない。
本来の大発の運用は上陸時の短い距離を運行するだけだったが、実際には長距離の航海も行っている。そのため燃料のドラム缶を積んでいるものも多かった。
戦車を停めている丸太は、全くの想像の品。
このようなストッパーが無ければ船が揺れた際に戦車が船側にぶつかる心配があったのではと考え、作ってみた。
ビットは船首左右に2個、船体後部にはデッキ上に2個の計4個が付いていた。
ビットの形状も後期には、鋳造の一体成型品になっている。
錨を巻き上げる揚錨機(ようびょうき)も初期と後期で形状が異なる。
初期には、このように縦型で、エンジン動力を利用していた。
後期型は横型になり、手動の揚錨機に変わっている。
機関室との連絡ハッチや揚錨機のディティールは分からなかったのでテキトーに作ってある。
船尾の起錨架。錨をデッキに載せ、起錨架もデッキ上に倒せる構造になっている。
しかし、このように錨をぶら下げたまま運用している例もあった。
大発の特徴の一つであるスパイラル・スクリュー。実物はもっと肉厚だった。
また普通のハイドリック・スクリューを使った大発もあった。
歩板の第一節と第二節をつなぐ蝶番。
わたしがみつけた資料では、この形状だったが、他の形状もありそうだ。
船倉と機関室の隔壁。
後期型では隔壁にハッチがついたが初期型はこのように開放されていたようだ。
デッキ前部左右には被った海水を抜く開口部があった。
米国のLCMと並べてみた。
長さはほぼ同じだが、LCMには30トンのシャーマンが載せられた。
大発は12トンの八九式中戦車か7トンの九五式軽戦車しか載せられず、九七式中戦車(15トン)でさえ重量オーバーだった。
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大発のスクラッチ
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新潟県出雲崎町に天領の里という道の駅があり、年に一度、石油エンジンの愛好家がエンジンの運転会を行っている。
石油エンジンは、大発の海軍版である大型運貨艇で使われた。
そこで石油エンジンの運転会へ行き、石油エンジンとはどんなものか見てみた。
これは当日あった石油エンジンで最も大型の物。
エンジンの向こうに立っている人との比較で大きさが想像できるだろう。
この大きさで出力はたったの20馬力。
何と言っても回転数が500回転までしか上げられないのがイタイ。
普通のガソリンエンジンのように5000回転くらいまで上げられれば、単純計算で200馬力まで出力が上げられたはずだが、石油エンジンは原理的にそれが出来なかった。
ただし生産は容易で、いろいろな会社が戦中、戦後、作っている。
大型運貨艇に載せられたエンジンは、画像のエンジンより大型のはずで、ひょっとすると2気筒だったかも知れない。 |
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私が大好きな大発。
日本軍の兵器にしては、大量生産されたため、いろいろな兵器といっしょに写っている。
先日はM10の画像を載せたが、今日はこちら。
画像左がLCM、右が大発だ。
模型で簡易に再現すると
こんなかんじ。 |
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太平洋戦争で日本軍が使った上陸用舟艇に大発動艇(通称「大発」、
海軍では特型運貨船と呼ばれた)がある。
A型からD型まであり、私はその中のD型を過去にフルスクラッチした。
しかし、大発のD型は、昭和8年から20年まで、13年に渡って作られたので
様々な改良がされている。
最も大きな変更は、機関室の密閉で、初期の大発は機関室が密閉されておらず
デッキ上にダクトがない。
一方、後期型はデッキの上にダクトが設置されたので、デッキが写っていれば
違いは明らかだ。
また、後期型は、最初舷側や防舷材がゆるやかなカーブを描いていた。
(初期型も同じ)
それが最後期になると緩やかなカーブが直線に変わる。
これらの変更がいつ行われたのか、詳細は不明だが、
ある程度の期間は分かった。
それは海軍の公称番号による。
例えば、3番目の画像は、海軍で使われた特型運貨船だが、
舷側に公称番号4309が書いてある。
海軍の特型運貨船の公称番号は、戸田さんのHP「大日本帝国海軍特設艦船」
に詳細が載っており、この大発は昭和16年8月頃に作られたということが分かる。
私は、機関室が密閉される改造は、太平洋戦争で米軍との戦いが始まってから
と推測していたが、違っていた。
真珠湾攻撃(同年12月)の前に、後期型への改造が行われていたのだ。
同様に最後期型は昭和18年の暮れには登場していたことが分かった。
そこから、それぞれの生産数も推測できる。
初期型は多くても400隻、おそらく300隻程度。
後期型は残り5000隻で、そのうち3000隻は最後期型だったと思われる。
しかし一方で、終戦時残っていた大発に最後期型は少ない。
終戦時の写真を見ても、ほとんどが後期型で一部が初期型。
大発洞窟に残っている大発は全て後期型だし、
昔 嵐山美術館にあった大発も後期型だった。
最後期型の大発は、みんな蟻輸送作戦の途中で沈められてしまったのだろうか?
だとすれば、悲劇の大発だ。
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大発のスクラッチの起承転結は、以前書いたが、私の気持ちの中で
終わっていない部分がある。
私が作ったのは、大発のD型の初期型だが、一般的なのは後期型だ。
初期型は図面があったので、初期型を作ったのだが、一般的な後期型も
作ってみたい。
船体下部を前回のようにバキュフォームで作るのは大変だが、
実物と同じようにキールや肋材にプラ板を貼り付けるやりかたなら、
もっと楽に作れそうだ。
大発の初期型は揚錨機が縦型だが、後期型は横型だ。
この横型の揚錨機は、現在でも構造は変わっていないと思われる。
近くの出雲崎海岸にそんな揚錨機があったので、画像を撮ってきた。
今年は、作りかけの模型を完成させることしているので、
D型の後期型を作るにしても来年以後だ。
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