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Q.私たちは最後に現れる反キリストに会うのでしょうか?
【はじめに】
今回は、この疑問に答えたいと思います。
このような疑問をいろんなクリスチャンに聞くと、その人の信じている終末論によって大きく答えが違ってくると思います。
また終末論というと携挙がいつのタイミングで起こるのか、前患難説か、後患難説か、前御怒り説かなどで、意見が分かれます。(これについては僕も自分の立場を持っていて、説明することができますが、またの機会にします)
終末論というクリスチャンの中でも非常に意見が分かれるテーマについて、ひとつ言えるのは明らかな聖書の本文を無視してはならないということです。
この記事で説明していきますが、明らかな聖書の本文を無視して、終末論を作り上げてしまうことは誰でも陥りやすい間違いです。
またこの終末論について話すにあたって、兄弟姉妹のクリスチャンのみなさんに第一にお伝えしたいことは、終末論で違う意見を持っているからといって、交わりを別つ理由にはならないということです。
特に携挙のタイミングについては、僕たちは誰かが「携挙がある」と信じていることで、もう喜んでいます。そのタイミングの解釈がどうであれ、携挙自体を否定していないことが僕たちにとっては喜ばしいことなのです。
【回答】
上記の質問への答えは、明快です。
A.はい。クリスチャンは最終的な反キリストに会います
【反キリストとは】
まず最終的な反キリストを定義することから始めると、反キリストとは黙示録13章に登場する「獣」と「にせ預言者」です(にせ預言者の名称は黙示録19:19−20より)。
彼らふたりがキリストに反対する者、キリストに取って代わろうとする者たちだからです。
「反キリスト」という言葉はギリシア語で「ἀντίχριστος(アンティクリストス)」とありますが、
反と訳されている「アンティ」は、ただ単に反対するという意味だけでなく、「取って代わる」という意味を持っています。
「アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた」マタイ2:22
この「代わって」という言葉が「アンティ」です。
したがって、キリストに反対していないように見えても、真似をしているだけの偽物ならばそれは実質的にキリストに反対しているのです。
【ある牧師さんの意見】
ある日、尊敬しているある牧師さんの説教を音声で聞いていました。
その中で黙示録について話していて、次のように語られているのを聞いて、非常に驚きました。
「(黙示録13章について)この時には教会は地上に存在していないということになります」
この見解が本当だとすると、私たちは最終的な反キリストに会うことなく、その前に携挙され、獣の刻印も実際は関係無いことになります。
ですが二つの理由から、残念ながら、この牧師さんの見解が間違っていることが証明できます。
(僕がこの牧師さんの名前を出さないのは、僕自身非常に尊敬していて、非常に良い教えを多くされていて、できればこの見解を変えてもらいたいためです。キリストにある兄弟としての願いです)
【クリスチャンが反キリストに会うという理由】
まずご自身で黙示録13章を読んでみてください。黙示録全体を読んでみてください。
①その時代に「聖徒(ἅγιος:ハギオス)」がいる
「彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され」黙示13:7
「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある」黙示13:10
この聖徒という言葉「ハギオス(文字通りには聖なるもの)」はクリスチャンを表わしていて、ローマにいるクリスチャンにも、コリントにいるクリスチャンにも、エペソにいるクリスチャンにも、ピリピにいるクリスチャンにも、コロサイにいるクリスチャンにも、ヘブル人のクリスチャンに対しても使われています。
これらの手紙を読むと分かるのは、彼らが私たちと同じように多くの問題を抱えながらも、奮闘していたクリスチャンだということです。
それゆえ、最後の時代に現れる最終的な反キリストにクリスチャンたちは会い、それを認識します。
この黙示録13章にいる「聖徒=クリスチャン」だけを特別なクリスチャンと見ることはできません。原文の原語が同じように他の箇所でも使われているからです。
②獣の数字を数える「知恵(σοφία:ソフィア)」が必要になる
「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である」黙示13:18
1コリント1:24ではキリストが神の知恵(ソフィア)であるとあり、箴言8章ではキリストが知恵(חָכְמָה)と呼ばれ、神の創造のわざに協力していたとあります(箴言8章)。まさに知恵とはキリストです。
そうすると、知恵なるキリストを信じているクリスチャンが地上にいなければ、一体どうやって知恵をもって、その獣の数字を数えることができるのでしょう???さらに本文には「数えなさい」と命令形であります。数えれないとわかっているのに「数えなさい」と神さまは言うのでしょうか。
【反キリストに会うと分かると】
では、僕たちクリスチャンが反キリストに直面すると分かるとどうなるのでしょうか。
まず準備ができます
パウロに対して神さまは次のように言われました。
「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」使徒23:11
パウロがローマ皇帝(当時の反キリスト)に直面する準備ができるようにと、神さまは語りかけました。
また現実の世界で、現代に現れている多くの反キリストを認識できるようになります。
「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります」1ヨハネ2:18
言いかえると、(最終的な)反キリストが来ることを聞いていたために、現在現れている多くの反キリストを認識できたということです。
キリストの十字架を否定し、キリストの神性を否定するエホバの証人は反キリストです。
秘跡による救いを説き、聖書に書かれていない煉獄を教え、人を罪悪感のもとに置いているカトリック教会は反キリストです。
より良い世界を作るために、他宗教と協力しなければならない、またイスラムの神と聖書の神が同じであるとサインしたリック・ウォレンは反キリストです。
聖書はただの倫理を教えているだけで、歴史的事実ではなく、文字通りの創造やノアの洪水は起こらなかったと教えているキリスト教系大学のリベラル派教授たちは、反キリストです。
救われていない人はみな反キリストです。もちろん、僕もかつてはその一人でした。
【世の終わりを強調する理由】
僕がモリエルミニストリーズの英語の説教をはじめて、聞き始めた時に
「なぜ、こうも終わりの時代を強調するんだろう」
と思っていました。
ですが、最近読んだ箇所で、それにも意味があるということを納得させられました。
「事の終わりは、その初めにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる」伝道者の書7:8
この箇所は「良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる」(7:1)から始まる、みなさんもご存じの箇所です。
この箇所の「終わり」という言葉は「אַחֲרִית(アハリート)」と言い、世の終わりに関しても他の聖書箇所で使われています(イザヤ2:2など)。
私たちは生まれた日ばかりを考えているよりも、死ぬ日について思いを巡らすほうが益があります。
理由はとてもシンプルです。生まれた日はもう過ぎ去ったけれども、死はやがて必ず来るからです。
みなさんご存じか分かりませんが、僕はキース・グリーン(Keith Green)というクリスチャンの歌手が好きです。
彼は若くして、飛行機事故で亡くなってしまいましたが、彼自身終わりの時代を意識した団体を始めていました(Last Days Ministries)。
終わりの時代のことを意識していると、自分の「最期」にも準備ができると思います。
ですが、クリスチャンになって十数年しても、初歩的な福音のメッセージばかり聞き続けいると、世の終わりや自分の最期が来たときには、非常にうろたえてしまわないでしょうか。
死ぬ日は生まれる日にまさる、クリスチャンが眠りにつくときは新生する時よりも勝っています。
「事の終わりは、その初めにまさり、
忍耐は、うぬぼれにまさる」とありますが、ヘブル語聖書では上の列が下の列に関連しています。
すなわち、事の終わり=忍耐に、初め=うぬぼれに関連しています。
クリスチャンになったばかりの自分は、本当にうぬぼれて、高ぶってしまっていました。
自分が何かすごい者であるかのように思っていたのです。
パウロは監督の資格についてこう語っています。
「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです」1テモテ3:6
ですが、クリスチャン人生が長くなるにつれ(僕はそれほど長くありませんが)忍耐が必要だということをひしひしと教えられてきました。
ともあれ、僕たちクリスチャンはうしろのものを忘れ、前のものに向かってひたすら進むべきです。
そして世の終わりに準備ができていると、自分の最期にも準備ができようになります。
(このテーマに関して真摯なご意見お待ちしています)
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だいすけ様
はじめまして。
トウザ―師のことを調べていて、このサイトに辿り着きました。
いくつかの記事とコメント欄を拝見させていただきました。
イエス・キリストと聖書を愛する姿勢にとても共感を覚え、思わずコメントを書いています。
私は再臨の時期に関しては異なる意見を持っていますが、使徒1:7,8の御言葉に従って共にキリストの証人として救いの福音を伝えていきましょう。それが自分たちと隣人の携挙のための備えとなることを信じて。
感謝です。
2013/11/13(水) 午前 3:18 [ ミヤサカ ]
ミヤサカさん、はじめまして。
A・W・トウザーの本はいくつか読んだことがありますよ。彼は洞察力に優れていましたね。
使徒1:7−8も大事ですね。それと同様にマタイ24章やマルコ、ルカでも何度も記されているオリーブ山の訓戒にも気を付けるべきだと思います。
ミヤサカさんもブログを書かれているのですね。見てみます。
よろしくお願いします。
2013/11/13(水) 午前 10:30 [ だいすけ ]
リック・ウォーレンに関する記事を読みました。やはり携挙が大患難前に起こるか、それとも大患難の中の殉教を通して起こるかで、終末預言に対する態度も変わってくるのは当然です。
「信仰を守る=殉教死」という厳しい時代だからです。
終末預言に関する記事も弊ブログのアーカイブ「終わりの日の警告」で扱っておりますので、宜しかったご覧ください。
ちなみに、リック・ウォーレンに関しては、彼の教えゆえに私は異端だと思っております。
2013/11/13(水) 午後 4:58 [ ミヤサカ ]
だいすけさん、いつも記事拝見しており感謝致します。
私は携挙は大患難の前にあると考えていますが、反キリストとクリスチャンは出会うかについては、僕は出会うと考えています。しかし今の私たちではないと思っています。今の私たちは携挙によって既にこの地上にはいないので、ここで言う聖徒は、大患難中に14万4千人のユダヤ人によって宣教された人によって回心したクリスチャンであると考えています。
なので、今の私達ではなく、携挙後のクリスチャン達と思いますが、いかがでしょうか。
2013/11/14(木) 午後 3:11 [ hi_**jc ]
hi_**jcさん
コメントありがとうございます。いつも記事見ていただき、ありがとうございます。
確かにゼカリヤ14:16などには、大患難を通りながら、生き残る人たちがいることが示唆されています。
ですが、14万4千人のユダヤ人が「宣教する」と分かる聖書箇所はあるでしょうか。今黙示録をチェックしてみたのですが、そのような箇所は無いと思われます。いかがでしょう。
2013/11/14(木) 午後 5:57 [ だいすけ ]
だいすけさん。黙示録ではありません。聖書箇所はマタイ24:14の「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」です。終わりが来るのは、教会が挙げられてから後の大患難時代の時と考えます。
大患難時代における救いの初穂(黙示録14:4)である144000人のユダヤ人が宣教を開始し、そこから大勢の異邦人も救われて来ると考えます。
大患難時代には、2回全人類は福音を聞くチャンスがあると思います。それは144000のユダヤ人による世界宣教と、天使による宣教(黙示録14:6)です。
なので今の私たちは携挙でいなくなりますので、大患難に反キリストに会うのは患難時代に宣教で救われたクリスチャンだと考えます。
2013/11/15(金) 午前 11:30 [ hi_**jc ]
hi_**jcさん
マタイ24:14には14万4千人のユダヤ人が登場せず、そこの箇所から両者が関連していると結論を出すのは、飛躍してしまっていると思います。
また大患難時代に福音を聞く機会があるというのも、不確かだと思います。大患難時代は聖書中では「夜」と言って表わされています。
ヨハネ9:4、1テサロニケ5:5など多くの箇所です。夜になると仕事ができないように、大患難時代には福音が宣べ伝えられて、リバイバルが来る(hi_**jcさんはこうは言われていませんが)という考えは聖書にはありませんよ。
ただわずかな人たちが生き残るだけです(ゼカリヤ14:16)。
2013/11/15(金) 午後 2:39 [ だいすけ ]
容喙するのはよくないことかもしれませんが、壊すためではなく築くための石を幾つか共有したいと思います。
1.ご存じの通り、マタイによる福音書は他の福音書より際立ってユダヤ人を対象に備えられたものです。一章の系図や旧約聖書からの引用の数からも理解できます。24章も、よく読むと「御国の福音」(イスラエルが国として再興されるキリストの千年王国の良き知らせ。弟子達たちの問いかけはユダヤ人全体の関心を代表していました。使徒1:6)、「ユダヤの山にいる人々」(16節)、「安息日にならないように」(20節)などの表現を使っているのは、そのような前提があるからです。「選ばれた者」「選民」という言葉も、まず第一にアブラハムの子孫を対象としています。(続く)
2013/11/15(金) 午後 6:13 [ ミヤサカ ]
続き
勿論、キリストの恵みによってその「神の選び」は異邦人にも与えられましたが。誤解が無い様に書きますが、マタイの福音書やヤコブの手紙、へブル人への手紙が、異邦人である私達には益にならないということでは決してありません。旧約聖書を読むときと同じように、対象や目的、背景などを考慮して読めば、より統合的な理解が与えられるという意見です。簡単ではありませんが。だから互いに確認し合い、築き上げることが必要です。このサイトのように。
2013/11/15(金) 午後 6:15 [ ミヤサカ ]
2.大患難の時の宣教についてですが、正確には3つの手段が神によって用意されるようです。hi_**jcさんが書かれた通り、144000人のユダヤ人による世界宣教と、天使による宣教(黙示録14:6)、そしてもう一つ、二人の証人(黙示11:3-12)です。この二人の預言者は、その証しによって地にいる者を苦しめた、とあり、また彼らの殉教をその人々は喜び祝ったとあります。今のテクノロジーなら、エルサレムで起こることを全世界の人がリアルタイムで知ることは可能ですから、神はそのような器を備えてくださるのでしょう。
2013/11/15(金) 午後 6:17 [ ミヤサカ ]
また宣教の質に関してですが、反キリストの迫害の下では今のような宣教の自由は当然ありません。獣のしるしを受けることや獣の像を拝むことを拒否することが、即、命をかけたキリストの証しとなる時代です。その時代に信仰者として地上に存在していること自体、奇蹟的であり、明確な証しとなるわけです。獣のしるしがなかったら、食べ物も飲み物も買うことができないし、病気になっても薬を買ったり病院に行くことも許されないのですから!(この条件を前提にマタイ25:31-36を読むと、キリストの祝福の意味がより現実味を持ってくるのではないでしょうか。)
2013/11/15(金) 午後 6:18 [ ミヤサカ ]
12:17で「女の子孫の残りの者」(この女は教会ではなく、イスラエルです)、つまり「神の戒めを守り、イエスの証しを保っている者たち」とあるのは、意味深いと思います。神の戒めを「守り」、証しを「保つ」のに、今の時代とは比較できない程の壮絶な戦いがあることを予告しています。
だいすけ様、連続コメント失礼しました。文字制限があったので。
2013/11/15(金) 午後 6:21 [ ミヤサカ ]
ミヤサカさん
コメントありがとうございます。
確かに、共に築き上げていくことは大事ですね。ミヤサカさんのご考察も参考になります。
マタイの福音書の「選ばれた者」、「選民」も確かに第一義的にはユダヤ人ですね。また一方、同じ言葉がマルコ、ルカでも使われているのを見ると、その言葉の範囲はもちろん異邦人にも及んでいると思われます。
ともあれ、興味深いディスカッションを感謝します。
2013/11/15(金) 午後 6:46 [ だいすけ ]
おひさしぶりです。私も、患難中携挙説を支持しています。私って言うか、私の教会ですが。だいすけさんが、「患難中携挙説」を意味して書かれたならばの話ですが。
2013/11/16(土) 午後 5:03
ほれぼれさん
コメントありがとうございます。
僕たちは終わりの7年の後半部分、3年半の「大患難」の中で救われると考えています。7年の中間地点で救われるとは考えていません。
その意味で、「患難中携挙説」と言われているのなら同じです。
聖書(ダニエル書)では終わりの7年があると示されていますが、黙示録で特に強調されているのは前半の3年半ではなく、後半の3年半です。そのために、終わりの7年自体を「患難時代」と呼ぶのも、疑わしいというのが僕の見解です。
2013/11/16(土) 午後 9:37 [ だいすけ ]
>、終わりの7年自体を「患難時代」と呼ぶのも、疑わしい
「患難」ということば、厳密に取扱いですね。これは聖化の手段として用いられるもので、教会・クリスチャンは拒みきれないものですね。黙示録では封印を解いていく記述が相当すると思います。
これとラッパのところの「わざわい」(黙 8:13)や、七つの鉢の「神の激しい怒り」(黙 15:1)は違うということですよね?
2013/11/16(土) 午後 10:11 [ Luce ]
Luceさん
Luceさんの出された黙示録のふたつの箇所(8:13,15:1)を救われたクリスチャンは蒙ることはないと僕は考えています。
2013/11/18(月) 午後 10:29 [ だいすけ ]
だいすけくん
熱心に「みことばをのべ伝える」ことをたゆまずされて、神の国のための働き、感謝です。
携挙に関してではなく、反キリストに焦点を当てたとき、私が一番残念に思い、また危惧することはクリスチャンの中で興味本位が先立ち「反キリストに会ってみたい!」という発言をしばしば耳にすることです。無為に偽キリストを恐れる必要はありませんが、自分が霊的に神の武具で身を固められていない人に限って、しっかり聖書を学ばずに反キリストに興味を抱く傾向があるように見受けられます。「備える」ことなしに「反キリストをみたーい!」という軽々しい思いでいるキリストにある兄弟たちが、自分たちは今の時代、何をすべきか、を真剣にみことばから学び、また御霊の導きに従えるよう、私は祈らねば・・・と思わされます。
2013/12/12(木) 午前 9:23 [ しげこ ]
しげこさん
「反キリスト」に会ってみたいと言うような人がいるんですね。驚きました。そういう人は、クリスチャンと言いながら聖書を否定し、ひどく嫌う人たち、攻撃してくる人たちに実際に会ったことがないんじゃないでしょうか。そのような多くの反キリストに会うと、最終的な反キリストに会いたいなんて言葉は出てこないと、思います。
2013/12/12(木) 午前 10:57 [ だいすけ ]
偽預言者とはバチカンだよ。キリストは偶像崇拝を禁止していたのに、今の教会はそれを行っている。
2014/6/22(日) 午後 5:02 [ 11 ]