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2018年2月4日(日)
【新約聖書における『復活』を考える。】
私が復活を語るには十年早いかもしれませんが、十年後に私がどうなって
いるかはどこにも保証がありませんので、ちょっと無謀かもしれませんが、今日の「新約聖書における『復活』を考える」というテーマにチャレンジしてみたいと思います。
皆さんにお渡ししていますプリントに、「ある新約聖書学者」と書きましたのは、西南大学名誉教授の青野太潮先生のことです。青野先生は日本新約聖書学会の会長でもあられました。
その新約聖書学会におきまして、元来のマルコによる福音書は16章8節でぷつっと終わっていた、というのが定説になっているそうです。ですから、9節以下の復活のイエスがマグダラのマリアに現れたとか、二人の弟子に現れたとか、弟子たちを派遣したとか、天に上げられたという記事は後から付け加えられたもので、二次的な資料として扱うべきだとなっているのだそうです。そうしますと、マルコによる福音書16章8節まででは、復活のイエス様が現れたということが全く書かれていないので、どうやって復活のイエス様を捉えたらいいのか、という疑問がわいてきます。その時に鍵となる言葉が、皆様のプリントに印刷しています聖書の箇所のマルコによる福音書16章6〜7節
:「若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナ
ザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられな い。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペト
ロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。
かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」です。
ガリラヤというのは、イエス様が生きていた時、神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追い出し、奇跡を行った場所であります。つまり、イエス様の生活の場所であったわけです。そして、マルコによる福音書というのは、そのイエス様のガリラヤでの生活を生き生きと描いている書物であります。ですから、「ガリラヤで、〜お目にかかれる」というのは、「もう一度、マルコによる福音書を最初から読んでみてくれ。そうすれば、生き生きとしたイエス様に会うことができるのだ。これこそまさに復活のイエスとの出会いであるのだ。」そのように青野先生は、マルコによる福音書からの復活解釈をされたのであります。もちろん、色々と異論はあると思いますが、私たちが福音書を読んでイエス様の姿に触れる。それは2千年前に一度だけ起こった出来事なのだけれど、今、それらを読み返してみてもイエス様の姿に触れることが出来る。そういう意味では、青野先生の復活理解も決して誤りではないと思います。
ここからは、パウロの書いたコリント信徒への手紙一15章を少しずつ読み進みながら、パウロが宣教したかった福音の内容を味わってみたいと思います。
◎まず、1〜2節では、この15章で述べる事柄が、キリストの福音の基礎に根差しているということをコリント教会の人々に強調しています。救いの根源を語っているとも言っています。
1)1節〜2節(福音の基礎として復活宣教)
:「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかりと覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。」
2)3節後半〜4節(キリストが死に、葬られ、復活したことの意味)
:「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりにわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり3日目に復活したこと、」
◎ここでは、「葬られたこと」という言葉が、一つのターニングポイントになっています。この言葉が「死んだこと」と結びつくと、キリストの人生の終わりを指すことになり、この言葉が「復活したこと」と結びつけば、新しい命へのスタートを指し示すことになります。そして、共に、聖書に書いてあるとおりとあり、これらが啓示によることを表しています。
3)5節〜8節(キリストの顕現について)
:「ケファに現れ、その後12人に現れたことです。次いで、5百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。〜そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」
◎次に心に留めて置きたい点は、「現れ」という言葉です。キリストがどういう形で現れなさったかは記されていませんが、「ケファに、その後十二人に、次いで5百人以上の兄弟たちに〜次いでヤコブに、〜そして最後に、〜わたしにも現れました。」というのです。これは、神のなさり方で(言い方を変えると啓示という形で)、使徒たちに現れなさったのです。まさに、キリストの顕現が語られています。
4)12節〜14節(死者の復活について)
:「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」
◎ここで問題になるのは、キリストの復活と共に、死者の復活があるかないかということです。コリント教会の人々は、キリストの復活は信じていたが、死者全般の復活のことになるとあやふやで確信がなかったようです。そこで、パウロは、「死者の復活はあるのだ」とコリント教会の人々に訴えているのです。
5)20節〜22節(キリストこそ死者からの復活の初穂)
:「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」
◎キリストが死者の中から初穂として復活し、キリストによってすべての人が生かされることになった、ということの宣言です。
◎また、復活には順序があり、
6)23節〜24節(復活の順序について)
:「ただ、一人一人にその順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで世の終わりが来ます。」
とされています。
◎「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体でくるのか、」という復活の体への問いについては、以下のようにパウロは述べています。
7)42節〜47節(自然の命の体と霊の体について)
:「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちな
いものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活
し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つ まり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体
があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある
生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊と
なったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体が
あり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者で
あり、第二の人は天に属しています。」 ◎最後に、パウロは神秘として次のように語っています。
8)51節c〜54節(終わりの日に、一瞬にして変えられる)
:「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着ることになります。〜死は勝利に飲み込まれた。」
◎コリントの信徒への手紙一15章を読みながら、パウロの復活の福音を読んでみました。しかし、私たちは復活して終わりではなく、その後、イエス様の前に立たなければなりません。そして、審判を受けて、神の国に入れるかどうかが決められるのです。その時の判断基準が、以下に引用したマタイによる福音書25章34〜30節の記事です。ここで、神の羊として扱われる基準は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」という言葉です。そしてそれは、現在この世で生きている間の生活にかかっているということです。今という一瞬の積み重ねが、永遠の命へとつながっているのです。
◎マタイによる福音書25章34〜40節から
:「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福を受けた人たち、天地創造の時からお前たちに用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いているときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいるときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸であるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
D.おわりに(現在の生活が復活後の在り方を決める。 神の国を受け継ぐ者となれるようなこの世の日常生活を送りたい。そし
て、神の国の待合室で、終わりの日のラッパとイエス様の再臨、そして神
の国の到来を待てるようになりたいです。15年前にお連れ合いを天に召
され、今もなおその悲しみと寂しさを抱えながらも、必死で病院に入院し
ておられる患者さんや外来の患者さんと向き合っているある病院の院長先
生とお話をする機会がありました。その先生は、自分の内側に大きな悲し
みを抱えながらも、今、目の前で苦しんでいる人たちと必死で向かい合っ
て生きておられました。医者だからではなく、いと小さくされた人に寄り
添っている方であるから、きっとこの先生は神の国へ入られるのだろう
な、そう思わされました。つまり、「復活」の前に十字架の苦しみを味
わいつくされたイエス様と同じように、この世で、格闘されているからで
あります。だから、「十字架と復活」が共に語られてこそ、真のキリスト
教の教えになるのではないでしょうか? |
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今日、P.ティリッヒの「永遠の今」と題した説教を読みました。はじめに、ティリッヒは、「あなたもやがて終わるときが来ます」ということを告げます。この「終わりが必ず来る」とは、ちょっと不気味な響きさえ感じますが、彼は人間は必ず終わりが来ることを自覚することで、自分の現在の生にリアリティが生まれ、現在を生き生きと生き始めるのだ、と言っていると思いました。だから、彼は、私たちに必ず終わりが来ることを受け入れることの大切さを説くのです。
そして、次に、未来・過去・現在の順に、彼の説教を展開していきます。
私の心に一番残った言葉は、過去についての彼のコメントで、「起きてしまったことは起きてしまったのであって、永遠にそのままです!しかし、事実の持つ意味は、永遠なるものによって変えられます。そして、この変化が『ゆるし』の体験と呼ばれるものなのです。もし過去の意味がゆるしによって変えられるなら、その未来に及ぼす影響もまた変えられるのです。呪いという性格は取り除かれます。それはゆるしという変革する力によって、一つの祝福となるのです。」というものでした。過去に負った(心の)傷は事実としては残るけれども、そこに「ゆるし」ということが起こるときに、過去に負った傷が祝福され、変革され、癒されることがありうるのだ、というティリッヒの言葉に慰めと希望をもらいました。
さらに、彼は、「永遠なるもの」の存在に言及していますが、この言葉は、イエス・キリストのことを言っているのだと思います。イエスは、「わたしはアルパでありオメガである、初めであり終わりである。」(ヨハネの黙示録21:6)という方であり、昔いまし、今いまし、やがておられる方だということに触れ、この方の元に私たちは帰るのであるとも言っていたように思います。
もっと深い内容が書かれているとは思いますが、私のブリーフ読後感想でした。念のため、私が読みましたティリッヒの説教集の題名と出版社名を書いておきます。著者名:P.ティリッヒ・書名:「永遠の今」・出版社名:新教出版社です。
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最近、「低みに昇る」という言葉が頭に浮かんでくる。この言葉は、確か、山谷伝道をされた牧師先生が使われたものだと記憶しているが、定かではない。どなたか、明確な記憶をお持ちの方がいらっしゃったら教えて頂きたい。普通は、「低み」とくれば「降る」という言葉が妥当な言葉の並びだと思うが、この「低みに昇る」という言葉を用いた方は、「低み」こそ実は「高み」なのだという逆説を語られているのである。言うまでもないことだが、「わが神、わが神、なにゆえ私をお見捨てになったのですか」と絶叫されたイエス・キリストの歩みも、この「低みに昇る」人生だったのだ。私たちは、「高みに昇る」ことに一生懸命になってはいないだろうか?イエスの言葉にあるように、「偉くなりたい者は仕える者となりなさい」という言葉に従っているだろうか?今、日本は岐路に立っている。この時、あなたは「低みに昇る道」を選ぼうとしているか?それとも、「高みに昇ろうという道」を選ぼうとしているか?しばらく立ち止まって考えてみてほしい。
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かつて、大学の卒論担当教授の宣教師の先生から、P・ティリっヒの「永遠の今」という説教集をいただいたことがある。本の内容は今はあまり覚えていないのだが、「永遠」という言葉と「今」という言葉が、統合されているところに心が留まっている。「永遠」という概念は、限りなく長く、時間の制限がないイメージだが、「今」という言葉は、一瞬の時間の概念である。この二つの言葉が統合する時に、今に生きる者は永遠につながり、永遠を思う者は今を大切にすることを求められている、という素敵な生き方を指し示していてくれる感覚を感じ取れる。だから、「永遠の今」という言葉の持つ含みと深みが、私たちに生きる希望を与えてくれていると思う。今を生き生きと生きることによって、私たちは永遠を思い、永遠を考えることによってこの一瞬に輝きをと願う。そんな素敵な言葉を噛みしめてみてはどうだろうか…! |
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北野武監督作品の「アウトレイジ-最終章-」を観てきた。
ストーリーは、現代のやくざ映画なのだが、この映画のどこがいいのかを見極めてみたかった。
しかしながら、評論家でもない私には、コメントが難しい映画だった。
ただ、主人公の大友さん(ビートたけし)のやくざぶりが、然りか否かという動きで、
そこが、他の登場人物と異なっていて、とても潔い生き方をしているな、と思った。
やる時はやる。そして、躊躇なく徹底的にやる。
人殺しのシーンが多いやくざ映画を全面的に肯定はできないが、
大友さんの生き様には、引き付けられるものがあった。
あなたなら、どんな感想を書くのかな?
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