|
『 信仰は神を起源とします。神を見、神を仰ぎ望み、神を黙想すればするほど、私たちは信仰を持つで
しょう。
一つの例証がこの教えの理解を助けてくれることでしょう。かつて、何人かの兄弟たちが信仰の問題で
わたしと話をしにやって来ました。彼らは自分たちの信仰が本当に小さいと感じていました。しかし、本
当に小さいのは彼らの信仰ではなく、彼らの神であるとわたしは言いました。もし、より大きな信仰を彼
らが望んでいるとしたら、より大いなる神を必要としたことでしょう。信仰とはだれかに自分自身と自分
の事柄をゆだねることであると、わたしはその日、彼らに言いました。神を信じるとは、自分自身と自分
の事柄を神に任せ、わたしたちのために成し遂げてくださるよう神に信頼することです。わたしは尋ねま
した、「あなたが何かを人に任せる時、『この人に信頼する信仰が自分にあるだろうか?この人を信頼す
るのにわたしの信仰は十分だろうか?』と問うでしょうか?」。あなたは決してこんな質問はせず、むし
ろ言うでしょう、「彼は信頼できるだろうか?」。あなたは、「わたしは彼への信仰を持っているだろう
か?」とは問いません。あなたが店の持ち主で、一人の支配人を雇って仕事をすべて任せるとしたら、雇
うときに「わたしは彼を信じる信仰を持っているだろうか?わたしの信仰は小さすぎはしないだろうか?
彼に対する信仰を増し加えるべきだろうか?」などとは問わないでしょう。むしろ、あなたは自問したこ
とでしょう、「彼は信頼できるだろうか?彼は正直だろうか?彼は忠信だろうか?彼は当てになるだろう
か?」。彼が正直で、信頼でき、当てになるからこそ、自然にあなたは彼の手に自分のすべての仕事をゆ
だねるのです。あなたは、信仰があるとか、大きいか十分かなどと自問自答する必要はないことでしょ
う。
同様に、あなたは神に信頼すべきです。あなたは、「わたしに信仰があるだろうか?わたしの信仰は大
きいだろうか、十分だろうか?わたしの信仰はどれくらい増し加えられるべきだろうか?」と尋ねる必要
はありません。あなたが尋ねるべきすべてのことは、「神は誠実だろうか?神は信実だろうか?神は信頼
できるだろうか?神は彼の約束を悔いて彼の言葉を破るだろうか?」です。もし神が誠実であり、信実で
あり、信頼でき、約束したことを悔いることがないとしたら、あなたは自分に信仰があるかどうか、自分
を調べたり試したりする必要はありません。 』
『事実、信仰、経験』 ウォッチマン・ニー著より
|