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『イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。』ルカ9:23−24
聖書にでてくる言葉は独特で、私たちが普段常識と考えていることと合わないことがよくあります。
上の聖書箇所もおそらく、その中のひとつでしょう。
私たちは自分を大切にすべきだと思います。
しかし、イエスは
『自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです』と言いました。
これはどのような意味なのでしょうか。
私たちが本当に大切にすべきものは何なのでしょうか。
他の箇所にはこうあります。
『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』マタイ16:26
ここでは「まことのいのち」という言葉が使われています。
なぜ「まことのいのち」というのでしょうか?
それは聖書がこの朽ちる肉体の命よりも、朽ちない魂の命を大切にするからです。
私たちの肉体が滅んでも、私たち自身は消滅してしまうわけではありません。
イエスはまたこうも言いました。
『からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。』マタイ10:28
ゲヘナとは地獄のことです。
神さまはたましいもからだもゲヘナで滅ぼす権利を持っているのです。
だから、イエスは
『自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです』と言いました。
クリスチャンはどうこの地上での人生を歩むべきなのでしょうか。
それは
『自分を捨て、日々自分の十字架を負い、イエスについていくことです』
旧約聖書の聖徒たちもそのように神さまに従いました。
ダニエルは、王の作った偶像を拝まなければ誰でも、獅子のいる穴に入れられるという命令をも恐れずにまことの神だけを拝みました。
ダニエルの同僚であった、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは王の作った偶像を拝まなければ、生きたまま燃える火の炉の中に入れられるという命令をも恐れずに、信仰を保ちました。
アブラハムはどこに行くかも分からずに、神さまの言葉を信じて父の家を出ました。
イエスの12弟子たちもその「肉体のいのち」を犠牲にしてでも福音を述べ伝えました。
この世で自分を愛そうとしたら、この人たちはこういう事を出来なかったのです。
逆に自分を愛した者はどのような道をたどったのでしょうか。
ロトの妻はソドムから逃げている途中に、かつて自分が欲望のままに生活していたソドムを振返り塩の柱になったとあります。
自分の食欲のために長子の権利を売ったエサウも自分の体を愛しました。
彼は祝福を受けたいと思ったのに、受けられなかったのです。
パウロはテモテにこう警告しました。
『終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。
そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、
情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、
裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、
見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。
』2テモテ3:1−5
このリストの中で一番最初にあげたのが「自分を愛する者」です。それだけ警戒しなければならないことなのでしょう。
しかもこの箇所は「見えるところは敬虔であっても」とあることから分かるように、未信者やクリスチャンではない人のことではないのです。
クリスチャンの中にこのような者が多く現れると警告しているのです。
もう少し読み進めると「彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。」とあります。
信仰を一度持っていなければ「信仰の失格者」にはなることはできません。
聖書全体を考えてみても、この世で自分のいのち、自分を愛して神さまに喜ばれた者はいないとはっきり言って良いでしょう。
しかし、わたしも自分を愛する者です。
肉の欲望に負けて罪を犯します。家の外にはまだ永遠のいのちを持っていない、滅びゆく人がいるのに何かと理由をつけて外に出て福音を伝えようとしません。
「今日は暑いから」「今日は雨が降っていて風邪をひくといけないから」
もちろん自分の体をわざと使えなくするべきではありませんが、
より大切な「魂の永遠の救い」のためにこの世のいのちをささげるべきなのです。
そうです。
『自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。』
こうイエスが言われたではありませんか!
私たちは永遠を思っていつも生活をすべきです。
それには作り変えられる必要があります。新しく生まれる必要があります。
御霊によって歩む必要があります。
どうか神よ!私にきよい心を造りだしてください!
あなたに似させてください!
あなたが十字架でその命を投げ捨ててくださったように!
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アーメン!
心がちくちく…
2007/8/1(水) 午後 10:22 [ mil*b*osso*_a ]
僕も書きながら
自分はどうなんだろうって思ったときに
全然基準に達してないのを見つけました。
メッセージって第一に自分に対して語るんですよね☆
2007/8/1(水) 午後 10:45 [ だいすけ ]
praise_logosさん、久しぶりにお邪魔しました。
「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてイエスに
ついて行く」・・・言うは易し行うは難しですよね。
自分の天然の命では無理ですよね。
praise_logosさんが仰るとおり、新しく生まれる必要があり、
御霊によって歩む必要があります。
共にこの道を歩みましょう。
2007/8/11(土) 午前 11:22
聖書の森さん、コメントありがとうございます。
返事が遅くなってしまってすみません。
長い間あけてたのにコメントがあるのは嬉しいです。
共に歩みましょう!祈り求めましょう!
ハレルヤ!
2007/8/14(火) 午後 9:32 [ だいすけ ]