だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

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みなさん、こんにちは。
 
久しぶりに記事を投稿しようと思います。
今日書かせてもらうことは、前の日曜日に伝道集会で分かち合わせてもらった内容です。(話した後で気付いた追加事項も書いています)
 
聖書箇所
『さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく(anothen)生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」』ヨハネ3:1−15
 
●イエスさまが言われた「新しく生まれなければならない」とは一体どのようなことなのでしょうか?
 
まず、背景としてはイエスさまが神からの教師として来られたことを知っていたニコデモに対してこう語っています。
まずニコデモという名前はニコス(nikos=勝利)とデモス(demos=民の)から来ており、「民の支配者」という意味です。ユダヤ人の上に立っていたのに、神の国に入るために本当に大切なことを彼は知りませんでした。
 
「新しく生まれる」という際に、「新しく」と訳されているギリシア語は「anothen」であり、「anothen」は上からとも訳されます。
 
もちろん、僕たちは一度母の胎から生まれてここにいますが、生まれた時から罪の性質を持っており、そのままでは神の御国、天国にはふさわしくありません。
 
僕の子供たちもよくケンカをし、一方がからかい、他方がそれによくない方法で反発することで大きなケンカに発展します。
「おもちゃを強引に取ってはいけない」
「悪い態度を見せてはいけない」など、子供たちでも当然のごとく知っているのに、
それを守れません。
 
一方、大人たちも子供たちとあまり変わらないのではないでしょうか。
方法は違えど、また隠し方が巧妙になることもあり、大人たちも
「他社の利益を強引に取る」、「悪い態度を隠れたところで見せる」など
悪いと分かっているのにしてしまっています。
 
またクリスチャンであっても、または教会の牧師であっても倫理に反すること、法律に違反することを行い、「神さまのためなら正当化される」と言ってしまっている人もいます。
 
本当の「新しく生まれること」とはそれと全く関係ありません。
 
次の箇所が「新しく」と訳された「anothen」が登場する箇所です。
 
『あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。
そのような知恵は、上から(anothen)来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。
ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。
しかし、上から(anothen)の知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。
義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。』ヤコブ3:13−18
 
まず、上からの知恵は純真であり、混ざったものが何も無いというものです。
また見せかけやえこひいきがありません。
 
人からのプレッシャーや意思で、人は新しくまたは上から生まれるのではありません。人がクリスチャンになるのは本当は、聖書が真実で、信頼に足るものであることを確認し、聖書の語る神の性質に似たものとなりたいと真に思うからこそなるのです。
 
人から操られてや、騙されてクリスチャンになるのではありません。
(韓国のある教会に行った時に、受付の女性に特別綺麗な人を配置していましたが、教会は意図的に「異性を引きつけて教会に誘う」ようなことをするべきではありません)
 
●では、上からの知恵と反対のものとは何か?
 
では、その反対とはどのようなものでしょう。
このヤコブ人への手紙ではっきりと書かれていますが、その反対とは苦いねたみ敵対心です。
この言葉を読んだ時にはっと気付いた関連箇所は創世記のラケルとレアの話しでした。(創世記29章・30章)
 
ヤコブはラバンおじさんの元に滞在した時、妹のラケルと結婚したいと思いました。
ですが(ラバンの策略により)レアと結婚させられてしまったのです。
後にラケルをも妻として持ったのですが、そのラケルとレアが壮絶な妬みと敵対心を持って子供たちを産みます。
 
最初の子は「今こそ夫は私を愛するであろう」と言ったためにルベン
次の子は「主は私が嫌われているのを聞かれてこの子をも話t市に授けてくださった」ためにシメオン
次の子は「今度こそ、夫は私に結びつくだろう」と言ったためにレビ
と言ったように、ラケルとレアは争いながら、苦いねたみと敵対心を抱きながら12人の子供たちを産んでいきます(女奴隷の子も含まれていますが)。
 
その結果はどうでしょう?
 
たくさんの男の子が生まれたから祝福だったのでしょうか?
 
いいえ、そうではなく上の11人の息子が末の息子を殺すまで憎むような結果に至ってしまいました。
 
教会もそうです。ただどんな方法でも信者を「生めば」良いのでしょうか?
目的のためにどんな手段でも正当化してしまうと、ヤコブの11人の息子、またアブラハムが生ませたイシュマエルのような子供が出てきて、何百年経った後にも苦々しい影響を残します(現在のイスラエルとアラブ諸国の争いを見てください)。
 
新しく、または上から生まれることはそのようなものとは、全く関係の無いことです。
 
人の思いではなく、神のみこころにより、神のみことばによって新しく生まれること、そして神の性質に似た者とされることを渇望する者を、神は待ち望んでいます。
 
 
 

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『また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。』黙示録13章16−18節
 
過去に何度も終わりの時代に現れる獣の刻印について記事にして書いてきましたが、今回はとても衝撃的だったので、また書いて、皆さんにお知らせする必要があると感じました。
 
まずはつぎの動画を見て下さい。
 
 
アメリカ、ウィスコンシンの会社が企業として初めて、マイクロチップを従業員に入れたというニュースです。入れるか入れないかは個人の判断らしく、従業員の約半数が入れる予定だということで、マイクロチップがあれば「クレジットカード」の役割をし(売り買いが出来る)、将来パスポートや公共交通機関に使用されるだろうと言われています。
 
今まで知りませんでしたが、すでにスウェーデンの企業で前例があるらしく、その会社と提携して行っているようです。
 
日本語でのニュースも出ていますので、以下を読んでみてください。
 
今回、特に驚いたのは日本のマスメディア(フジテレビ系)でもこのニュースが取り上げられていたことで、
 
以前までは、新奇なものが好きな変わり者がチップを入れるなどいうニュースしか、なかったのに対し、今回はより公で一般的なニュアンスを含んでいます。
 
また英語でしかほとんど、かつてそのようなニュースは無く、人に伝えても陰謀論的に扱われていましたが、今回はそうではありません。
 
もちろん、今の段階では厳密に聖書の言う獣の刻印とは異なりますが、確実に技術面、そして社会的にその準備がなされているといえるでしょう。
 
イメージ 1
動画からのクリップ「チップ入れました」と書いてある
 
このようなニュースを見て、聞いて、聖書を知っているクリスチャンはどうすべきでしょうか。
 
ただ毎日のニュースの中のひとつに過ぎないと思って見過ごしてしまうでしょうか。
 
僕は自分中心な生活を送っている場合ではないと気付かされました。
 
聖書を知り、神さまを知っているクリスチャンはこの世、経済、お金を崇拝せず、今時間があるうちに出来るだけ聖書のメッセージを広めるべきです。
 
約2000年前から新約聖書は経済をコントロールする刻印を預言してきました。それはただ単なる偶然なのでしょうか。
 
それとも聖書の神は真実で、僕たちに前もって来るべきことを教えようとされているのでしょうか。
 
僕たちは究極の選択を迫られようとしています。
 
この世を取るか、創造主なる神さまをとるかです。

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1月9日の路傍伝道

当日は休みだったので、フィンランドからの宣教師トミーとマリアまたリクと路傍伝道に行ってきました。
三人はとても宣教する心意気が強くあり、一緒にトラクトを配っているととても励まされます。
では、当日会った人たちの中で興味深い会話が出来た人たちを取り上げていきます。
 
 
神社で買った木の枝(玉串)を持っているおじさん
 
当日は19日ということもあり、近くのえびす神社(お金の神をまつる)では、木の枝を売っており、その木の枝(玉串というらしいですが)を持った人がたくさんいました。
その中で、玉串を持っているおじさんにトラクトを持って話しかけました。
「よかったら、これ読んでみませんか」
と言うと、返ってきた答えは神社からの玉串を持ちながら
「ああ、うちは無宗教だから、いいよ」
という答えでした。それですかさず
「いやでもそれを持ってるじゃないですか。何かの御利益があるから買っているんじゃないですか」
と聞くと、
「いや、これは商売のためだけだし」
という答えが返ってきました。
それで会話は終わったのですが、よくよく後で考えてみるとやっぱりその人が矛盾していることに気付きました。
それは宗教的な行為(玉串を買って、それを飾ること)をしているのに、自分が無宗教だと思っているからです。
そしてもし玉串が「宗教的」でないなら、ただの木の枝を何円かで買って商売的に何も利益にはなっていないからです。もちろん、そういうようには捉えていず、その玉串に何らかの宗教的、超自然的な力があるからその付加価値を、伝統に従っているかして買っているのでしょう。
僕もかつては同じようなことをしていましたが、誰かが来て、自分の今行っている宗教的伝統より優れたもの、真理があるということを人に伝えなければならないということを学びました。
 
 
「霊感が強い」2人
新大阪でリクの乗る新幹線を待っている間、少しでも伝道しようということになり、駅の近くで待っている人たちにトラクトを配っていきました。
その中でリクの話しかけた2人の人がいて、その人たちが特に変わっていました。
(フィンランドの宣教師たちが日本語がまだ伝わらないところがあるので)、僕が通訳に呼ばれていくと、2人の人(お年を召した方と、若い男性)がいて、何か熱心に話し合っていました。
僕も話しの輪に入ると、その2人は自分たちが「とても霊感の強い人たち」と言っていることが分かってきました。
そしてリクに何か悪霊か何かがついているというのです!
もちろん、僕たちはクリスチャンで信者に悪霊がつくということを信じませんが、僕は彼らが何を語っているのか知ろうと思い、話しを聞きました。
するとその人たちは、この世界には1万の神々がいて、日本には日本を統治する神、アメリカにはアメリカを統治する神、それぞれの国に神々がいるというのです。
そして、僕は
「その神々はどうやって生まれたのですか」
と聞くと、「人が生み出した」と言うではありませんか!
そう聞いて思ったのは、じゃあ人の下に神々がいるということ?でした。
そして「じゃあ、人の下に神々がいるということですか?」
と聞くとそうだと言っていました。
そこでこの質問を聞きました。
「じゃあ、人はどこから来たのですか」
そう聞くと、その人は「そんな難しいことは分からないけれど」と言っていました。
そして色々話しを聞きましたが、最終的に分かったことは聖書に基づいて考えると、その人たちは聖書が悪霊と呼ぶものを崇め、その声に聞き入り、とても危険な状態にいるということでした。
 
 
まとめ
トラクトを配っていると受け取っても、「聖書の話です」というと「結構です」という人が大勢います。そして「うちは無宗教だから」とか「宗教はちょっと」と人は言います。ですが当日もいましたが、お金の神さま(えびす)を崇めながら無宗教、先祖の霊を崇めながら無宗教と言う人たちがいます。
「宗教的でない」と言いながら、「宗教的」であるのが日本人だと思います。
このような現状があることは認めなければなりませんが、それでは真理に行きつくことができません。
聖書は始まりと終わりとはっきりと記しています。全ての始まりと終わりをはっきりと教えてくれるのが聖書です。
当日、「先祖さまを拝んでいるが、無宗教」という人に聞いた質問は、「先祖さまをずっとたどっていったらどこに行きつくのですか」というものでした。
純粋に進化論を信じているならアメーバや地球の岩石と言わざるをえません。またそれを否定すると何かの「宗教的な存在」に頼らざるをえません。
聖書は神がすべてを始め、すべてを終わらせると書いています。創造主であるためにすべての物事の終わりを知っています。まずすべて生きるもの、存在するものの始まり、僕たちの終わりがどうなるかを考えましょう。そして真理を求めれば、必ず神さまは私たちにご自身をあらわされます。
 

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みなさん、こんにちは。
今回は、日曜日に聖書の通読箇所の時間に教会で分かち合った内容を書きたいと思います。
 
その前に、最近僕たち家族はみな嘔吐と下痢をともなう急性胃腸炎にかかっていました。初めに長男がかかり、その世話をしているうちに僕たち父親、母親に移り、とても大変でした(幸いもう回復しました)。
何か悪い物食べたかなぁと考えてみると、スーパーで売っている「手作りハンバーグ」が思い当りました。やっぱり加熱されていない肉、または冷凍されていない肉を置いておくのは駄目なんですね。今日の話はこれにも関連しています。
 
最近は、教会で黙示録を通読していっているのですが、今回の箇所は黙示録314節から22節のラオデキヤ教会の箇所でした。
特に学ばされたのが、315節−16節からです。
 
『また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たく(プスホロス)もなく、熱く(ゼストス)もない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。』黙示録31416
 
冷たい、熱い、またなまぬるいとはもちろん、信者の信仰を語っています。そして、その原語(またはそれに関連した言葉)が登場するところはこの箇所と同じ文脈を持っていることが多々あります。
 
まず熱い(ゼストス=形容詞)から見てみると、その派生語「ゼオー」(動詞)という言葉が使徒1825節に登場します。
 
『この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて(ゼオー)、イエスのことを正確に語り』
 
この人というのは主の教えを受け、弁証論に優れていた弟子アポロのことです。
信仰が「熱い」人はアポロのように大胆にイエスを証できます。
 
それに対して、「冷たい」とはどのようなことなのでしょうか。
「プスホロス」の派生語「プスホス」という言葉がヨハネの福音書1818節に登場します。
 
寒かった(プスホス)ので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。』
 
もちろんこの箇所はイエスさまが捕らえられた箇所で、「気温が寒かった」という意味ですが、それ以上に信仰が「寒かった」または「冷たかった」人のことを語っています。それは誰でしょう?
 
この前の節を見ると分かります。
「すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは、「そんな者ではない」と言った。」(使徒1817
もちろん、イエスさまを否定してしまったペテロです!
 
ペテロはイエスさまとの関係を三度否定してしまうほど、信仰が冷たくなっていました。そして、信仰が冷たくなったペテロは最後どうなったでしょうか。
 
「しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」(ルカ226062
 
そうです、激しく泣きました!信仰が冷たくなってしまっている人は、自分が冷たいという自覚があります。
 
ですが、なまぬるい信仰の人はどうでしょう?
「うーん、信者の家で生れた二世で、信じているんですけど…(何もしていない)」や、キリスト教の文化の中で生れて何となく「キリスト教信者」と答える人によくあると思いますが、自分がまず何を信じているのか、どのくらい信じているのか、どれくらい従っているのかが分かりません。要するにどれくらいなまぬるいのかが分からないのです!
 
僕は名ばかりの仏教の家で生れ、育ちましたが同じことでした。まず自分が仏様の前で手を合わせてはいるけれども何を信じているのか、仏教が何を教えているのか、どう従ったら良いのか何も知りませんでした!本当に熱心な仏教徒さんがいれば、「なまぬるい」仏教徒と呼ばれていたことでしょう。
 
熱い信仰を持つ人は当然自分で自覚があります。そして神やキリストをあからさまに否定する冷たい信仰を持つ人も同じく自覚があります。ですが、なまぬるい信仰を持つ人には(適度に信仰を持っているように感じるため)自覚症状がありません。
 
これが一番恐い状態です。なぜならそのままではキリストの言われる通り、キリストの体からいつか吐き出されてしまうからです。嘔吐をする時(汚い話ですが)、自分では嘔吐をしたくないと思っていても急に嘔吐の感覚が来て、吐いてしまいます。キリストの体も同じです。キリストが信者を手放したくないと思っていても、時が来てしまうとなまぬるい信者たちはキリストの体からバビロン捕囚やアッシリア捕囚、ローマによる侵攻のように吐き出されてしまいます。
 
キリストはそのような結末を望んでいる訳ではありません。
 
キリストが望まれているのはその逆です。
 
『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』(黙示録320
 
吐き出されるどころか、一緒に食事をし、交わりを保たれること、それがキリストの御心です。

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『ヘブライ語聖書が記す古代の町の門と神殿を発掘』
 
By Laura Geggel, Senior Writer | September 28, 2016 04:11pm ET
 
 
「聖書でヒゼキヤ王が紀元前8世紀に破壊を命じた、古代の町の門と神殿が発見されたとイスラエルの考古学者が発表した。
 
途中略
 
ヘブライ語聖書ではヒゼキヤ王がいかに『高き所を取り除き、聖なる石と打ち砕き、アシェラ像を切り落とした』かが記されている(第二列王記183節)。
 
途中略
 
町の長老やさばきつかさ、支配者、王、高官ら高位の者たちは当時、町の門のそばにある椅子に座っていたが、『その椅子が私たちの発掘で発見された』とゲイナーは語る。
 
途中略
 
テル・ラキシュの町の門は発掘され、高さ4メートルの姿で保存されている。最初に発掘された部屋からは、肘掛けのついた長椅子、穀物保存に用いられた壺やシャベル、王の印章「レメク」と刻印の押された壺の取っ手が発見されたとイスラエル考古学局は語る。
これらの壺はおそらくセナケリブに対するユダ王国の戦いの際に、軍事用、行政用として備えられたである。」
 
引用終了
 
 
この他にもこの異教の神殿では「角」が意図的に切り取られた祭壇、神殿の隅に設けられた異教の神を汚すための「公衆便所」などが発見されています。
 
これらのことは何を意味するのでしょう。
 
まずはもちろん、聖書の記述が歴史的事実であるということです。聖書は象徴的な意味を本文に含んでいるとしても、その基礎となる事柄は正確で、歴史的、考古学的に証明できるものです。
 
二つ目に、この考古学的発見が教えてくれていることは、ヒゼキヤの業績に僕たちも習うべきだということです。ヒゼキヤの父は邪悪な王アハズであったにも関わらず、高き所を取り除き、石の柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕きました。それは僕たちの家族、指導者、誰が偶像を勧めていたとしても従わず、勇気をもって偶像を(その権威と責任が与えられているなら)切り離すことと同じです。旧約時代に存在した高き所とは、「自分勝手な方法で主なる神を拝む場所」でした。僕たちも聖書の原則に沿っていない、自分勝手な方法で主を崇めようと、便利な方法、手軽な方法に頼ってしまっているかもしれません。まずは真理が何か(時間がかかるとしても)探し、それに一心に従う決意が必要です。
 
興味深いことに、イスラエルの考古学でヒゼキヤ王に関する発見は多くあります。そのひとつの例がエルサレムの「ヒゼキヤの水道」です(第二歴代誌3230)。
 
これらの発見を通して、神さまは私たちに何を教えようとされているのでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 

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