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『近代的な立場がとるもうひとつの形として、保守的福音派に属するわたしたちを、「聖書崇拝者」すなわ
ち、聖書を神のかわりにしている、と非難することがあります。この批評家たちに言わせれば、彼ら自身
の権威は聖書ではなく、主ご自身である、というのです。こう言われると、それがわたしたち自身の主張
とちがわないみたいで、はじめは心をひきつけられます。注意深く検討してみないかぎり、これは非常に
霊的な発言と受け取られるのが当然です。
しかし、わたしたちはこういうことを言う人たちに明らかな次のような疑問を出してみずにはおれませ
ん。どういうふうにして主を知るのか、聖書をはなれて主について何を知りうるのか、どこに主を見出す
のか、主について自分が経験したと思うことが、自分の想像の産物、あるいはなにか異常な心理状態の産
物、または、ひょっとして、なにか隠れた力や悪魔の働きではないということはどうしてわかるのか、と
いうことです。「わたしは直接主ご自身から聞くのだ」と言われると、いかにももっともらしく、印象的
に聞こえますけれども、わたしたちは、主についての認識の基礎、さらに彼の権威に関する自分の確信、
また、実際的にはどういうふうにしてそれを獲得できるのかなどの根本的な問題を、明らかにしてもらわ
ないかぎり、その言葉に重みを認めることはできないのです。』
教会の権威
D・M・ロイドジョーンズ著
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