だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

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海外のモリエルミニストリーズに寄せられた質問とジェイコブの回答を載せます。

みなさんの益になることを願います。






「ヤシャルの書についての質問」



読者:
「親愛なるジェイコブへ

私は南アフリカの小さな町(自由州のスプリングフォンテイン)出身の者です。私の家と私たちのホーム

チャーチはジェイコブの教えによってとても祝福を受けています。とても感謝しています。現在創世記の

学びで忙しくしているのですが、創世記についてふたつの質問があります


1.メルキゼデクはセムや、受肉前のキリストの顕現または、他の誰かなのでしょうか?

2.“ヤシャルの書”(ヨシュア10章13節)の内容で聖書から間違いだと分かるものはありますか?それが

霊感を受けたものでないことは理解していますが、歴史的観点から聖書内のすべてのことを裏付けている

ようにみえます。またヤシャルの書は創世記の背景をとてもよく説明し、いくつかのギャップを埋めてい

るように思えます

もしこの質問が面倒なら、信頼できる情報源を示してもらえると嬉しく思います。
前もって、ここに感謝を示します」




ジェイコブの回答:
私はメルキゼデクがキリストの顕現であったと考えています(この教えの録音もモリエルにあります)。

ヤシャルの書はもちろん聖書と同じように教理の基礎となるものではありません。しかし旧約新約間の外

典と同じように正典ではないですが、外部の関連する歴史や文書を知る点において価値があります。ある

点については保守的な学者たちの中でも議論されていることがありますが、大半の学者はその歴史性を受

け入れています。しかし当然ながら、間違いが無いとか霊感を受けて書かれたわけではありません。ふた

つの書には大きな矛盾はありません。ですが覚えておいてほしいのが、創世記の本文とヤシャルの書には

重複していない部分があるということです。学者たちはヨセフスの「ユダヤ戦記」を疑うように聖書と比

較してヤシャルの書を疑っていますが、強調点に違いがあるだけで大きな矛盾はそれほどありません。


知っておくと役に立つことがあります。それはヤシャルの書は創世記と比べて歴史として書かれているこ

とです。創世記は歴史的に全く真実ですが、より歴史の神学的解釈を教えるために記された、霊感を受け

た歴史記述です。神はさまざまな真実を伝えるために、さまざまな文学ジャンル(文章のスタイル)を用

います。福音書と同じように、創世記の物語は歴史的な出来事の真実な記述を集めたものです。それに神

が霊感を与え、複数の側面において教理的な神学を説明されているのです。


まず第一に、創世記は聖書中を通して見られる“ヘイルスゲヒシテ(救済の歴史)”の基礎を据えていま

す。それはキリストの預言的な未来の出来事、また約束された贖いを予型を用いて表しています。創世記

はまた創造のみわざについての歴史的真実を提供しています。それは神ご自身の存在とどのように人が堕

落し、救われる必要があるかという教理を与えてくれています。創造について書かれていることは歴史的

に真実で正確ですが、創造の歴史を知らせるために書かれているのではありません。それは創造、人の堕

落、洪水、バベルの塔などの歴史が、神学的にまた教理的に意味することを説明するために書かれていま

す。実際、創世記ではなく、ヨブ記の終盤の章と(ヨハネ1章の理解をもって読むと)箴言8章では、神ご

自身が第一人称で創造の歴史を語り、純粋に創造自体に焦点を当てています。そこで神はご自身のなさっ

たことを語っていますが、神がキリストを通してなさったこと以外、どのようにしてなさったのかを私た

ちは知ることができません。


創世記は、その語っているところにおいて歴史的に真実でありながら、神はまた違う目的でそれを用いて

います。創世記は第一に歴史を物語るために神に霊感を受け、設計されたのではなく、その歴史を神学的

に解釈するために、またそれが教理的に意味することを説明するために書かれました。福音書のように物

語として歴史性を持っていますが(真実の物語だということ)、それは歴史書として書かれたのでも、主

に歴史書として読まれるために書かれたのでもありません。それはその記述において歴史的に真実であっ

てもです。一方でヨブ記では神は創造の歴史に目を向けています。つまり「神が行ったこと」です。箴言

8章ではキリストを通して行ったことに目が向けられています。「どのように行ったか」ということで

す。一方創世記は「それが何を意味するか」を語っています。


また神がどうして創世記の著作に霊感を与えたかというまた別の理由があります。神が創世記を定められ

た多くの理由は、古代中東の文明が、創造やノアと洪水、バベルの塔などについて知っていたからです。

しかし、異教と一神論によってそれらの出来事に関して歴史的に曲解された解釈が生まれました。創世記

はエジプトの異教の創造神話やギルガメシュ叙事詩の洪水神話など、出来事の内容神学的意味を曲解し

たものを反証するために霊感を受けて書かれたのです。



これが理解の助けになることを願います。私はこのテーマについての記事をHPに載せようと思っています。

イエスにあって

ジェイコブ・プラッシュ


東京でのセミナーが迫ってきたので、お知らせします。
 
 
テーマ:『主の日』
講師:ピーター・ダンジー(オーストラリア人伝道師。インド、バングラデシュ、フィリピンなどで聖書を教える)ジェフと大輔も同行
場所:文京区勤労市民会館
時間:2月20日(日) 5時半〜8時
 
 
大阪のほうもアナウンスしたらよかったのですが、ばたばたしていました。
 
ピーター・ダンジーはオーストラリアでのジェフ・トゥールの牧師でした。
元々アッセンブリーズ・オブ・ゴッド(AOG)にいたのですが、AOGが極端なカリスマ派に走ったため、
単立の教会をはじめました。
 
ジェフと同じ時期にジェイコブ・プラッシュとモリエルを知り、目が開かれたと言っていました。
 
ピーターはとてもフランクで、冗談が多い人です(笑)
ですが聖書の話になると、とても多くの知識があり、記憶力も良く、メモも無しに「何章何節」とすぐ説明します(ジェイコブもそうでしたね、みんなすごい。……そして例にもれずピーターも太っています 笑)。
 
ぜひこのブログを見ている方もお越しください。
 
お会いできるのを楽しみにしています。
 
 
 http://www.moriel.jp/  モリエル日本
 
 

たとえで話す目的

このごろ聖書のたとえや象徴について考えていました。

よく思い出してみると、クリスチャンになった当初から聖書の中の象徴にはとても興味がありました。

なぜなら、そこに大事なことが多く隠されているからです。

隠されているといってもある人にとっては隠され、ある人にとっては明らかです。


それはそうとして、この頃考えていたことがあります。

なぜ聖書にはこうもたとえや象徴が多いんだろう?

たとえや象徴をもっと少なくして分かりすく、直接伝えたら解釈の違いとか生まれないのに

と疑問に思っていました。


そしてその答えが与えられたように思うので、ここに書いていきます。


まず、この頃マタイ13章のからし種とパン種について書いている(神学校を出た)牧師さんのブログを見ました。まずは聖書箇所を載せます。

『イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」』マタイ13:31−33


その牧師さんは(名前を挙げて指摘するほど深刻ではないので挙げませんが)、このふたつのたとえは神の国が全世界へ広がり、支配することを表している、と教えていました。

そしてパン種は聖書の多くの箇所で悪い意味で使われているが、ここではただ「影響力を持つもの」という意味だ、と説明していました。


本当でしょうか?


僕たちはいつも何かが真実かどうか、聖書を調べる必要があります。


まず聖書中でのパン種の使われ方を新約聖書で見ていきましょう。


ギリシア語でパン種は「ζύμη(ズメー)」というようです。
そして新約聖書内で13回登場します。

その中でマタイ13:33、そして並行箇所であるルカ13:21を除いて見てみると、そのすべてが否定的な意味で使われています。

「パリサイ人のパン種に気を付けなさい」「少しのパン種が全体をふくらませる」
「古いパン種を使わずに」「ヘロデのパン種に」

など、日本語の聖書語句検索で調べてもらえばすぐ分かります。

そして当然ながら、旧約聖書では「パン種を除け、パン種を除け」と繰り返し、繰り返し出てきます。
(例外としてパン種を入れるパンが書かれてあるのはレビ記7:13とアモス4:5の感謝のささげ物です)


というわけで、聖書全体から考えるとパン種は「悪い物である」ことが明らかなのに、なぜマタイ13章のパン種だけを良い「影響力を持つもの」と考えられるのでしょう?

天の御国(教会)に罪、偽善、偽りの教え、高慢が入り込むとそれが蔓延します



もしかすると、その牧師さんの不注意で、聖書全体を見ていなかったのかもしれません。

そして僕はその牧師さんが、始めから悪意をもってそのように解釈したのではないと思います。

僕たちは人の心の中が分かりません。心はとても複雑だと聖書自体が語っています。
そして神さましかその人の動機は分かりません。

私たちは外側に表れたものしか、判断することができません。



少し話はそれましたが、この記事の目的はたとえを話す目的についてです。

それはイエスさま自身がはっきりと語りました。



『すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。』マタイ13:10−13



たとえや象徴を読んである人はこれを意味していると言い、ある人はあれを意味しているとさまざま言います。

そしてたとえや象徴の正しい解釈が複数あることは真実です。

ですが、今紹介した牧師さんの解釈は間違っています。なぜなら聖書全体の文脈にそっていないからです。


では考えてみましょう。



なぜその牧師さんは聖書全体の文脈から外れてしまったのでしょう?


見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないから」です。


多くの人が聖書を読んでいると言いながら、ある人の教えやある本から見た「聖書」を読んでしまっています。そして「神の国が終わりの時代に全世界を支配下に置く!」と教えている本ばかりを読んでいると、象徴をそのように解釈してしまうのはごく簡単なことです。

そしてその間違いが極まると、「反キリストの王国」を「天の御国」と勘違いしてしまいます。

聖書の理解は方程式のようだと言ったのを覚えているでしょうか。

方程式の基本的な解き方、解の求め方、代入の仕方を間違ってしまうと正しい答えには行き着きません。

そして一旦違う方向へ向かってしまうと、どんどん答えから離れていきます。



それが前の箇所にあった、


持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまう

という意味です。



なんて不幸なことでしょう!!



ですが、それが起こるためにイエスさまはたとえで話しました。


本当に見ている者と、見ていない者を区別するため。
本当に聞いている者と、聞いていない者とを区別するため。


本当に誠実に聖書を読んでいれば、マタイ13章のからし種とパン種の解釈でも、そのすぐ前に「
良い種」と「毒麦」が蒔かれた天の御国のたとえがあるのに気付きます(マタイ13:24−30)。

そして本当に熱心に聖書を調べるとパン種が良い意味で語られている箇所は無いことに気付きます。



神さまは熱心な者とそうでない者を区別したいと思っています。


『不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。』黙示22:11


このようなことを考えると、最終的に反キリストに騙されるクリスチャンは今騙されていることが分かります。そして反キリストの登場はその人たちを裁くために他なりません。神さま自身がアッシリヤ、バビロン、ローマを来させたことを覚えているでしょうか。


もうひとつ残念ですがよくある例を出します。


『また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」と言うのを私は聞いた。私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。』黙示6:1−2


七つの封印、四匹の馬の箇所です。


僕の知っているある牧師さんはこれを「キリストが終わりの日に支配する」ことと説明していました。


なんてことでしょう!!


確かに最終的にキリストは支配しますが、それは復活の時、再臨の時です。終わりの時代は厳しいと聖書に書いてあります。

そしてその解釈が明らかに間違っていると分かるのがこの箇所です。


『イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。』マタイ24:3−4

このオリーブ山の訓戒で黙示録6章と同じことが語られています。


まず「反キリスト」、戦争、ききん、死、そして再臨と続きます。
黙示録6章と同じことをほぼ順序が同じで語っています。またそれはマタイだけじゃなく、マルコ13:3−27、ルカ21:7−28も証言しています。


ということは最低3つの箇所がその白い馬に乗った者が「反キリスト」だと証言しているのです。



その人は「反キリスト」を「キリスト」と取り違えてしまっています!!!



全くなんという悲惨なことでしょう。嘆くべきことでしょう。
ですが多くの人がその意見を持っていることを僕は知っています。



そこで思うのです。



じゃあ聖書がはっきり反キリストって書けば誰も間違わないのに



それに対して神さまははっきりとこう言われます。



『こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』』マタイ13:14−15


僕はこれを読んでいる皆さんが次の言葉をかけられることを願います。




『しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。』マタイ13:16






聖書にたとえが多いのは、本当に主に付く者と主に付いていると思っているだけの者を区別するためです。


僕たちがかたく主に付く者となれますように。
旧都のトンネル発掘が完了


『Ynet 2011/1/26』より



――シルワンのダビデの町と西壁をつなぐ用水路の発見が複雑な反応を呼ぶ。腹を立てるアラブ人たちは発掘が歴史のためではなく政治的なものだと主張



『火曜日エルサレム警察は旧都の警備を固めた。それはイスラエル考古学局が7年間かけた新しい水路の

完了が告げられたためで、その水路は町の城壁の地下真下を通るものであり、神殿の丘から遠くなく、暴

動の発生が懸念されていたからだ。しかしながら、シルワン居住区の緊張に関わらず、何の変わった出来

事も無しにその日は終了した。


その新しい水路は実際第二神殿期に遡る排水路である。全長700メートルで、シルワンのダビデの町と考

古学公園、また西壁近くのダビッドソン・センターをつないでいる。


おそらくヘロデの時代に掘られたその水路は、考古学局とイスラエル自然観光局による発掘の際に明らか

になり、エラッド基金により援助されていた。水路は大きな通りの下を通り、ワディ・ヒルウェ居住区の

アラブ人家庭の下を通っている。


イスラエル考古学局の考古学者でエルサレム地区代表のユバル・バルク博士は、その旧都の真下に位置す

る水路は、エルサレムの住人たちや神殿に向かう巡礼者たちが使用したのではないかと説明する。水路は

主に排水路として使われていた。バラクは当時の限られた手段によってであるが「エルサレムで路面電車

を作るよりも短時間で」造られただろうと冗談めかして語る。


考古学局は訪問者のために水路を開放する計画を考えている。バルクは「発掘に伴う繊細さには十分注意

している。しかしこのような発掘はユダヤ人の歴史だけではなく、3千年から4千年の歴史を明らかにす

ることになる」と語った。』

(訳:だいすけ)



遅ればせながら、フィリピンに行った報告をしたいと思います。
 
現地のこと、特に発展途上国のことを知ってもらうのは有益だと思うんでこれを書きます。
 
イメージ 1
現地のパパイヤ(甘くておいしかったです)
 
僕たちは5月に結婚式をするので、その話を詰めようと思って今回行ってきました。
 
日本より大分暑いと思っていくと、今回はすずしい気候でした。おそらく13、4度くらい。
あっちの人は20度を下回ると寒いと感じるらしく、寒いさむいとよく言っていました。
 
僕のいつも滞在している場所では今は雨季で、ずっと雨。僕は雨に濡れて体を冷やした時に体調をくずしてしまいました。
またフィリピンから帰った後も数日してから、熱や風邪っぽい症状が出て、しばらくしんどい思いをしました。
(やっぱりそういうとこに行くと、大分日本と衛生環境が違うから適応するのが難しいんでしょうか)
 
何はともあれ、またそこに行ったことで少し学んできました。
 
イメージ 2
バナナの”ハート”と呼ばれるもの
 
この上に載せた画像はバナナの心臓と呼ばれるものです。この黒い部分を料理したものを頂きました。
みなさん、バナナってどうやってバナナになるか知ってましたか。
この黒い部分が開いて、そこからバナナになる部分が出てきて(そしてたぶん受粉し)、外側に広がりながらバナナが出来上がります。
ということは、これ全体がバナナの巨大な花なんですね。(僕は驚きました)
 
現地ではなんでもないことだと思いますが、自然に接しているのと接していないのでは大きな違いがあると思いました。
 
そこで教えられたのがこれです。
 
神さまの被造物を見ながら育つのと、人の作ったものを見ながら育つのでは大きな違いがあるということです。
 
聖書を読んでいくとよく出てくるのが、「〜は何々のようだ」とあるものを象徴する表現です。
花のよう、木のよう、草のようなどなど
自然にあるものを使って神さまは多くのことを教えようとしています。
また自然界には神さまのミドラッシュが溢れています。
 
そして自然を見るとき、そこに神さまの知恵を見出します。
ですが人の作ったものには限界があります。そこには本当にわずかなミドラッシュ(象徴)しかありません。
 
多くの植物は花ができて、花が枯れてから、実がなります。
聖書を読みながら、これらのことを考えるととても面白いです。(私たちの栄華が衰えてから実がなる)
 
イメージ 3
あっちの兄弟たちが木を切っている様子
 
今回行ったときに、あっちの兄弟たちは木をみんなで切っていました。
僕は横で「おもしろいな〜」と思って見ていましたが、僕は木なんて切ったことが数回しかないんで
「きっとあんな作業やったら筋肉痛になる」と思ってただ見ているだけにしました。
 
聖書の多くの箇所で木は人を象徴しています。そして木を切り、神殿の柱とすることは、人に伝道して教会の一部とすることを象徴しています。(→「神殿の象徴」の説教に詳細)
 
そういうことを考えながら見ていると、大変面白いんです。
彼らは大きな刀で木を切っていたのですが、この角度からあの角度からというように、何度も何度も刀を振り下ろします。その度に木の破片が飛び散って、とても力のいる作業です。
そしてしばらくすると、ギギギと音を立てて、木は倒れます。
その木はおそらくその後はただ燃やされるために使うんだろうけど、もちろん家を作る時にも同じように切り倒すでしょう。
 
これを見て学びました。(詳細はまとまってから説教にしますが)
私たちの伝道は木を切り倒すように、人をみことばの剣で切り倒すことです。
この角度から、あの角度から、あの問題、進化論、社会問題、その人のプライド、趣味、その日のニュースから、「聖書はこう言っていますよ。これが真実じゃないですか」
そうやって切り倒していきますが、もちろん時間がかかります。力もいります。
使徒たちは伝道するとき「説得」という言葉を使いました。私たちの伝道は真理による説得です。
そしていずれ木は倒れます。
その木の行き先はふたつあります。
神の家に組み込まれるか、ただ火にくべられ燃やされるかのどちらかです。
 
神さまは簡単なことを通して真理を教えようとしています。でも問題はそれに僕たちが気付けるかどうかです。
今キリスト教書店に並んでいるトラクトの多くがこの「木を切り倒す」ようなものではありません。(この頃行ってがっかりしました)
ただ「愛している」だけ言って、なぜ救われなければならないのか、なぜ罪深いのか、なぜ根本的に間違っているのかを説明していません。木はどちらにしろ倒される必要があります。
なので福音を伝えたときの反応は「喜んで受け入れるか、怒って出て行くかのどちらかだ」という考えは正しいものです。
 
(まだまだ学びたい人はこのミドラッシュを考えながら2列王記6:1−7を読んでみてください。聖書は神学的に大切なことだけ載せていて、神さまはどの箇所でも私たちに教えようとしています)
 
何はともあれ、そのようなことを学びました。
聖書はある面で発展途上国で単純な暮らしをしている人にこそ、分かりやすいものなんだなと思いました。
フィリピンの田舎の人たちは種まきがどんなことか知っているし、木の切り方を知っているし、自然がどう神の知恵であふれているかを実感しながら生きています。
(日本のコンクリートに囲まれた都会と比べてみてください。といっても移住を薦めているわけではありませんが)
 
イメージ 4
前にも撮った鳥は大きくなりました
(七面鳥らしい)
 
といろいろ書いてきましたが、あっちにいたときに良い出来事がありました。
ある場所からバンに乗って帰っているとき、後ろのおじさんが「バイブル、バイブル」と言って何か話していたので、「聖書のこと話してるん?」と英語で聞きました。
 
彼はそうだと言って、カトリックの批判をし(これは正しかった)、いろいろ早口で語りはじめました。
大方僕は同意できましたが、結局何を言いたいんだと聞いてみました。
 
すると、「マヤのカレンダーはイエスが戻ってくるときを予言している」というのです。
「おかしい」と思いました。それで聖書に何か加えてはならないと書いてあると説明していると、
「わたしが真理だ(I am the truth)」と言いはじめました。イエスだけがその定冠詞がついた真理です。
それに反論していると、横にいた婚約者のジーンが「ヨハネ14章6節にわたしが道であり、真理であり、いのちであるって書いてあるじゃない」と箇所を引用して言ってくれました。
 
一緒に間違った教えと戦い、真理を守れたことを嬉しく思いました。
真理を擁護していると、真理に歩むのがより簡単になります。
 
今度は4月にあっちに行きます。
帰ってきたときにはもう結婚しています。何か早いですね。
いろいろ期待と不安はあまりないですが、聖書の神に頼っていきたいと思います。
 
あっちの教会で話した説教も時間があれば、ここに載せたいと思います。
 
 
あと、フィリピンのキリスト教の現状を書いて終わりたいと思います。
 
フィリピンのペンテコステ派の教会は全体的に終末論について知っています。
反キリストや千年王国のことなど。
ですが、学問的な学びは日本と比べれば残念なことに全然です。
牧師でもヘブライ語、ギリシア語の基本を知りません。
また僕の行っている島にはキリスト教書店がひとつもなく、船でルソン島に渡って買いに行くしかありません。
インターネットカフェは至るところにありますが、それで情報収集をする習慣は無いようです。
またキリスト教書店でも流行りの「繁栄の福音」の本がたくさんあるだけです。
そのような現状なので、きちんとした聖書的な本をプレゼントするととても喜ばれます。
 
英語で話せ、基本的な聖書の神学を知っている日本人クリスチャンなら、あっちで活躍できると僕は考えます。
僕たち日本人は多くの面で恵まれています。
外に出ないとこれは分からないかもしれませんが、富んでいたイエスが人となって貧しい人たちに仕えたように、富んでいる僕たちが何かフィリピンのために、聖書の教育、文書の配布、伝道など出来ることがあるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 

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