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今日は聖書でよく登場する幕屋について考えていきましょう。
幕屋とは簡単に言えばテントです。
旧約聖書のはじめの5つの本、モーセ五書にはエジプトを脱出したイスラエルの民が幕屋に住んだことが書かれています。
幕屋はその場所に定住するためではなく、移動しながら生活をするのに適しています。
彼らはずっと荒野(砂漠)に住むために幕屋を張ったのではないのです。
パウロはそのコリント人への手紙第二の中でこう言いました。
『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
』2コリント4:18−5:4
パウロはこの箇所で幕屋という言葉を使っていますが、どういう意味で使っているのしょうか。
明らかにこれは幕屋そのもののことをさしているのではありません。
幕屋を「肉体」という意味で使っているのです。
この箇所の幕屋を「肉体」と置き換えてみると分かりやすいでしょう。
パウロが言っているのは、クリスチャンはこの地上の肉体はこわれても、神の下さる新しい肉体が与えられる、そしてその新しい肉体を着るのを切望しているのです。
パウロはこの表現をいきなり使っています。
言い換えるとこの表現を読者が分かることを前提に使っているのです。
聖書の民、ヘブル人(イスラエル人)は象徴をよく用いる民族でした。
聖書の中には多くの象徴が出てきます。
もしその象徴をないがしろにして読んでしまうと、多くの箇所が理解不能のまま終わるでしょう。
逆に言えば、象徴を理解すると多くのことが理解できるのです。
しかし、注意点は「象徴は事実に基づいている」ということです。
イスラエルの民が荒野にいたときは確かに幕屋を用いていたのです。
ただの象徴ではありません。
しかし、ただの歴史的事実だけで終わるものでもありません。
イスラエルの民が荒野にいるときに幕屋に住んだということは私たちに何を教えるのでしょうか。
出エジプト(エジプトから出て約束の地に行くまで)は私たちクリスチャンの信仰の歩みを示しています。
イスラエルがエジプトで奴隷であったように、私たちは一度この世の奴隷でした。しかし、彼らは傷の無い子羊を殺し、その血を門の柱やかもいに塗ることによって神の最後の災いから救われたのです。私たちもイエスが神の子羊として十字架上でその血を流され、私たちは神の裁きから救われました。
そして彼らは次に海の底を乾いた地のようにして渡りました。海が分かれたのです。
それは私たちが受けたバプテスマを示しています。
そして彼らは幕屋に住みながら、約束の地に向かって旅立ったのです。
私たちクリスチャンが救われて、バプテスマを受けてからまだこの罪が宿った肉体を着ながら、苦難の多いこの世を生きていきます。
クリスチャンは救われてから荒野に入ると聖書は暗に示しているのです。
この世は私たちの定住するところではありません。
約束の地である天を目指して、移動していくのです。
ヘブル書でもこうあります。
『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
』ヘブル11:13
私たちも「地上では旅人であり寄留者であること」を告白しようではありませんか!
神は私たちの行く道を守られます。
なぜなら聖書にはこうあるからです。
『私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。』申命記29:5
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たとえでお邪魔したものですが 大変失礼ですが上記の考えはあなたの私見ですか ヨセフを人間的にどうこうではなくて 何故エジプトに行ったかですね アブラハムに創世15:13〜14に何と書いてます400年間の奴隷生活の後そこから出るようになると約束されました すなわち神さまの約束を成し遂げるためには ユダヤ人がエジプトに行く必要があります 違いますか 行かなければ約束成就しません ですからヨセフが奴隷で行ったことも 総理になったことも目的は 家族をエジプトに呼ぶ必要があります 主旨はそれですエレミア31:32を読みますと神様が連れ出したと書かれてます へブル9:9にも書かれてますそこからモーゼが連れ出し アブラハムの約束を約400年ノあと成し遂げました 聖書のは旧約新約でできてます 古い約束新しい約束 と言う意味であり神さまの約束は完全に成し遂げるから 約束守いなさいと言うことを 教えるためにアダム以来時代ごとに神さまが選んだものとしましたが 守りませんでした
2013/3/13(水) 午後 9:54 [ bur**60 ]
そこでモーゼがエジプトから出てカナンに入る前40日間の偵察に行きますがヨュシュアとカレフ以外者が反対して入りませんでした それで神さまが怒り40日を40年とされて厳しい荒野生活が始まったわけです 問題は神さまがカナンを与えるとアブラハムに約束創世12;1〜3でしてるのにカナン住んでいるものが体が大きくて恐れた 神様が働くといわれていることを信じきれず 目で移る姿に負け 神さまを信じる信仰をもてなかったことに荒野の生活が生じた事であります 神さまは私たちに信仰は心でするものであるから いつでも神さまの約束を守りなさいという教訓を示してくださっています 聖書は神さまの約束が主題です
2013/3/13(水) 午後 10:12 [ bur**60 ]
しかし神さまは荒野生活で食べ物またモーゼの着物もそうですが神さまが助けても水がないとか不平不満たらたらその上不信仰して多く民が死にましたが カナンに導きました それは全て神さまの約束を守るためです あなたはどこをどう読めばあなたのような解釈できますか カナンに入らないとキリストにつながりません 全て誰のためにかかれたかと簡単に言えば 約束の御子を遣わすためであり ヨハネ5:39にイエス様のことを何が証言してるとかかれてますかね 旧約の実体はイエス様であるという事でしょう ヨハネ1:14言葉が人になってこられた 言葉とは旧約ですね 旧約の文字の実体がイエス様 文字が人おかしいですね 書かれた内容の実体がイエス様であるという事です 見えないことを信じるとは 預言神様の預言は完全ですから約束ですね ですから将来の約束は成し遂げる しかし人間は将来わかりますか 見えません だから見えない神さまの約束を信じることが 信仰だといわれました 荒野はその教訓ですよ 面白半分で聖書を解釈するのは いかかがなものでしょうか
2013/3/13(水) 午後 10:40 [ bur**60 ]