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主の日に何が起こるのか 「パルーシア」と「エピスナゴゲー」
前回の記事で終末論、携挙の話が出てきましたので、
聖書が明らかにしていることと、聖書の学び方について書いていきます。
この記事がどなたかの益になれば、幸いです。
第二テサロニケの箇所です。
「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られること(パルーシア:παρουσία)と、私たちが主のみもとに集められること(エピスナゴゲー:ἐπισυναγωγή )に関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」2テサロニケ2:1−3
【二つのギリシャ語】
今回、この記事を読んだ後でも、覚えていてもらいたいギリシャ語は
「パルーシア:παρουσία」と「エピスナゴゲー:ἐπισυναγωγή 」です。
日本語だけで言うと、「(主が)来られること」と「みもとに集められること」です。
キリスト教用語に直してみると、「主の到来または再臨」と「携挙」です。
そしてこの箇所から分かることはそのふたつ、「再臨」と「携挙」が「主の日」に起こるということです。これが本文、文脈からはっきり見てとれる事実です。
そして「主の日」は多くの旧約聖書の箇所で書かれているように、
「全能者から破壊が来る」(イザヤ13:6)、「諸国の民の終わりの時」(エゼキエル30:3)、「あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る」(オバデヤ15)という時です。
それゆえ、神の最後の怒りが来るまさにその瞬間に、再臨が起こり、携挙が起こるということが分かります。
ですが、それだけではありません。
このふたつのギリシャ語を調べることによって、またヘブライ語の同義語を調べることによって、携挙の性質がより明らかになってきます。
【「エピスナゴゲー」=携挙】
「エピスナゴゲー」=「周りに集まること」という名詞自体は、聖書で二度しか登場しません。
上記の箇所と、もうひとつの箇所はヘブル人への手紙10:25です。
「ある人々のように、いっしょに集まること(ἐπισυναγωγή )をやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」
まさに、私たちが今教会において主の名によって集まること、そのことが携挙と同じ性質を持っています。
今、信者同士で集まることを好んでいるなら、最終的に集められる時にも喜びがあるでしょう。
でも、今信者同士で集まることを嫌っているなら、最終的に集められるのですから、携挙を嫌っているのと同じです。何らかの信者の交わりに定期的に参加していないということは、何か問題がある証拠だと思います。
エピスナゴゲーの動詞は「エピスナゴー:ἐπισυνάγω」です。
ここまでくるとお気づきかもしれないし、どこかで聞いたことがあるかもしれませんが、このエピスナゴゲーやエピスナゴーという言葉からユダヤ教の会堂「シナゴーグ」が来ています。
ともあれ、この動詞は、名詞に比べて多く登場し、13回登場します。
そして、その箇所を見ていくと、携挙の理解がより深まります。
□ マタイ23:37 「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集める(ἐπισυνάγω)ように、あなたの子らを幾たび集めよう(ἐπισυνάγω)としたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」
イエスさまはエルサレムの子らを携挙するように、集めることを望んでいました。
□ マタイ24:31 「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます(ἐπισυνάγω)」
これが携挙です。
□ マルコ13:26−27 「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます(ἐπισυνάγω)」
【「カバツ(קָבַץ)」=集める】
上記のギリシャ語「エピスナゴー」の、ヘブライ語の同義語は「カバツ(קָבַץ)」です。
この「カバツ」という言葉から、イスラエルの集団農場「キブツ、キブツィーム」という言葉が来ています。
その言葉が登場する箇所を見てみると興味深いものです。
間接的にですが、携挙の性質を教えてくれています。
□ 申命記30:3 「あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める(קָבַץ)」
□ ネヘミヤ1:9 「あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行なうなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め(קָבַץ)、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る』と」
□ 詩篇106:47 「私たちの神、主よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください(קָבַץ)。あなたの聖なる御名に感謝し、あなたの誉れを勝ち誇るために」
□ 詩篇107:2−3 「主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い、彼らを国々から、東から、西から、北から、南から、集められた(קָבַץ)」
□ イザヤ11:12 「主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる(קָבַץ)」
これ以外にも、多くの箇所が携挙について教えています。ぜひご自身で調べてみてください。
(ストロングスナンバー…カバツ:H 6908、エピスナゴー:G 1996 左の原語ナンバーをアルファベットも含めて、http://gengodekensaku.com/#の検索の欄に入れて調べてみてください)
【それから分かること】
ご自身で調べてもらえば、分かるのが、携挙はただ新約聖書で突然登場する考えではないということです。
聖書の他のテーマも同じですが、旧約・新約を通して何度も何度も繰り返されています。
僕たちは終末論について論じたり、考えたりするときもこれを頭に入れておくべきです。
特に黙示録を読むと、頭は黙示録だけにいってしまい、あれこれ分からないパーツをくっつけようとしてしまいます。大きな誤解の発端は、黙示録を黙示録だけで解釈しようとしてしまっている点です。
みなさんも、お気づきだと思いますが、黙示録は旧約聖書を本当に多く間接的に引用しています。
僕の教会の宣教師が言っていましたが、黙示録はパズルの最後のピースのようです。
ともあれ、重要なことは「携挙」について考えるときにテサロニケの手紙や黙示録だけ読んで結論づけてしまうのではなく、「エピスナゴー」も「カバツ」も登場する箇所すべてを調べ、総合的にみることができてから、その上で黙示録を見てみると、理解ができるということなのです。
【ジェイコブ・プラッシュの新著】
ジェイコブがまさにこのような「携挙」のテーマについての本を来年2014年に出版するようなので、楽しみにしていてください。英語が読める方は、モリエル日本からでもお送りできると思います。
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11月30日東京セミナー今回のセミナーではビマ・アラグ氏がお話します。
兄弟姉妹との交わりを楽しみながら聖書を学びましょう。
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ビマ・アラグ氏
ヒンズー教の両親に生まれ、10年間の統一教会活動後、1994年に救いに与る。
15年に亘り英国イーストミッドランド地区のセミナーを開催し、牧師としてグループ勉強会をも進める。
イスラエル、ギリシャなど5回 ジェイコブ・プラッシュの勉強ツアーに参加
個人で家族と2回イスラエルを訪れる。
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今回のセミナー主題
セッション1 10:00 エペソ人への手紙5章
昼休み
セッション2 12:30 第二コリント人への手紙13章5節
セッション3 14:00 勝利を得る(ジェフ・トゥール)
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文京区勤労福祉会館 11月30日(土曜日)第1・第2創作室
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参加無料・友達を誘いましょう
morieljapan@yahoo.co.jp
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Q.私たちは最後に現れる反キリストに会うのでしょうか?
【はじめに】
今回は、この疑問に答えたいと思います。
このような疑問をいろんなクリスチャンに聞くと、その人の信じている終末論によって大きく答えが違ってくると思います。
また終末論というと携挙がいつのタイミングで起こるのか、前患難説か、後患難説か、前御怒り説かなどで、意見が分かれます。(これについては僕も自分の立場を持っていて、説明することができますが、またの機会にします)
終末論というクリスチャンの中でも非常に意見が分かれるテーマについて、ひとつ言えるのは明らかな聖書の本文を無視してはならないということです。
この記事で説明していきますが、明らかな聖書の本文を無視して、終末論を作り上げてしまうことは誰でも陥りやすい間違いです。
またこの終末論について話すにあたって、兄弟姉妹のクリスチャンのみなさんに第一にお伝えしたいことは、終末論で違う意見を持っているからといって、交わりを別つ理由にはならないということです。
特に携挙のタイミングについては、僕たちは誰かが「携挙がある」と信じていることで、もう喜んでいます。そのタイミングの解釈がどうであれ、携挙自体を否定していないことが僕たちにとっては喜ばしいことなのです。
【回答】
上記の質問への答えは、明快です。
A.はい。クリスチャンは最終的な反キリストに会います
【反キリストとは】
まず最終的な反キリストを定義することから始めると、反キリストとは黙示録13章に登場する「獣」と「にせ預言者」です(にせ預言者の名称は黙示録19:19−20より)。
彼らふたりがキリストに反対する者、キリストに取って代わろうとする者たちだからです。
「反キリスト」という言葉はギリシア語で「ἀντίχριστος(アンティクリストス)」とありますが、
反と訳されている「アンティ」は、ただ単に反対するという意味だけでなく、「取って代わる」という意味を持っています。
「アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた」マタイ2:22
この「代わって」という言葉が「アンティ」です。
したがって、キリストに反対していないように見えても、真似をしているだけの偽物ならばそれは実質的にキリストに反対しているのです。
【ある牧師さんの意見】
ある日、尊敬しているある牧師さんの説教を音声で聞いていました。
その中で黙示録について話していて、次のように語られているのを聞いて、非常に驚きました。
「(黙示録13章について)この時には教会は地上に存在していないということになります」
この見解が本当だとすると、私たちは最終的な反キリストに会うことなく、その前に携挙され、獣の刻印も実際は関係無いことになります。
ですが二つの理由から、残念ながら、この牧師さんの見解が間違っていることが証明できます。
(僕がこの牧師さんの名前を出さないのは、僕自身非常に尊敬していて、非常に良い教えを多くされていて、できればこの見解を変えてもらいたいためです。キリストにある兄弟としての願いです)
【クリスチャンが反キリストに会うという理由】
まずご自身で黙示録13章を読んでみてください。黙示録全体を読んでみてください。
①その時代に「聖徒(ἅγιος:ハギオス)」がいる
「彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され」黙示13:7
「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある」黙示13:10
この聖徒という言葉「ハギオス(文字通りには聖なるもの)」はクリスチャンを表わしていて、ローマにいるクリスチャンにも、コリントにいるクリスチャンにも、エペソにいるクリスチャンにも、ピリピにいるクリスチャンにも、コロサイにいるクリスチャンにも、ヘブル人のクリスチャンに対しても使われています。
これらの手紙を読むと分かるのは、彼らが私たちと同じように多くの問題を抱えながらも、奮闘していたクリスチャンだということです。
それゆえ、最後の時代に現れる最終的な反キリストにクリスチャンたちは会い、それを認識します。
この黙示録13章にいる「聖徒=クリスチャン」だけを特別なクリスチャンと見ることはできません。原文の原語が同じように他の箇所でも使われているからです。
②獣の数字を数える「知恵(σοφία:ソフィア)」が必要になる
「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である」黙示13:18
1コリント1:24ではキリストが神の知恵(ソフィア)であるとあり、箴言8章ではキリストが知恵(חָכְמָה)と呼ばれ、神の創造のわざに協力していたとあります(箴言8章)。まさに知恵とはキリストです。
そうすると、知恵なるキリストを信じているクリスチャンが地上にいなければ、一体どうやって知恵をもって、その獣の数字を数えることができるのでしょう???さらに本文には「数えなさい」と命令形であります。数えれないとわかっているのに「数えなさい」と神さまは言うのでしょうか。
【反キリストに会うと分かると】
では、僕たちクリスチャンが反キリストに直面すると分かるとどうなるのでしょうか。
まず準備ができます
パウロに対して神さまは次のように言われました。
「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」使徒23:11
パウロがローマ皇帝(当時の反キリスト)に直面する準備ができるようにと、神さまは語りかけました。
また現実の世界で、現代に現れている多くの反キリストを認識できるようになります。
「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります」1ヨハネ2:18
言いかえると、(最終的な)反キリストが来ることを聞いていたために、現在現れている多くの反キリストを認識できたということです。
キリストの十字架を否定し、キリストの神性を否定するエホバの証人は反キリストです。
秘跡による救いを説き、聖書に書かれていない煉獄を教え、人を罪悪感のもとに置いているカトリック教会は反キリストです。
より良い世界を作るために、他宗教と協力しなければならない、またイスラムの神と聖書の神が同じであるとサインしたリック・ウォレンは反キリストです。
聖書はただの倫理を教えているだけで、歴史的事実ではなく、文字通りの創造やノアの洪水は起こらなかったと教えているキリスト教系大学のリベラル派教授たちは、反キリストです。
救われていない人はみな反キリストです。もちろん、僕もかつてはその一人でした。
【世の終わりを強調する理由】
僕がモリエルミニストリーズの英語の説教をはじめて、聞き始めた時に
「なぜ、こうも終わりの時代を強調するんだろう」
と思っていました。
ですが、最近読んだ箇所で、それにも意味があるということを納得させられました。
「事の終わりは、その初めにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる」伝道者の書7:8
この箇所は「良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる」(7:1)から始まる、みなさんもご存じの箇所です。
この箇所の「終わり」という言葉は「אַחֲרִית(アハリート)」と言い、世の終わりに関しても他の聖書箇所で使われています(イザヤ2:2など)。
私たちは生まれた日ばかりを考えているよりも、死ぬ日について思いを巡らすほうが益があります。
理由はとてもシンプルです。生まれた日はもう過ぎ去ったけれども、死はやがて必ず来るからです。
みなさんご存じか分かりませんが、僕はキース・グリーン(Keith Green)というクリスチャンの歌手が好きです。
彼は若くして、飛行機事故で亡くなってしまいましたが、彼自身終わりの時代を意識した団体を始めていました(Last Days Ministries)。
終わりの時代のことを意識していると、自分の「最期」にも準備ができると思います。
ですが、クリスチャンになって十数年しても、初歩的な福音のメッセージばかり聞き続けいると、世の終わりや自分の最期が来たときには、非常にうろたえてしまわないでしょうか。
死ぬ日は生まれる日にまさる、クリスチャンが眠りにつくときは新生する時よりも勝っています。
「事の終わりは、その初めにまさり、
忍耐は、うぬぼれにまさる」とありますが、ヘブル語聖書では上の列が下の列に関連しています。
すなわち、事の終わり=忍耐に、初め=うぬぼれに関連しています。
クリスチャンになったばかりの自分は、本当にうぬぼれて、高ぶってしまっていました。
自分が何かすごい者であるかのように思っていたのです。
パウロは監督の資格についてこう語っています。
「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです」1テモテ3:6
ですが、クリスチャン人生が長くなるにつれ(僕はそれほど長くありませんが)忍耐が必要だということをひしひしと教えられてきました。
ともあれ、僕たちクリスチャンはうしろのものを忘れ、前のものに向かってひたすら進むべきです。
そして世の終わりに準備ができていると、自分の最期にも準備ができようになります。
(このテーマに関して真摯なご意見お待ちしています)
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次のような質問をある方から頂いたので、この記事にてお答えします。
「だいすけさん、教えて頂きたいのですが、ヨハネ12:41「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである」とありますが、原文のギリシャ語にはイエスという言葉はありません。ここをイエスとする理由が分かれば教えて頂けないでしょうか?」
質問、ありがとうございます。
まずヨハネ12:41のギリシャ語は次の通りです。
12:41 ταῦτα εἶπεν Ἠσαΐας ὅτι εἶδεν τὴν δόξαν αὐτοῦ καὶ ἐλάλησεν περὶ αὐτοῦ
(英訳NASB:These things Isaiah said because he saw His glory, and he spoke of Him.)
確かに、このギリシャ語の中にはイエス(イエスース)という語はありません。
新改訳聖書では「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである」とありますが、この「イエス」と訳された二つ箇所にはただ「αὐτοῦ」(アウトゥー)「αὐτοῦ」(アウトゥー)とあるだけです。
ギリシャ語の「αὐτοῦ」(アウトゥー)とは「彼」を表す語「αὐτός」(アウトス)の男性形・単数・属格です(「彼の」という意味)。
後半部分の「τὴν δόξαν αὐτοῦ」(テーン・ドクサン・アウトゥー)とは「彼の栄光を」という言葉で、真ん中の言葉は「δόξα」(ドクサ)といいますが、ここから英語の「doxology」(ドクソロジー=頌栄)という言葉が来ています。
次の「καὶ」(カイ)とは「そして」という意味で、「ἐλάλησεν」(エラレーセン)は三人称・単数形・アオリストで「その人(イザヤ)が言った(一回性の動作)」、「περὶ」(ペリ)は「まわりに」という意味と「について」という意味を持っています。そして最後は「αὐτοῦ」(アウトゥー)、「彼の」です。
質問に戻りますと、確かにこの箇所には「彼」、「彼」としか出てきません。その一方、次の節を見るとイエスについて語っていることは確かです。
ヨハネ12:42
12:42 ὅμως μέντοι καὶ ἐκ τῶν ἀρχόντων πολλοὶ ἐπίστευσαν εἰς αὐτόν ἀλλὰ διὰ τοὺς Φαρισαίους οὐχ ὡμολόγουν ἵνα μὴ ἀποσυνάγωγοι γένωνται
(英訳NASB:Nevertheless many even of the rulers believed in Him, but because of the Pharisees they were not confessing Him, for fear that they would be put out of the synagogue)
(日本語訳新改訳:しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった)
ここでもイエスースという語は登場せずに、「αὐτόν」(アウトン)だけが登場します。「αὐτόν」(アウトン)とは先の節に登場した「αὐτός」(アウトス)の男性形・単数・対格です。要するに「彼を」としか書いてありませんが、指導者たちが誰を信じたかは文脈から明白です。彼らはユダヤ人の指導者たちでしたから、創造主なる神、アブラハム・イサク・ヤコブの神をすでに信じていたのは当然です。その人たちがここで「彼」を信じたとあるので、それが「イエス」を指しているのはごく自然に分かります。
それが分かるとヨハネ12:41の二度登場する「彼」は「イエス」で正しいことが分かります。これが本文から確実に言えることです。
(ヨハネ12:41原文の「彼」を「イエス」と訳出している点については何とも言えません。個人的にはそのまま「彼」と訳出しておいて、原文に無い語は入れないほうが良いと思いますが、他の写本を参考にしている可能性もあります)
それでは、この箇所から何が分かるか見ていきましょう。
イエスは万軍の主、神であるということです。
『彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである』ヨハネ12:39−41
この箇所はイザヤ6章10節から引用されていて、イザヤ6章の冒頭部分にはこうあります。
『セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」』イザヤ6:2−3
イザヤは何を見たのでしょう??
『そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」』イザヤ6:5
エホバの証人はイエスが万軍の主と同じ方であるということを否定しますが、彼らの新世界訳にもこうあります。
新世界訳『それから、わたしは言った、「わたしは災いだ! 沈黙に陥れられたも同然だからだ。わたしは唇の清くない人間であり、唇の清くない民の中に住んでいるからだ。わたしの目は王を、万軍のエホバご自身を見たからだ』イザヤ6:5
それゆえ、ヨハネ12:39−43はイエスが万軍の主、エホバ(と呼びたいならば呼んでも良いと思いますが)であり、創造主であることを明確にギリシャ語から、文脈から示しています。疑問が出る余地もありません。
エホバの証人たちはイエスが神であることを否定するために異端です。
『偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです』1ヨハネ2:22−23
キリスト(メシア)という称号には、すでに神である(創造主と同一である)性質が含まれています。御子を否認する者は反キリスト、イエスを否認するものみの塔は反キリストです。
※エホバの証人に関する書籍
『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』正木弥著・びぶりや書房発行
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