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イスラエルでは今年は12月21日(水)からハヌカの祭りが祝われています。 「ハヌカって何?」と思われた方は ちょうどこの時期なので、ハヌカの祭りについての説教をお読みください。 (※ハヌカの祭りとはヨハネ10:22に登場する「宮きよめの祭り」、旧約新約間の時代を起源とする祭りです)
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イスラエルでは今年は12月21日(水)からハヌカの祭りが祝われています。 「ハヌカって何?」と思われた方は ちょうどこの時期なので、ハヌカの祭りについての説教をお読みください。 (※ハヌカの祭りとはヨハネ10:22に登場する「宮きよめの祭り」、旧約新約間の時代を起源とする祭りです)
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私たちモリエルの説教で「ミドラッシュ」という解釈法が登場しますが、 聞きなれない言葉なので、初めて読まれた方は変わった解釈だと思うかもしれません。 (※私たちは必ずしもユダヤ教の文献としての『ミドラッシュ』を推薦している訳ではありません) 以下に専門家たちのミドラッシュに関するコメントをリストしていきます。(彼らの意見全てに同意をしているわけではありません) 聖書解釈法としてのミドラッシュが私たち聖書を信じる者と遠く離れたものでないことが分かると思います。 ●「現在収集されているミドラッシュ文学の大部分は、初代教会の時代、すなわち、新約聖書編纂の時代に帰される」(p.77) ●「新約聖書のすべての文書、言いかえれば新約聖書の中で活躍する人物たちは、みなミドラッシュの世界と関係がある。すなわち、新約聖書の中には完全なミドラッシュが存在しているのである」(p.78) →『ユダヤ人から見たキリスト教』D.フルッサル G.ショーレム他著 手島勲矢 訳編 山本書店刊 ●「死海写本におけるミドラシュの様式は、現在の諸事件を過去の聖書の預言の箇所に重ね合わせる不断の努力をわれわれに明示している」(p.64) →『ミドラシュとは何か』J.ニューズナー著 長窪専三訳 教文館 ●「死海写本の発見により明るみに出たクムラン宗団のミドラシは、従来知られていたよりも古く、紀元前一世紀から後一世紀のもので、いくつかの聖書註解書を含む故に注目に値する。『ハバクク書註解』では、聖書本文を引用したあと、「この意味は…に関する」「これは…を意味する」という一定の形式(ぺシェルと呼ばれる)を用いて解釈がほどこされている。そしてその内容の特色としては、聖書の言葉が現在の自分たちの状況、特に救いにかかわっているという態度にある。つまり、聖書の言葉が成就するという確信と終末的信仰を聖書からくみとりつつ、また同時に、そのような姿勢から聖書を解釈している。」(p.23) →『聖書解釈の歴史』出村彰 宮谷宣史 編 日本キリスト教団出版局 ●「さらにもう一つの種類の解釈はミドラシュ(探索、追求、吟味、調査する)である。これは聖書の釈義であり、先に述べたどれよりも、クリスチャンが釈義または注解とみなすものに近い」(p.128) →『中間時代のユダヤ世界』J・ジュリアス・スコット著 井上誠訳 いのちのことば社 ●「歴史的な文脈で新約聖書を見ると、伝統的なユダヤ的アプローチを反映した解釈の原則が用いられていることがわかる。これはミドラッシュと呼ばれるものだ」(p.112) →『隠された宝』ヨセフ・シュラム著 石井田直二監訳 イーグレープ 最後にミドラッシュとは聖書の外から出てきた言葉ではありません。 聖書中に登場している言葉です。 「彼の子たちのこと、彼について述べられた多くの預言のこと、神の宮の再建などは、王たちの書の注解にまさしくしるされている」2歴代誌24:27 この「注解」がミドラッシュです。 聖書に記されていることは過去に関してだけではありません。現在と将来のことも語っています。物事は歴史を通して繰り返し、そのパターンは終わりの最終的な状態がどうなるかを表わしています。 |
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●ミサ 聖書の教えと、聖書+聖伝(聖なる伝統)を教えるカトリックの教えはかけ離れています。 たとえば、ミサの教えひとつを取ってみてもそれは明らかです。 ※『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会)から引用します。 ■『キリストのいけにえとエウカリスチアのいけにえは、ただ一つのいけにえです。「ささげものは同一です。かつて自分を十字架の上でささげたキリストが、今司祭の役務を通してささげられているからです。ただ一つ違うのは、ささげ方だけです」』(p.416) 聖書のことば→ ◇『ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。』ヘブル7:27 ◇『キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです』ヘブル9:26 ◇『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。』ヘブル10:14 エウスカリスチアとは英語でEucharistといい、ミサの儀式のことです。 (プロテスタントでは聖餐と呼ばれます) ミサの儀式がキリストのいけにえと同じですって?? ささげ方が違うだけですって?? 聖書はたった一度で十字架のいけにえが終わったと3度も語っているのに、それを否定しています。 これを知っていて、聖書を唯一の啓示の源泉と信じるクリスチャンはカトリックのミサに参加できるでしょうか。 ■『エウスカリスチアのいけにえはまた、「キリストに結ばれて死に、まだ完全に清められていない」亡くなった信者が、キリストの光と平安とにあずかることができるようになるためにもささげられます。』(p.417) このようなことがカトリックの公式のカテキズムに載っているのをご存知でしょうか? 死者のためにミサをささげられると教えています。 聖書は繰り返し死者と交信してはならない(レビ19:31、申命記18:11)、また死者を呼び出そうとしたサウル王はどうなったでしょうか。彼の最期はひどいものでした。 ■『至聖なる聖体(エウカリスチア)の秘跡には、わたしたちの主イエス・キリストの霊魂と神性とに結ばれたからだと血、つまり、全キリストが真に、現実に、実体的に現存しておられます。』(p.418) ■『供えられた物をキリストのからだと血にするのは人間ではなく、わたしたちのために十字架でつけられたキリストご自身です。キリストの姿を表わしている司祭がことばを述べますが、その効力と恵みは神からのものです。これはわたしのからだであるとはキリストがいわれるのであって、このことばが供え物を変えるのです。』(p.419) ■『聖体礼拝。ミサの典礼で、わたしたちはキリストをあがめるしるしとしてひざまずいたり頭を深く下げたりすることなどによって、パンとぶどう酒の形態のもとに現存されるキリストへの信仰を表わします。』(p.420)→ヘブライ語で「ひざまずく」と「礼拝」は同じ言葉(ヒスタカボート) ■『わたしは罪をゆるしていただくためにいつも御血をいただかなければなりません。わたしはいつも罪を犯しているので、いつも薬をいただかなければならないのです。』(p.424) →カトリック教徒が救いの確信を持てない理由(非聖書的な教え) ■『宗教改革によって生まれた、カトリック教会から分離した諸教団は、「とりわけ叙階の秘跡の欠如のために、聖体の神秘の本来の完全な本体を保ちませんでした」。この理由で、カトリック教会としてはこれらの教団と聖体拝領をともにすることはできません。』(p.426) →プロテスタントとは聖餐(聖体拝領)をともにすることはできないと断言 ここまで読んでなお、カトリックのミサに参加しようとする聖書的なクリスチャンがいるでしょうか?? 聖書を唯一の啓示の源と信じているのなら、カトリックのミサには参加はできないし、参加するとそれは明らかな偶像礼拝です。 ■『聖別によって、パンとぶどう酒の実体はキリストのからだと血の実体に変わります。聖別されたパンとぶどう酒の形態のもとに、生きておられる栄光のキリストご自身が真に、現実に、実体的に、からだと血、霊魂と神性ともども現存されます。』(p.429) 聖書の教え→ ◇『さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。』マタイ24:25−27 カトリックは『聖櫃は教会堂の特別にふさわしい場所に置かれなければなりません』(p.420)と教えていますが、それはキリストが「へやにいらっしゃる」と聞いて信じているようなものです。 私たちはイエスの警告に耳を傾けるべきです。カトリックの伝統にはまってはいけません。 そしてカトリック教会と決別するべき理由が分かるのが、次の文章です(カトリック教徒との決別ではありません)。 ■『キリストご自身が聖体の秘跡に現存しておられるので、わたしたちは聖体を礼拝しなければなりません。』(p.430) ここではっきりと「礼拝」という言葉が使われています。 私たちは十戒の最初の戒めを守りますか?それともカトリックとエキュメニカル運動で協調して偶像礼拝を犯しますか? ちなみに、このカテキズムでは礼拝を次のように説明しています。 ■『神を礼拝するとは、そのかたを神、創造主、救い主、主、存在するすべてのものの支配者、無限で慈悲深い愛そのものであるかたと認めることです。』(P.622) この意味でパンとぶどう酒を「神、創造主、救い主、主」として礼拝するということです。 聖書の真実を悟ったカトリック教徒はカトリック教会を去るべきです。 それは聖体拝領(ミサにあずかり偶像礼拝をすること)無しには教会にいられないからです。 ■『教会は信者に、エウカリスチアの祭儀にあずかるときに聖体を拝領するよう強く勧めています。少なくとも年に一度の聖体拝領が信者の義務となっています。』(p.429) 最後に、カトリック教会が気付かずに自分たちのことを語っている箇所を引用します。 ■『多くの殉教者は、「獣」を拝まず(黙示録13・14章)、拝むふりをすることさえ拒否して殺されました。偶像礼拝とは神が唯一の主であるとは認めないことなので、神との交わりとは相いれないものなのです。』(p.626) 黙示録17章でその獣の上に乗っているのは誰でしょうか?? 七つの丘のある大きな都、ローマのことです(黙示録17:9、17:18)。 そして政治的な支配権を利用して多くの虐殺を過去に行ってきたのもカトリック教会です(もちろんプロテスタント側が行った迫害もあります)。 ですがこれでもミサに参加しますか? エキュメニズム運動に参加するでしょうか? 聖書が唯一の啓示の源だと信じないのなら、私たちは何も言えません。 しかし、聖書を信じているというなら、その中に書いてあることも信じましょう。 またエキュメニズムに立ち上がって反対しない人は、押し流されてしまうのも時間の問題です。 (カトリック教徒の方々を愛しているなら、偶像礼拝を犯してしまっていることを伝えましょう)
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過去に訳したものですが、もう一度掲載します。 |
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文脈とは、という質問を考えてみましょう。 |