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『我々は自分自身を分離させなければならない。
普通の世界の外側のどこかに、どうにかして天幕を立てなければならない。
それは例外的な場所でなければならない。
普通を越えなければならない。自分自身の道から出なければならない。
さて、あなたの心にずっと残るような質問をしてみたい。
邪悪なこの時代い、あなたは何か例外的なことをしているか。
それとも、神の家に礼拝に行くことや、日課をこなすことに満足してしまっているのか。』(「リバイバル」ロイドジョンズ著 ネコさん訳)
今日この箇所を読んではっとさせられました。
モーセが宿営の外に会見の幕屋を作ったように、神を求めるために自分を分離することができているか。
これは聖書を通して語られているテーマではないでしょうか。
「あなたはわたしのために仲間はずれになれるか」
こう神さまはいろんな箇所で私たちにたずねていることは確かです。
それはイスラエルの民、エレミヤ、使徒たちなど
仲間から離れ、真理のために自分を神さまのものとすること。
その行為こそが、自分の十字架を負うということではないでしょうか。
この世に対して死に、神さまに対して生きる。
そのためには分離がやむをえないことが多い。
バプテスマによって葬られ、キリストとともによみがえった者だったら、
この世に対して大胆に死のうじゃないかと思います。
この素晴らしい本の翻訳をされたネコさんにも感謝します。
それにしても、聖霊に導かれて、みことばの基礎に立ち、はっきりと語ることの重要性はいつの時代でも否定できないくらい大きなものですね。
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like no others, 商業コピーに使うなんて冒瀆もので、神の聖を言い表すべき言葉だと思います。
この世から神の側に取り分けられる分離=聖別ですね。
2009/3/5(木) 午後 11:51 [ Luce ]
世に聖書的な方法で影響を与えられるクリスチャン、教会になりたいですね。
2009/3/6(金) 午前 0:35 [ だいすけ ]
>仲間から離れ、真理のために自分を神さまのものとすること。
>その行為こそが、自分の十字架を負うということではないでしょうか。
ファンダメンタリズムは福音主義の一翼を担うも、そこには分離主義と対抗主義を含みます。ロイドジョンズは1966年の第二回福音主義全国会議において、ジョン・ストットと対立しました。ロイドジョンズの分離主義に対してストットやパッカーという英国内の福音主義者が反対したのです。ロイドジョンズの戦略は分離主義と対抗主義です。同じ年のキール大学での会議は決定的で、ストットやパッカーが支持されました。分離主義ではダメなのです。敵意と分裂を引き起こすロイドジョンズの戦略はもはや福音主義者たちの望むところでありません。『キリスト教の将来と福音主義』マクグラス著P64−70参照。
2009/3/6(金) 午後 10:32 [ スミス ]
ロイドジョンズの主張がいまだに魅力的であることは理解できます。
しかし、分離主義や対抗主義では時代は開かれません。
2009/3/6(金) 午後 10:33 [ スミス ]
Luceです。
カダッシュと読むんでしょうか?「聖とする」と訳されているヘブル語ですが、「分離する」という意味もあるといわれていますね。
というか、「聖」という概念の元は「俗」でない、あちら側のものということなのではないでしょうか?
ロイドジョンズとかいう人はそれと対抗主義を結びつけたかもしれませんが、聖書そのものに立ち返れば、「聖であれ」という神のみこころを実践する上で「分離」は避けて通れず、エキュメニカルという方向にはならないと思います。
2009/3/6(金) 午後 11:27 [ Luce ]
かつてドナティスト論争というものがありました。ドナティストたちは自分たちの「聖」を守るために自らを分離しました。教会は本来一つであるのにです。彼らは道徳的に高い生活をそれによって守ろうとしたのです。それに対してアウグスティヌスは教会を「病人のあつまり」であると表現しました。このドナティストたちの分離主義に対してです。ヘブル語のカドッジュは物理的な距離関係を表す語であって、それは超越を表します。「モーセ以来の伝統においては神について語ることさえそれはタブーとされたのであって<聖>は<神>と同義に用いられたのである」と小林和夫氏は『論集聖化』(東京聖書学院編 P221)でいいます。つまり「聖であれ」とは「神のものであれ」という意味であって、同じクリスチャン仲間から分離することではありません。
2009/3/7(土) 午前 2:27 [ スミス ]
スミスさん、コメントありがとうございます。
僕はロイドジョンズ自身を支持するわけでも、福音派という団体を支持するわけでもないので、聖書が定義している「聖・義・愛」に従いたいと思います。
2009/3/7(土) 午前 9:24 [ だいすけ ]
スミスさん、くれぐれも誤解しないでいただきたいのですが、誰かの論に立脚してのコメントはしてませんので。
「聖」に関しては、単純に原語と辞書レベルでのコメントです。
「エキュメニカル」に対してのコメントは、ナザレのイエス=救い主キリスト=御子である神 という一致無しに神の性質としての「聖」を追求できないという意味です。
2009/3/7(土) 午前 10:24 [ Luce ]