だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

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日が近づいてきたので、再度掲載します。

僕も通訳として参加しますので、どうぞ大阪、兵庫にお住まいの方はお越しください。




6月23日・六甲道・モリエル・セミナー

*6月23日。(土曜日) 午後5:30−8:30

場所: 神戸市立六甲道勤労市民センター (5階ー教室D)




テーマ  シオンの娘・雅歌  

 


   ※すべての集会は参加無料





前回お越しくださった皆さま、本当にありがとうございました。



皆さまとの学びと交わりの時をいつも楽しませてもらっています。



今回もお会いできるのを楽しみにしています。

モリエル日本のHPに新しい説教が翻訳・掲載されました。

校正を手伝ってくださったみなさん、ありがとうございます。



『黙示録の七つの教会 スミルナ』
http://www.moriel.org/Sermons/Japanese/Smyrna-Jap.pdf




です。


黙示録のスミルナの教会は、2・3世紀の教会の姿を表わしています。
2・3世紀の教会はコンスタンティヌス帝が313年に出したミラノ勅令まで激しい迫害を受けました。

その時代の歴史はエウセビオスの『教会史』に詳しく記されてあります。

313年のキリスト教を認めるミラノ勅令の後に迫害はやみ、エウセビオスは喜びましたが、次には多くの偽りの教えが教会内に侵入しました。事実、迫害は妥協を排除し、教会を清浄化する役割を果たしていました。

その当時の迫害、また現代に起きている教会への迫害についてジェイコブが解説しています。

教会史を学ぶ際、いろんな基準があると思います。地方別に見たり、学派別に見たりと。

ですが、神さまがはっきりと記された黙示録の七つの教会に沿って、教会史を見ていくとき、
それはただ人間の観点ではなく、神の観点から見えるようになります。

現代世界がなぜ今のようになっているかは、過去を調べることによって見えてきます。


非常に素晴らしい内容なのでぜひお読みください。

黙示録の七つの教会を通して、教会史を見るちゃんとした日本語の本や論文は他に読んだことがありません。(断片的なものはあっても、包括的なものはありません)


ペルガモの教会の説教も只今翻訳・校正中です



モリエル日本HP
http://moriel.jp/

通訳者がいる

この頃、朝に妻と行っている聖書の学びの時間で、ヨブ記に入りました。

その中でぜひ分かち合いたい箇所を今日は載せます。

ヨブの三人の友人が黙った後、一番若かったエリフ(=彼はわが神)が口を開きました。



●『もし彼のそばに、ひとりの御使い、すなわち千人にひとりの代言者(luts)がおり、それが人に代わってその正しさを告げてくれるなら、神は彼をあわれんで仰せられる。「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。」彼の肉は幼子のように、まるまる太り、彼は青年のころに返る。彼が神に祈ると、彼は受け入れられる。彼は喜びをもって御顔を見、神はその人に彼の義を報いてくださる。彼は人々を見つめて言う。「私は罪を犯し、正しい事を曲げた。しかし、神は私のようではなかった。神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私のいのちは光を見る」と。見よ。神はこれらすべてのことを、二度も三度も人に行なわれ、人のたましいをよみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。』ヨブ33:23-30


ヨブ記にはイエスについての箇所がいくつか登場します。

これもそのひとつです。この代言者という言葉は他の訳で「仲保者」とも訳されていて、仲介者のことです。

イエスこそ千人にひとりの代言者です。私たちの代言者は僕たちを弁護してくれます。



●『神は唯一です。また、神と人との間の仲介者(ギ…mesites)も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。』1テモテ2:5-6



イエスさまが私たちに代わって正しさを告げてくれると、僕たちはよみに行くことがありません。

またよみがえります。


ですが、それだけではありません。その代言者というヘブライ語「luts」が他の聖書箇所で訳されているのを見ると非常に興味深いのです。(僕たちは特定の原語が他の箇所でどう使われているかを見る必要があります)


その単語の登場する箇所は創世記の42章です。

その背景は、エジプトでヨセフが宰相となった後、全域に大規模な飢饉があり、
ヤコブの子ら、ヨセフの兄弟たちが知らずにエジプトに穀物を買いに来るというシーンです。

そして、ヨセフは兄弟のひとり(シメオン)を監禁所に監禁しておくことに決めました。
そこで兄弟たちは次のように言いました。


●『彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」らは、ヨセフが聞いていたとは知らなかった。彼と彼らの間には通訳者(luts)がいたからである。ヨセフは彼らから離れて、泣いた。』創世記42:21-24a



これはミドラッシュ、同じ単語を用いた文脈で繰り返されるテーマです。


とても分かりやすい描写じゃないでしょうか。


兄弟たちはヨセフをエジプト人に売ったからこういうことが起きたと悔い、
そう話している内容を「通訳者(luts=仲介者)」が告げたのです!




そうです、僕たちと神の間には僕たちに代わって正しさを告げてくれる、仲介者イエスがいます。



僕たちと神は直接顔を合わせ、自分を弁護することすらできません。

それは僕たちが汚れていて、罪深く、高慢だからです。

僕たちがしゃべっても日本語を理解しない外国人のように、通じることもありません。

『イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。なぜあなたは、この国にいる在留異国人のように、また、一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、すげなくされるのですか。』――エレミヤ14:8

私たちと神との間に、罪が入り込んでいるからです。

『見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。』――イザヤ59:1−2



ですが、自分たちの悪い行いを認めるとき、そこには通訳者であるイエスさまがいて、

「〜はこう言っているんですが、赦してやってはどうですか?」

「だいすけは確かに悪い行い、陰口を言い、口ばかりで実行せず、よく誘惑に流され、人を傷つけてきたのですが、わたしの血と十字架のために赦してやってはどうですか?」

このように僕たちのために神に代言してくれています。




僕は日曜日よく通訳をしますが、やはり欧米と日本の文化が違うため、すんなり訳せずつまることが多々あります。

通訳する人の理想は、日本にも住み、欧米にも住んだことがある人なのでしょう。
(僕は欧米に住んだ経験がありません)

両側を理解できるからです。

それと同じで、人としてのキリスト・イエスが僕たちの仲介者だと書かれていることは勇気づけられませんか?

イエスはどちらにも「住んだ」のでどちらの側も理解されます。

イエスさまにより頼みましょう。イエスこそ私たちのいのちです。

イエスさまの仲介のわざ、その代価、十字架こそが他の宗教と大きく違う点です。




補足:ヘブライ語の「luts」は他にも「あざける」と訳される単語です。今十分に理解していないので説明できませんが、何か意味があるのかもしれません

6月モリエル・学び会

6月モリエル・学び会



今回の東京学び会は6月9日です。(土曜日)

場所:東京都文京区 勤労福祉会館 (1階創作室)

セミナー1 開場 午前9:00(英語のみ)

伝道集会


セッション1  9:15〜10:30 

セッション2  10:45〜12:00 



セミナー2 開場 午後5:00(日本語)

テーマ:「シオンの娘・雅歌」



セッション1  5:15〜6:30 

セッション2  6:45〜8:00 




6月23日・六甲道・モリエル・セミナー

*6月23日。(土曜日) 午後5:30−8:30

場所: 神戸市立六甲道勤労市民センター (5階ー教室D)


テーマ  シオンの娘・雅歌  
 

   ※すべての集会は参加無料



前回お越しくださった皆さま、本当にありがとうございました。

皆さまとの学びと交わりの時をいつも楽しませてもらっています。

今回もお会いできるのを楽しみにしています。


フィリピンの牧師さんたちにコンコーダンスを24冊届けることができましたことを、ご献金くださった皆さま、本当に感謝します。受け取られた教会の方々がとても喜んでくださいました。(一人の兄弟は、お礼にヤギを一頭くださいました。)

 近いうちに、もう一箱お送りしたいと思っています。

信仰生活と仕事

この頃、新しい仕事(といってもアルバイトですが)を始めて、日々ぐったり疲れているだいすけです。

某英会話スクールの営業職として、「営業は数字がすべてだ」と言われ、派遣の仕事も同時にしているので帰りが10時半になることもあり、多くのサラリーマンの気持ちが少しは分かってきました。

彼らが10時頃に酒臭い+汗臭いにおいを放ち、お酒に酔って帰ってくる姿。
その人たちもおそらく断るのが苦手なので、そうなっているんだということも。
そんなことしなくてもよかったら、誰もしませんもんね。

でもそんなことの原因は会社での異常なプレッシャー、プライベートと仕事のかい離があると考えています。

僕自身の仕事に対しての姿勢としては「仕事は家族のためであって、家族は仕事のためじゃない」です。

とはいえ、実社会を少し経験すると仕事は大変だということが分かってきました。

では、聖書は仕事についてどう語っているのでしょうか。
今日は「エルガゾマイ(ergazomai)」というギリシア語をたどって考えてみましょう。
(「エルガ」とは「行い」と訳される言葉です)


●『それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働き(エルガゾマイ)をやめる権利がないのでしょうか。』1コリント9:6

この箇所によるとパウロとバルナバは生活のための働きをやめなかったようです。
そしてこの箇所では忠実な伝道者(耕す者=地→人の心を耕す者)、忠実な教師(脱穀する者=食べやすいように麦を準備する者)はその働きによって生活が支えられる権利があるとしています。
ですがパウロらはそうしませんでした。それは『キリストの福音に少しの妨げも与えまいとして』(12節)の行為でした。僕の身近でも教会の「献金、献金、特別献金」という宣伝につまずいている人がいることを知っています。パウロはそのことを気にして働いていました。そしてそれは生活のための働きです。


●『奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をする(エルガゾマイ)にも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。』コロサイ3:22−25

近代の奴隷と違って、当時の奴隷がもっぱら「労働者のよう」であったといわれていますが、それを考慮に入れると僕たち労働者と共通する点が多くあると思います。
僕たちは何の仕事をするにも主に対してします。そして、ここがとても励まされたのですが、「主から報いとして、御国を相続させていただく」とあるのです。そうですね、上司がいても人に仕えているのではなく、主キリストに僕たちは仕えています。一方でクリスチャンだからといって何か不正をしても見逃されることは無いよと聖書は警告しています。


●『兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら(エルガゾマイ)、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。』1テサロニケ2:9

「エルガゾマイ」という単語がとても多く出てくる手紙はテサロニケへの手紙です。
彼らが再臨を待望する超宗教的な人たちであったことを考えるとそれは納得がいきます。「主イエスがすぐ帰ってくるのだから地上のことは問題じゃない。ただ上を見上げて主が帰ってくるのを待っていよう」と思ってしまうのは非常に簡単です。僕もそのような傾向がありました。
そのような人たちに対してパウロは(私たちとあるので少なくともパウロ、シルワノ、テモテは)「昼夜働いた」とあります。昼夜と書かれていて、朝が無いことが興味深いと個人的に思うのですが、使徒であるパウロも働いていました。僕たちと同じようにです。彼は宗教学者や大学の教授のように座って、教えをこう人からお金をもらっていたのではありませんでした。


●『また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい(エルガゾマイ)。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。』1テサロニケ4:11−12

ここから分かるのは、僕たちクリスチャンが働く理由は外の人(未信者)に対しての証と、乏しいことがないためであることです。とても実際的な勧めではないでしょうか。


●『どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。』2テサロニケ3:7-12

この箇所だけで4回「エルガゾマイ」が登場しています。
ここで重要なのは使徒であるパウロは働かない権利をもっていたにもかかわらず、それをあえて使わなかったということです。僕は何度も人に「なんで神学校に行って牧師にならないの?」と言われたことがありますが、そういうことを言われるとふと「ああ、そうか。職が見つからなくても牧師になれば食っていけるわ」と思い始めてしまいます(もちろんすべての牧師さんがそうでなく、誠実な方もおられると思います)。ですが、この罠はとても巧妙じゃないでしょうか。霊的プライドにつけこんだ罠です。

そしてこの神学校に言ったら教団や教会に養ってもらうというシステムが悪い方向に使われているところは多くあると思います。「牧師の話がやたら眠い」「当たり障りのないことしか言わない」のはその牧師が雇い人になっている証拠であって、真実を語るために教壇に立っていない可能性があります。牧師がみことばを語っているならそれは両刃の剣よりも鋭く、人の魂と霊を刺し通し、人の考えを判別するものです。また説教は現実に世の中で起こっていることを聖書の観点から理解するべきものであると僕は考えます。先日のニュースで米のオバマ大統領が同性婚を支持する発言をしたという記事がありましたが、それは聖書のいう「終わりの時代はロトの時代のようになる」との箇所と合致します。それゆえ本当の信者ならそれに立ち上がって警告・反対すべきです。同性婚が認められると将来は見えています。同性婚をあからさまに禁じているローマ人への手紙1章が「差別文書」と呼ばれ、聖書の公での朗読が禁じられるでしょう。その中で立ち上がる者は妥協した信者たちから反対を受け、外からは迫害を受けるでしょう。

僕たちは今目の前でニュースになっているオバマ大統領の同性婚支持に反対できるでしょうか?
今、反対しなければいつ反対するのでしょう?(別に政治的な贖いを期待していませんが)
そして、今妥協してしまうなら、最終的な反キリストが出てきたときにはどうなるでしょう?
牧師のメッセージは現実生活に影響を及ぼすものであるべきです。



今日は「エルガゾマイ」=「仕事」について見ていきました。

土曜日まで苦労して働いているクリスチャンを元気づけれたらなと考えています。

また自分自身への励ましのためにも書いています。

その働きには報いがあり、外の人に対して証ができ、乏しいことがなくなります。

生活のための働きをすることは使徒パウロのライフスタイルでした。

彼に働かない権利がなかったのではありません。福音に妨げを与えたくなかったのです。


アーメン

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だいすけ
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