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1月9日の路傍伝道

当日は休みだったので、フィンランドからの宣教師トミーとマリアまたリクと路傍伝道に行ってきました。
三人はとても宣教する心意気が強くあり、一緒にトラクトを配っているととても励まされます。
では、当日会った人たちの中で興味深い会話が出来た人たちを取り上げていきます。
 
 
神社で買った木の枝(玉串)を持っているおじさん
 
当日は19日ということもあり、近くのえびす神社(お金の神をまつる)では、木の枝を売っており、その木の枝(玉串というらしいですが)を持った人がたくさんいました。
その中で、玉串を持っているおじさんにトラクトを持って話しかけました。
「よかったら、これ読んでみませんか」
と言うと、返ってきた答えは神社からの玉串を持ちながら
「ああ、うちは無宗教だから、いいよ」
という答えでした。それですかさず
「いやでもそれを持ってるじゃないですか。何かの御利益があるから買っているんじゃないですか」
と聞くと、
「いや、これは商売のためだけだし」
という答えが返ってきました。
それで会話は終わったのですが、よくよく後で考えてみるとやっぱりその人が矛盾していることに気付きました。
それは宗教的な行為(玉串を買って、それを飾ること)をしているのに、自分が無宗教だと思っているからです。
そしてもし玉串が「宗教的」でないなら、ただの木の枝を何円かで買って商売的に何も利益にはなっていないからです。もちろん、そういうようには捉えていず、その玉串に何らかの宗教的、超自然的な力があるからその付加価値を、伝統に従っているかして買っているのでしょう。
僕もかつては同じようなことをしていましたが、誰かが来て、自分の今行っている宗教的伝統より優れたもの、真理があるということを人に伝えなければならないということを学びました。
 
 
「霊感が強い」2人
新大阪でリクの乗る新幹線を待っている間、少しでも伝道しようということになり、駅の近くで待っている人たちにトラクトを配っていきました。
その中でリクの話しかけた2人の人がいて、その人たちが特に変わっていました。
(フィンランドの宣教師たちが日本語がまだ伝わらないところがあるので)、僕が通訳に呼ばれていくと、2人の人(お年を召した方と、若い男性)がいて、何か熱心に話し合っていました。
僕も話しの輪に入ると、その2人は自分たちが「とても霊感の強い人たち」と言っていることが分かってきました。
そしてリクに何か悪霊か何かがついているというのです!
もちろん、僕たちはクリスチャンで信者に悪霊がつくということを信じませんが、僕は彼らが何を語っているのか知ろうと思い、話しを聞きました。
するとその人たちは、この世界には1万の神々がいて、日本には日本を統治する神、アメリカにはアメリカを統治する神、それぞれの国に神々がいるというのです。
そして、僕は
「その神々はどうやって生まれたのですか」
と聞くと、「人が生み出した」と言うではありませんか!
そう聞いて思ったのは、じゃあ人の下に神々がいるということ?でした。
そして「じゃあ、人の下に神々がいるということですか?」
と聞くとそうだと言っていました。
そこでこの質問を聞きました。
「じゃあ、人はどこから来たのですか」
そう聞くと、その人は「そんな難しいことは分からないけれど」と言っていました。
そして色々話しを聞きましたが、最終的に分かったことは聖書に基づいて考えると、その人たちは聖書が悪霊と呼ぶものを崇め、その声に聞き入り、とても危険な状態にいるということでした。
 
 
まとめ
トラクトを配っていると受け取っても、「聖書の話です」というと「結構です」という人が大勢います。そして「うちは無宗教だから」とか「宗教はちょっと」と人は言います。ですが当日もいましたが、お金の神さま(えびす)を崇めながら無宗教、先祖の霊を崇めながら無宗教と言う人たちがいます。
「宗教的でない」と言いながら、「宗教的」であるのが日本人だと思います。
このような現状があることは認めなければなりませんが、それでは真理に行きつくことができません。
聖書は始まりと終わりとはっきりと記しています。全ての始まりと終わりをはっきりと教えてくれるのが聖書です。
当日、「先祖さまを拝んでいるが、無宗教」という人に聞いた質問は、「先祖さまをずっとたどっていったらどこに行きつくのですか」というものでした。
純粋に進化論を信じているならアメーバや地球の岩石と言わざるをえません。またそれを否定すると何かの「宗教的な存在」に頼らざるをえません。
聖書は神がすべてを始め、すべてを終わらせると書いています。創造主であるためにすべての物事の終わりを知っています。まずすべて生きるもの、存在するものの始まり、僕たちの終わりがどうなるかを考えましょう。そして真理を求めれば、必ず神さまは私たちにご自身をあらわされます。
 

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みなさん、こんにちは。
今回は、日曜日に聖書の通読箇所の時間に教会で分かち合った内容を書きたいと思います。
 
その前に、最近僕たち家族はみな嘔吐と下痢をともなう急性胃腸炎にかかっていました。初めに長男がかかり、その世話をしているうちに僕たち父親、母親に移り、とても大変でした(幸いもう回復しました)。
何か悪い物食べたかなぁと考えてみると、スーパーで売っている「手作りハンバーグ」が思い当りました。やっぱり加熱されていない肉、または冷凍されていない肉を置いておくのは駄目なんですね。今日の話はこれにも関連しています。
 
最近は、教会で黙示録を通読していっているのですが、今回の箇所は黙示録314節から22節のラオデキヤ教会の箇所でした。
特に学ばされたのが、315節−16節からです。
 
『また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たく(プスホロス)もなく、熱く(ゼストス)もない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。』黙示録31416
 
冷たい、熱い、またなまぬるいとはもちろん、信者の信仰を語っています。そして、その原語(またはそれに関連した言葉)が登場するところはこの箇所と同じ文脈を持っていることが多々あります。
 
まず熱い(ゼストス=形容詞)から見てみると、その派生語「ゼオー」(動詞)という言葉が使徒1825節に登場します。
 
『この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて(ゼオー)、イエスのことを正確に語り』
 
この人というのは主の教えを受け、弁証論に優れていた弟子アポロのことです。
信仰が「熱い」人はアポロのように大胆にイエスを証できます。
 
それに対して、「冷たい」とはどのようなことなのでしょうか。
「プスホロス」の派生語「プスホス」という言葉がヨハネの福音書1818節に登場します。
 
寒かった(プスホス)ので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。』
 
もちろんこの箇所はイエスさまが捕らえられた箇所で、「気温が寒かった」という意味ですが、それ以上に信仰が「寒かった」または「冷たかった」人のことを語っています。それは誰でしょう?
 
この前の節を見ると分かります。
「すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは、「そんな者ではない」と言った。」(使徒1817
もちろん、イエスさまを否定してしまったペテロです!
 
ペテロはイエスさまとの関係を三度否定してしまうほど、信仰が冷たくなっていました。そして、信仰が冷たくなったペテロは最後どうなったでしょうか。
 
「しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」(ルカ226062
 
そうです、激しく泣きました!信仰が冷たくなってしまっている人は、自分が冷たいという自覚があります。
 
ですが、なまぬるい信仰の人はどうでしょう?
「うーん、信者の家で生れた二世で、信じているんですけど…(何もしていない)」や、キリスト教の文化の中で生れて何となく「キリスト教信者」と答える人によくあると思いますが、自分がまず何を信じているのか、どのくらい信じているのか、どれくらい従っているのかが分かりません。要するにどれくらいなまぬるいのかが分からないのです!
 
僕は名ばかりの仏教の家で生れ、育ちましたが同じことでした。まず自分が仏様の前で手を合わせてはいるけれども何を信じているのか、仏教が何を教えているのか、どう従ったら良いのか何も知りませんでした!本当に熱心な仏教徒さんがいれば、「なまぬるい」仏教徒と呼ばれていたことでしょう。
 
熱い信仰を持つ人は当然自分で自覚があります。そして神やキリストをあからさまに否定する冷たい信仰を持つ人も同じく自覚があります。ですが、なまぬるい信仰を持つ人には(適度に信仰を持っているように感じるため)自覚症状がありません。
 
これが一番恐い状態です。なぜならそのままではキリストの言われる通り、キリストの体からいつか吐き出されてしまうからです。嘔吐をする時(汚い話ですが)、自分では嘔吐をしたくないと思っていても急に嘔吐の感覚が来て、吐いてしまいます。キリストの体も同じです。キリストが信者を手放したくないと思っていても、時が来てしまうとなまぬるい信者たちはキリストの体からバビロン捕囚やアッシリア捕囚、ローマによる侵攻のように吐き出されてしまいます。
 
キリストはそのような結末を望んでいる訳ではありません。
 
キリストが望まれているのはその逆です。
 
『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』(黙示録320
 
吐き出されるどころか、一緒に食事をし、交わりを保たれること、それがキリストの御心です。

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『ヘブライ語聖書が記す古代の町の門と神殿を発掘』
 
By Laura Geggel, Senior Writer | September 28, 2016 04:11pm ET
 
 
「聖書でヒゼキヤ王が紀元前8世紀に破壊を命じた、古代の町の門と神殿が発見されたとイスラエルの考古学者が発表した。
 
途中略
 
ヘブライ語聖書ではヒゼキヤ王がいかに『高き所を取り除き、聖なる石と打ち砕き、アシェラ像を切り落とした』かが記されている(第二列王記183節)。
 
途中略
 
町の長老やさばきつかさ、支配者、王、高官ら高位の者たちは当時、町の門のそばにある椅子に座っていたが、『その椅子が私たちの発掘で発見された』とゲイナーは語る。
 
途中略
 
テル・ラキシュの町の門は発掘され、高さ4メートルの姿で保存されている。最初に発掘された部屋からは、肘掛けのついた長椅子、穀物保存に用いられた壺やシャベル、王の印章「レメク」と刻印の押された壺の取っ手が発見されたとイスラエル考古学局は語る。
これらの壺はおそらくセナケリブに対するユダ王国の戦いの際に、軍事用、行政用として備えられたである。」
 
引用終了
 
 
この他にもこの異教の神殿では「角」が意図的に切り取られた祭壇、神殿の隅に設けられた異教の神を汚すための「公衆便所」などが発見されています。
 
これらのことは何を意味するのでしょう。
 
まずはもちろん、聖書の記述が歴史的事実であるということです。聖書は象徴的な意味を本文に含んでいるとしても、その基礎となる事柄は正確で、歴史的、考古学的に証明できるものです。
 
二つ目に、この考古学的発見が教えてくれていることは、ヒゼキヤの業績に僕たちも習うべきだということです。ヒゼキヤの父は邪悪な王アハズであったにも関わらず、高き所を取り除き、石の柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕きました。それは僕たちの家族、指導者、誰が偶像を勧めていたとしても従わず、勇気をもって偶像を(その権威と責任が与えられているなら)切り離すことと同じです。旧約時代に存在した高き所とは、「自分勝手な方法で主なる神を拝む場所」でした。僕たちも聖書の原則に沿っていない、自分勝手な方法で主を崇めようと、便利な方法、手軽な方法に頼ってしまっているかもしれません。まずは真理が何か(時間がかかるとしても)探し、それに一心に従う決意が必要です。
 
興味深いことに、イスラエルの考古学でヒゼキヤ王に関する発見は多くあります。そのひとつの例がエルサレムの「ヒゼキヤの水道」です(第二歴代誌3230)。
 
これらの発見を通して、神さまは私たちに何を教えようとされているのでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 

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みなさん、こんにちは。
今日はニュース記事から興味深いものを見つけましたので、みなさんと分かち合いたいと思います。
 
「中国・伝説の大洪水、初の証拠を発見 文明史書き換えか」
 
AFP=時事】中国の黄河(Yellow River)で4000年前に大洪水が起きたことを示す初めての証拠を発見したとの研究結果が4日、発表された。この大洪水は、夏(Xia)王朝とその後の中国文明の誕生につながったとされる。
 
途中略
 論文を共同執筆した米パデュー大学(Purdue University)地球大気惑星科学部のダリル・グレンジャー(Darryl Granger)教授が電話記者会見で語ったところによると、調査の結果、過去1万年間に発生したことが分かっている中でも最大級の大洪水があったことが示された。その際の水位は、現在の黄河よりも38メートル高い位置まで上昇したという。
 
途中略
 
研究チームは、地震で崩壊した建物のがれきの中から見つかった3人の子どもの骨に対し、放射性炭素年代測定を実施。その結果、3人が紀元前1920年に死亡したことが分かった
 
 
上記の記事を読んでもらえたら、分かる通り、伝説とみなされていた中国の大洪水に関する証拠が発見されました。
そして、その年代も約4千年前とノアの洪水に近いものです。
(ノアの洪水の聖書の示す年代は、アダムから「〜が何歳に〜を生んだ」という年月を重ねて計算すると、創造から1656年、現代から考えると4364年前になります。もちろん、聖書には何歳何カ月で子供を産んだか書かれていないので、最大5年ほどの誤差は出ます)
 
世界各地には大洪水に関する言い伝え、伝説が残されていて、それが示すのは局地的ではなく、世界全体が大きな洪水を経験したということです。
 
このニュースが出された国は興味深いことに中国です。
みなさんもご存じの通り、中国は共産主義で、キリスト教会も政府の統制下にあり、本当の聖書的な教会は隠れて「聖書」を「あの本」とか言いながら暮らしています。
またこのニュース元はキリスト教系でもなんでもありません。とすると、キリスト教への偏り無しに、発見された証拠をもとにした記事だということです。          
 
では、聖書のいう世界規模の洪水があったということは、どういうことを意味するでしょう。                                               
 
それは、この世全体を裁くことのできる神がおられるということです。         
 
このことは、喜ばしいことでもあり、僕たち罪人には喜ばしくないことでもあります。それは自分が不公平に扱われたや、傷つけられたなどであったらその相手を「裁いてほしい」し、自分が悪いことをしてしまったならそれもまた「裁かれる」対象になるからです。                                              
 
私たちは、心の中で正義というものが存在していることを知っています。聖書はそれを律法が心の中に書かれていると言っています。そのため聖書を読んだことがなくても「殺してはならない、盗んではならない、浮気をしてはならない」という基本的な善悪は皆が知っているのです。                                
 
ですが、僕たちは自分の善悪の基準でさえ、守れているでしょうか。         僕は子供に「怒って叫んだらだめだよ」と教えますが、実際それを自分が守れているかというと、子供が真似をしているように守れていません。               
 
僕たち全員が、自分の持っている善悪の基準を守れていません。それを気付かないケースは善悪の基準が無いかのようにふるまっている場合と、善悪の基準を自分用に「甘め」にして守っているかのように勘違いしてしまっている場合です。     
 
だったら、話を戻しますが、僕たちがそのノアの大洪水の時に生きていたらどうなっていたのでしょうか。濁流にのまれてこの記事にあったような3人の子供のように死んでしまったでしょうか。                                    
 
その可能性は大いにあります。しかし、神さまは滅ぼすだけではなく、逃れの道も用意していました。                                        
 
それがノアの箱舟です。(実際にどんなに大きかったかは、最近完成したアメリカのノアの箱舟の模型を見れば分かります http://www.christianpost.com/news/ken-ham-shares-gospel-with-bill-nye-during-ark-encounter-tour-166278/ )       ノアは自分の造る箱舟に入るように宣べ伝えました(2ペテロ2:5)。ですが、その箱舟にはノアの家族を含めた8人しか入らず、他の者たちは入ることを拒みました。   
 
なぜ拒んだのでしょう。それはプライドです。「他の人にバカにされたらどうしよう」「自分は正しいから裁かれるはずがない」「神さまが裁かれるはずがない」などです。  同じような理由で僕たちはキリストが僕たちの罪のため、十字架にかかったことを認めたくはありません。それは自分が無力だと認めることになるからです。       
 
ある人が書いていましたが、溺れた人を助けるのに最善の時は力尽きる寸前だそうです。まだ自分でもがいているうちは助けようとする人さえ押しのけてしまうからで、もう力が無くなったときが「救いの時」だそうです。                     
 
僕たちも同じです。自分の力で何かが出来る。自分が一番だと思っているうちは誰も助けの手を差し伸べることができません。しかし、自分が無力だと知らされた時に僕たちは助けの手がはじめて見え、それをつかむことができます。          
 
洪水の話に戻ると、世界各地に伝えられているように全世界を覆う洪水が聖書のいう通りに実在しました(ロッキー山脈を見てください、貝が発見された高山を見てください)。ということは、全世界を裁くことのできる神がいるということです。僕たちはその神にどう応答するでしょう。                                
 
「そんな裁きは来ない!」と嘲って、箱舟に入る人たち(救いを受け入れる人たち)を馬鹿にするでしょうか。それとも、自分が無力なことを知って大きな神に頼るでしょうか。 
 
 
 
 
 
 

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みなさん、こんにちは。だいすけです。
今回は、教会で少しシェアさせてもらった「主の日」について書いていきます。聖書箇所は第二テサロニケ2章です。
まず、第二テサロニケにはこうあります。
『さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られること(parousia)と、私たちが主のみもとに集められること(episunagoge)に関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。』2テサロニケ2:-2
最初に分かることは、テサロニケの、また新約聖書の時代の信者にとって主の日というのは「主イエス・キリストが再び来られること(parousia)」と「主のみもとに集められること(episunagoge)」だということです。すなわちこの世からの救いです。
その次の節にはこうあります。
『だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子ho huios tes apoleias)が現われなければ、主の日は来ないからです。』2テサロニケ2:
ここから分かることは、不法の人(=反キリスト)が現れるまでは、再び来られること(再臨)と主のみもとに集められること(携挙)が起きないということです。
ですが、不法の人とは実際どのような人のことなのでしょうか。その言葉自体は、「ルール(や律法)が無い」という意味です。その人のもうひとつの呼び名は、滅びの子ho huios tes apoleias)です。実はこの全く同じ言葉がヨハネ17章12節に出てきます。
『わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子ho huios tes apoleias)が滅びました。それは、聖書が成就するためです。』ヨハネ17:12
この文脈を知っている方は、この箇所での滅びの子が誰を指しているかご存じだと思います。
そう、イスカリオテのユダです。
2テサロニケ2章で同じギリシャ語が使われていることを考えると、終わりに現れる反キリストはイスカリオテのユダの性質を持っていることが分かります。
そしてその順序は     ユダの裏切り     イエスの十字架
となること、また
これと同じで主の日も   反キリストの出現   主の日
となることが分かります。
この対比を見ると主の日とイエスの十字架が関連していることが分かります。
次の表を見てみてください。
 
主の日
 
イエスの十字架
イザヤ13:10
太陽は日の出から暗く、月も光を放たない
マタイ27:45
さて十二時から全地が暗くなって三時まで続いた
イザヤ13:11
わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する
1コリント15:
キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと
イザヤ13:13
その燃える怒りの日に大地はその基から揺れ動く
マタイ27:51
そして地が揺れ動き、岩が裂けた
ヨエル3:16
主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える
マタイ27:50
そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた
オバデヤ15
主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る
1ペテロ2:24
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました
ゼパニヤ1:
主の日は近い。主が一頭のほふる獣を備え、主の招かれた者を聖別されたからだ
黙示録4:
ほふられたと見える子羊が立っているのを見た
この対照表を見ると、旧約聖書の主の日の記述が(部分的で、全体的ではありませんが)主イエスの十字架で成就したことが分かります。
私たちは自分が犯した罪のために罰せられるべきでしたが、イエスがその罪を十字架上で負われました。そのために救われることができます。
また言いかえると、主の日は神の怒りの日です。
私たち、クリスチャンは主の日を経験するのでしょうか?
主の日の怒りがイエスの十字架に注がれたことが分かると、僕たちがその主の日を経験することがないことが分かるでしょう。
私たちは患難(サタンの怒り)を経験しますが、主の日(主の怒り)を経験することはありません。
 
では、ここでこの記事の最初に載せた図、三つの山の絵について説明します。
(元のアイデアは故高木実さんの本からです)
 
聖書の預言はパターンで、複数の成就があり、最終的な成就で人間の歴史は完結します。主の日に関してもそうです。
 
上の対照表で触れたイザヤ13章は、第一の、文字通りの文脈はバビロン捕囚についてです。ですが、預言者はバビロン捕囚について預言しながらも、イエスさまの第一の到来、第二の到来に成就することまで語っています。
つまり、三重の未来を見ています。
僕たちはひとつの預言に、ひとつの成就と思いがちですが、そう見ていると聖書の大部分が意味を成しません。そしてその結果は、旧約聖書から考えず、黙示録の終末の箇所だけを考えて、あれこれ考えてしまうということです。黙示録は主に旧約聖書の引用または暗示から出来ていて、氷山の一角のようなものです。表面に出てきている最終的な成就の下の水中には、膨大な過去のパターンが隠されています。僕たちはその表面、最終的な成就だけを見て何か結論を下すべきではありません。
 
そして付け加えとしてですが、三重の未来を見ているといっても、個々の成就に細かい違いはもちろん、あります。
 
例えばイエスさまの第一の到来と、第二の到来(再臨)です。
多くの旧約聖書の箇所でふたつの到来がおなじように書かれています。しかし新約聖書はメシアが二度到来すると明らかにしました。
そのひとつが次の箇所です。
 
『キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。』ヘブル9:28
 
結論として、僕たちが覚えておくべき二つの点があると思います。
ひとつは、イエス・キリストが私たちのために「主の日」を経験されたということです。私たちが自分の犯した罪のために罰されるべきだったのに、イエスが罰せられました。神の燃える怒りを身に負って、私たちがしたことの結果が十字架上に注がれました。僕たちは何と罪深いことでしょう。何度同じ失敗を犯してしまうのでしょう。自分がしたように自分にもされるなら、僕たちはまともに生きていくことができません。
ですが、憐れみ深い神は、自分たちがしたようにされることを多くの場合許されていません。何とイエスの十字架は僕たちにとって恵みであることでしょう。
二つ目は、イエスの十字架を受け入れなければ主の日を経験しなければならないということです。イザヤ13章、ヨエル書、オバデヤ書、ゼパニヤ書を読めば主の日は恐ろしい日だと分かります。
 
イエスを信じている者にとっては主の日は喜ばしいイエスの到来であり、主と共にいることになる携挙です。
ですが、イエスを信じていない者にとって主の日は厳しい清算の日であり、自分が人にしたことはそのまま自分に返ってくる怒りの日です。

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