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みなさん、こんにちは。
こちらのブログでの告知が遅くなりましたが、名古屋でセミナーをします。
僕も通訳として行きますので、みなさんお越しください。
3月22日(土)に名古屋セミナーを開催します。以前のセミナーとは別の会場となっていますので、ご確認ください。聖書をヘブライ的にはどのように解釈するか、学ぶかを見ていきます。
3月22日(土)名古屋聖マルコ教会会館
〒461−0011 名古屋市東区白壁1−32
テーマ: 雅歌−キリストの花嫁の性質
午前の部(英語・日本語) 10:00〜12:00 (1階ホール)
午後の部(英語・日本語でのセミナーと交わり) 13:00〜17:00 (2階サムエル)
全日参加される方は、昼食をお持ちください。
参加無料、自由献金あり
友達を誘ってください。
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今日は、日記として最近あったことを分かち合いたいと思います。
この頃、税務署のアルバイトとして働いているのですが、その休憩時間に、「神さま、聖霊のバプテスマを与えてくださって、大胆に語らせてください」と祈っていたら、そのお昼休憩中、たまたまみんなの話題はカトリックのことに。
通っていた学校が「カトリック系」から始まり、シスターがどうとかいう話にみんなでなりました。
またある人の父親は、死ぬ直前まで自分がプロテスタントだということを隠していたということを話していました。
聖霊のバプテスマについて、ついさっき祈っていたので、「あっ、ここで自分がクリスチャンと言わなければ」と思い、自分がクリスチャンであることを話し、トラクトをみんなに見せると、みんな「あっ変わった人がいる」というような雰囲気になりました。また途中で入って来た人は「見なかったことにするわ」と半分馬鹿にしながら部屋を出て行ったのです。
僕がクリスチャンであるという話をすると、「何を信じてもいいねん。信じる者は救われるやから!」という人も。
ここで思ったのですが、確定申告に来る人で一番やっかいで、怒りだす人は、お金が還ってくると思っていたのに、払う計算結果になった人です。逆に、前々から「税金を払うことになる」と心の準備ができている人はとても素直で、納付の結果が出ても納得して帰られます。
では話を戻しますが、確定申告で、税金が戻って来ると「間違った情報」を信じていた人が、実際は税金を払うようなことになっても、人は気にしないんでしょうか?
まさに正反対です。
何を信じていても良いということは、全くのウソです。
福音について考えてみましょう。
間違ったことを信じて死後に報われると思っている人たちがいます。その「信仰」は間違った情報に基づいているので、死後に報いを受けるどころか、死後に罰の代価を自分の身をもって支払わなければならなくなります。そして、そのような人は裁きの日に激しく怒ることでしょう。
まさに聖書に書いてあるとおりです。
◆「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る」箴言19:3
僕はこの出来事によって次の聖句を思い出しました。
◆「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます」マルコ8:38
キリストが唯一の望みで、みことばを愛しているなら、死ぬ直前まで隠していることなんて出来るでしょうか?クリスチャンにとってはある人が死ぬ前に信仰告白をするのは素晴らしいことですが、未信者から見るとそのように見られています。みなさんが結婚されていて、奥さんを愛しているなら、結婚していることを隠したりはしないでしょう。
そしてみことばを未信者の人に伝えようとした時には、いつもこの箇所を思い出します。
◆「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」1ペテロ3:15
正直に言うと、今回上手く答えることができませんでした。
みんなが「信じれば何でもいいじゃん」と言っていたので、「聖書は信じる証拠がたくさんありますよ」と言いましたが、「じゃあ、どんなものがあるの?」と聞かれて、少し考え込み、休憩時間が無いのもあいまって、「今は時間が無いので」と言ってしまいました。なんて悪い例なのでしょう。
クリスチャンなら、このような場面にあったことが皆さん必ずあるはずです。
その時に素早く答えられるよう、知識と御霊に満たされて日々準備している必要があります。
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この頃、ある本を読んだので、その感想を書いていきたいと思います。
<本の紹介>
その本とは高校で世界史を勉強した人なら、ご存じの『痴愚神礼讃(ちぐしんらいさん)』という本です。
『痴愚神礼讃』(エラスムス著、沓掛良彦訳 中央公論新社発行)
ロッテルダムのエラスムスが書き、1511年に出版され、当時ヨーロッパでのベストセラーになりました。
書かれた言葉はラテン語で、学者であったエラスムスが『ユートピア』を書いたトマス・モアに宛てて、
書いた一種のフィクションです。
その中で痴愚女神という「愚かさ」が擬人化されたものが、いかに人々がその女神の恩恵を受けているか語っていくというものです。
そして、この本は宗教改革にとって大きな起爆剤となり、よく
「エラスムスが宗教改革の卵を産み、ルターがその卵をかえした」と言われます。
<読もうと思った経緯>
今、ジェイコブ・プラッシュの黙示録の七つの教会を訳しているところで、宗教改革者のうちで一番のブレーンはエラスムスだと書いてあったので、とりあえず読んでみようと思いました。
<エラスムス>
宗教改革者の中で、エラスムスはルターたちとは違った立場にいました。
どちらもカトリック教会の腐敗を非難したのは同じですが、エラスムスは教会からの分離を説かず、武力を用いた戦争に全く反対していました。多くの人が知らないと思いますが、宗教改革者たちは実際、人を動かす手段として暴力や戦争を用いました。
<時代背景>
そして以前からルネッサンスの時代に、ローマ・ギリシア古典の再発見があったと知っていましたが、この『痴愚神礼讃』を読んで、本当に実感しました。前半部分はキケロやプラトンやアリストテレス、ソクラテス、エピクロス派、ストア派、ユピテル、ホメロスなど、哲学者や神話の神々などの名前が多く登場します。
今21世紀のクリスチャンの視点から読むと「なんだこれは」と思いますが、これがベストセラーとなったということは当時の知識人階級、また一般の人たちの間でギリシア・ローマの古典が流行っていたのだろうと容易にうなずけます。そしてそれを考えると、当時の宗教改革者たちの解釈法もヘブライ的ではなく、ギリシア的であるのもうなずけます。これは『ミドラッシュ』のメッセージ内で扱われている内容です。
<エラスムスのメッセージから適用できること>
では、今頃エラスムスの本を読んで、何に活かせるんだと思われるかもしれませんが、当時の状況は今のフィリピン、南米のカトリック教国で起こっている状況ととてもよく似ています。
多くの人がカトリック教会から去り、ペンテコステ派の教会に入ってきています。そしてフィリピンでも実感しましたが、普通の人でもカトリック教会の腐敗をよく知っています。
したがって、今それらの国は宗教改革のような時代にあり、同じメッセージが適用できるということです。
では、実際に何が書かれてあるかみてみましょう。(多くの箇所がカトリック教会や教皇非難です)
<引用>
●「犯した罪から、その実なんの効力もない赦免によって救われるというので悦に入り、水時計ででも測るかのように、数値の表を作って、煉獄にとどまる時間がいかほど短くなったかを、世紀、年、月、日、時間にいたるまできちんと計っている人については、さあどう言ったらいいのでしょうね?まじない札だの、短い祈りの文句だの(そんなものは、どこかの信心深げな詐欺師が、楽しみのためか金儲けのためにひねりだしたものですが)を頭から信じ込み、富、名誉、快楽、飽食、いつまでも続く健康、長寿、若々しい老年、天国でキリストの傍らに座を占めることなどの一切が得られるものと考えている人たちについては、なんと言ったものでしょう?」p.104
●「それぞれの地方が、それぞれ自分たちには特別の守護聖人がいると主張し、それぞれに固有の御利益が振り当てられていて、それぞれ違った礼拝の仕方がなされているのも、まあこれと同類ではないでしょうか?歯痛を治してくれる聖人、お産の痛みをやわらげてくれる聖人、盗まれた物を見つけ出してくれる聖人…がいると言った具合で、全部数え上げたらきりがありません。一人でいくつものお役目を引き受けている方々もおられますよ。聖母マリア様がそれで、世の人々はこの御母に、その御子が担っておられる以上の役目を押しつけております。」p.106
●「教皇方に残されているのはただこれだけ、つまりは武器とパウロも言及しております甘いことばだけで、それとこちらのほうは大いに気前よくどしどし発しておられる聖務執行停止命令、聖務停止令、譴責、累加譴責、破門、破門者地獄絵図、それにちょっとうなずいて合図しただけで、人間たちの魂を地獄のかなたまで叩き落としてしまうあの恐ろしい雷ていです。…福音書に「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」とあるにもかかわらず、教皇方は土地や、町や、租税や、賦課金や、王国をペテロの遺産と呼んでいるのです。これを護らんがために、彼らはキリストの熱愛に燃え立って、剣と火をもって戦い、多くのキリスト教徒の血を流させておりますが、彼らの言う敵どもを完膚なきまでに叩きのめすことで、キリストの花嫁である教会を、使徒のごとく護っているものと信じているのです。」p.180-181
●「一般の司祭たちにしても、敬虔さにおいて高位の方々に劣ることは許されぬものと考え、自分たちの取り分である十分の一税の権利を守るために、剣であれ、槍であれ、投石機であれ、あらゆる武器を動員して、なんとまあ勇敢に、本物の兵士よろしく戦っていることでしょう。古ぼけた古文書の中から何かを見つけ出すことにかけては、なんとまあ目ざとく、それでもってあわれな民衆を脅しつけ、十分の一以上の税を払わねばならぬと説きつけてしまうことでしょう。そのくせ、自分たちの側でも民衆に対して負わなければならぬ義務がどれほど大きいか、あらゆる文書で読んで心得ているのに、そんなものは一向に念頭にないのですからね。剃髪こそしているものの、司祭たるものは一切の世俗的欲望を去って、天上界のことだけに思いを凝らさねばならぬということには、思い及ばないのです。」p.184
<本書の終わり部分>
本書の始まりでは、いかにこの世の人たちが愚かな女神に導かれて、愚かな事柄を行っているかが語られていましたが、終わりの部分に入るとエラスムスの「言いたかったこと」が現れます。
それはキリストは肉体という愚かさをまとってこの世に来られ、クリスチャンもこの世に対しては愚かに生きるべきだというものです。
●「キリストおんみずからも、神の叡智の体現であるにもかかわらず、人間たちの愚かさを救済なさるために、人間の本性をまとわれ、人間の形で姿をあらわされたとき、なにほどかは愚者となられたのです。同じく罪人の罪を贖うために、罪人となられました。罪を贖うのに、十字架の愚と、愚昧で頭の鈍い使徒たちによる以外の方法は望まれなかったのです。」p.210
(クリスチャンに関して)
●「こういう人たちは自分の持てる財産を蕩尽し、不正をはたらかれても気にせず、欺かれることに甘んじ、友と敵を区別せず、快楽を嫌い、断食、不眠、涙、労苦、屈辱をいやと言うほど味わい、生を厭い、ひたすら死を願います。一言で言えば、常識に対するあらゆる感覚を失っているように見えますので、あたかも魂がその肉体ではなく、どこか別のところで生きているかのようです。」p.214
●「これとはまったく異なり、敬虔な人々は、あらゆるもののうちで最も単純なものである神そのものを全力を挙げて志向し、次に神に最も近いもの、すなわち魂に力をそそぎます。肉体に心を用いることはせず、金銭などは塵芥さながらに蔑んでそれを避けます。あるいはこの種のものにたずさわることを強いられましても、それをいやいやながら、不快な気持でしますから、持っていながら持っていないも同然です。」p.217
<結論>
ほんとうに辛辣なカトリック教会、教皇批判からこの書は昔、禁書とされてきました。
ルターに影響を与え、この書がきっかけで宗教改革が始まったことを考えると、
僕たちクリスチャンは恐れることなく現状を語り、偽りを暴露すべきです。
以前ルターの『キリスト者の自由』(マルティン・ルター著、石原謙訳、岩波文庫)を読みましたが、
彼も大胆に真理を宣べ伝える人でした。そのような人たちが現状を変えることができるのではないでしょうか。
僕たちは人の顔色を気にし過ぎて(もちろん愛をもって真理を語ることが必要ですが)、真理を、現実を伝えられずにいます。そのようであれば、何も現状は変わらず悪い状況はさらに悪くなっていきます。
宗教改革者たちも間違ったことを行った部分もありますが、その大胆さは見習う必要があると思います。
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以前から、存在自体は知っていましたが、最近オメガバイブルスタディーのパンフレットを手に取りました。
スティーブンス栄子さんという方が、黙示録を教えているということは知っていましたが、
どんな内容を教えているのか、具体的なことは知りませんでした。
今回はそのオメガバイブルスタディーについて書いていきます。
オメガバイブルスタディーさんのニュースレターの今回のテーマは
「キリストの花嫁」でした。そして興味深いユダヤ人の婚礼のしきたりが書かれていました。
それ自体に特に異論はありません。
ですが、次のように書いてあったので、驚きました。
(以下『オメガバイブルスタディー ニュースレター 2014年1月号』より)
「婚礼
「御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい』と言い、また、『これは神の真実のことばです』と言った(黙示19:9)」と記されています。婚姻と婚宴は別です。
キリストと教会の婚宴は地上で行われます。婚姻は天国で行われ、その後、キリストはご再臨されます。その時、「……すべての聖徒たちも主とともに来る(ゼカリヤ14:5)」と書かれていますから、花嫁は主と共に地上に到来します。
またこの時、大戦争がありますが、聖徒たちは戦いません。
(省略)
これらの戦いが終わり、神殿と土地の清めが終わると、第一の復活があります。旧約の聖徒たち(ダニエル12:2)や、患難時代の聖徒たち(20:4)の復活があります、これは地上で起こる第一の復活で、教会の携挙とは時間も場所も違います。
(省略)
「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ」と言っているのは、メシア王国(千年王国)に到達した者すべてが招かれるのではなく、花婿の友人が招かれるのです。それは第一の復活にあずかっている、旧約の聖徒たちと患難時代の聖徒たちです。」
文意からは、第一の復活にあずかるのは「旧約の聖徒たちと患難時代の聖徒たち」だけと読み取れます。
とすれば、大きな問題があります。
●新約時代の異邦人クリスチャンは第一の復活ではよみがえらない
現代に生きる日本人クリスチャンの皆さん、この教えによると第一の復活にあずかれないのですよ!
この教えは正しいのでしょうか?
それではここからは主に黙示録20章のからどのような人が、千年王国に入るかを見てみましょう。
「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな(makarios)者、聖なる(hagios)者である。この人々に対しては、第二の死(ho thanatos ho deuteros)は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司(hiereus)となり、キリストとともに、千年の間王となる(basileuo)。」黙示録20:1−6
ここに第一の復活にあずかり、千年王国に入る人たちについてヒントが与えられています。
その前に、このニュースレターの背後にあるのは、ディスペンセーション主義で、「ユダヤ人たちだけが患難時代を通るという」前提のもと書かれていることが分かります。
さて、オメガバイブルスタディーの教えでは、第一の復活にあずかるのが「旧約の聖徒たちと患難時代の聖徒たち」だとありますが、彼らだけでなく、新約の私たち異邦人クリスチャンも当然あずかります。それでは説明します。
●幸いな(makarios)
この言葉、マカリオスという言葉は有名な箇所で使われています。
○「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
○悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
○柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
○義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
○あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」(マタイ5:3−7)
もうここまで来るとお気づきだと思いますが、これは山上の説教です。
ギリシア語では冒頭部分がいつも「マカリオイ ホイ」で始まります。
マカリオイはマカリオスの複数形です。ホイは定冠詞「ホ」の複数形です。
どなたか山上の説教は「ユダヤ人だけに対してものだ」と考える人はいますか??
マカリオスが使われている次の箇所はより明白です。
○ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」それでは、この幸い(makarismos)は、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。(ローマ4:6−9a)
もちろん、この答えは「この幸いは割礼をうけた者(ユダヤ人)だけに与えられるのではない」です。
異邦人信者も信仰によってユダヤ人と同じように義と認められます。
●聖なる(hagios)
この言葉は以前にも検証しましたが、この言葉は「聖徒」と同じで、ローマにいるクリスチャンにも、コリントにいるクリスチャンにも、エペソにいるクリスチャンにも、ピリピにいるクリスチャンにも、コロサイにいるクリスチャンにも、ヘブル人のクリスチャンに対しても使われています。
もちろん、異邦人クリスチャンをも含んでいる単語です。
●第二の死(ho thanatos ho deuteros)
本文には「この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない」とあります。ということは、第一の復活にあずからなかった人には第二の死が力を持っているということになります。ごくシンプルな論理です。
この同じ「第二の死」という言葉が次の二箇所で使われています。
○「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示録20:11−15)
○「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である」(黙示録21:8)
この箇所で分かることは、第二の死を受ける者はいのちの書に名が記されておらず、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者などであるということです。
とすると、第一の復活にあずからなければ助からない、言いかえると第二の死を受ければ助からないことが明らかではないでしょうか。そのため第一の復活にあずからない人は永遠に滅びます。
●祭司(hiereus)
ヒエルースと読みますが、第一の復活にあずかる者は千年王国で「祭司となった」とこの箇所にはあります。
それではここで質問ですが、千年王国で祭司となるのはユダヤ人だけなのでしょうか?
「それはそうだろう」「そうかもしれない」と思われた方は次の箇所をしっかり確認してください。
○彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示録5:9−10)
もちろん、この箇所の文脈はほふられた小羊、イエス・キリストについてです。
よく見てください、あらゆる部族、国語、民族、国民とあるではありませんか!
それゆえ、第一の復活にあずかり、千年王国において王・祭司となるのはユダヤ人信者だけでなく、異邦人信者も含まれていることが明確に分かります。
結論
以前、黙示録20章の千年王国の箇所を読んだ時に、僕も
「第一の復活にあずかるには、殉教するか、獣のしるしを拒む必要があるんだ」と思っていました。
ですが、それは究極的な信仰の証拠であって、すべての救われた信者を含んでいるのは当然です。
またもうひとつの問題は、
「大艱難時代を通り、獣の刻印に出会うのはユダヤ人信者だけだ」という教えです。
先に黙示録5章で、千年王国にて王となり祭司となるのはあらゆる人種の人たちだと見ました。
その同じ人たちに関して黙示録20章では、「獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」(黙示録20:4)と定義があります。それゆえ、ユダヤ人信者だけでなく、私たち異邦人信者も獣の刻印を目の当たりにするということが分かります。
僕は決して獣の刻印を見たい、患難を経験したいわけではありません。全くその反対です。
ですが、「来るべきものに自分たちは関係が無い」という教えがあるから心配なのです。
私たちはイスラエルに接ぎ木され、アブラハムの子となり、同じ第一の復活を味わいます。そして第二の死を逃れます。私たちも婚宴に招かれているのです。
終末論では、携挙のタイミングなど、細かな点について多くの意見の違いがあるでしょう。
ですが、「第一の復活」にあずかるのは「旧約の聖徒たちと患難時代の聖徒たち」だけというように表現するのはよくありません。あたかも僕たちが第一の復活にあずかれないようにです。
聖書解釈法に関していえば、多くのクリスチャンが同じことを語っている「関連個所(並行箇所)」に注目することなく、二つ、三つの箇所から神学を作り出してしまっています。「みことばのすべてはまことです」とあるように(詩篇119:160)、みことばの総体が真理です。
黙示録20:1−6の本文の解釈に関して、「間違っている」と思われる方はコメント欄にお書き下さい。
その際は、理由と根拠を(できればギリシア語本文から)示してください。
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新しい説教が翻訳・掲載されました。
『クリスチャンカルト』 ジェイコブ・プラッシュ著
です。
新生したクリスチャンが集まる教会、神学的には「教会」でありながら、
社会的には「カルト」である団体でどのようなことが起こるのでしょうか。
熱心なクリスチャンほど支配的な「カルト」に陥る可能性は高いと思います。
僕たち自身も気を付けて、イエスさまの模範から逸れないようにする必要があります。
神学的カルトのひとつの大きな特徴は、特定のひとつの「真理」を取り上げて、それを中心的な「真理」としてしまうことです。
たとえば、奉仕です。
奉仕は大切なことですが、家族の世話を見ることはより大切です。
妻がいて、子供がいるのにいつも一緒にいることができず、奉仕に没頭していることはできません。事実、家族とうまくいっていないと、奉仕に力がありません。また家族と過ごす時間は大きな奉仕です。
もうひとつは、指導者への過度の忠誠です。
長老は群れを支配するのではなく、模範になるように言われました。
日本では儒教思想、また武士道と相まって、「指導者に黙って」従うことが普通だと考えられていますが、それは本当に聖書的でしょうか?
このような極端になるのを避けるにはどうしたらいいのでしょうか。
ある人はこの聖書箇所を強調し、またある人は別の箇所を強調します。
僕たちに必要なのは聖霊に導かれたバランスです。
そのために日々、毎日聖書を通読する必要があります。神さまのバランスを学ぶのです。神さまはいつも聖書で何を強調していますか?神さまはいつも何を特に語っていますか?
このような態度でみことばに臨めば、自分の都合の良いように聖書箇所を曲げて解釈することはなくなるのではないでしょうか。
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