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『それでは、この信仰義認の教えはいったいどのようなものだろうか。キリストによる救いを享受しようと
望む前に、明瞭に知っておかなければならない原則がいくつかある。第一は、罪を認めることである。私
たちは自分の罪深さについて、完全に知っていなければいけない。
私はここで使徒パウロにならって、想定される反対意見を取り上げてみたい。だれかがただちに次のよ
うに述べる姿が想像できる。「あなたは私たちに、罪について説教するのか。罪を認めよと勧めるのか。
あなたの目的は私たちを幸福にすることだと言ったのに、もし罪の認識について説教し始めるならば、そ
れは確実に幸福感をさらに失わせることになるだろう。あなたは故意に私たちを、もっとみじめで、もっ
と哀れな者にしようとするのか」。それに対する答は簡単である。しかり、そのとおりである。それが、
この(ローマ書の冒頭の)数章における大使徒パウロの教えである。逆説的に響くかもしれないが−表現
自体は問題ではない−どんな疑惑が起ころうとも、これが基本であり、そこに例外はない。真実のクリス
チャンの喜びを知る前に、あなたはみじめな者とされなければならない。まことに、憂うつ顔のクリスチ
ャンの究極的な問題点は、自分の罪を十分に認識せず、それを心から悲しんだことがない点にある。その
人は、喜びに至るために避けることができない基本的な段階を経ておらず、願う資格のない事柄を願い続
けているのである。これを聖書のみことばによって、別の形で示したいと思う。幼子の主イエス・キリス
トを抱いて立っている年老いたシメオンの姿を思い出してほしい。「この子は、イスラエルの多くの人が
倒れ、また。立ち上がるために・・・定められています」と語った時(ルカ2:34)、彼は非常に深遠な真
理を述べていた。つまり、まず初めに倒れることがないかぎり、再び立ち上がることはあり得ない。これ
は絶対的な原則である。だが悲しいことに、今日多くの人はこれを忘れ去り、さらに多くの人々は表面的
にしか受け止めていない。しかし、聖書には独自の順序がある。もし私たちがキリストによる救いの特権
にあずかろうと望むならば、この順序が守られなければならない。結局のところ、人がキリストのもとへ
導かれ、キリストのみに信頼するようになるのは、ただ罪の正しい認識によるのである。正しい信仰生活
が送れないのは、自分の罪を正しく認識していないからである。そして私は、これが信仰的な雰囲気、つ
まりキリスト教的な習慣の中で育てられた人々にほぼ共通する問題だと見ている。彼らの最大の問題点
は、誤った罪の概念であることがしばしばある。』
霊的スランプ −信仰の回復− D・M・ロイドジョンズ著
罪についての正しい理解が、私たちによく欠けていることです。
イエスはパリサイ人の家に招かれた際、二人の金を借りている者の話をしました。
それは多く赦してもらったほうが、より赦してくださった方を愛すというものでした。
そして、そこにいてイエスに油を塗り、足を涙で洗った女に関して言われました。
『だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」』ルカ7:47
人は自分はあの人より罪深くないから、あまり赦されていないと考えることが多いのですが、
神さまから見ればそうではありません。そう考えている時点で、もう高慢になっているのです。
だから、自分の罪をよく知って、神さまに赦してもらう必要を知ることこそ大事なのです。
その後に神さまは平安を与えてくれます。
『主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。』ヤコブ4:10
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