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聖書では「食べる」ことに関して多くの箇所があります。
その中でも特に変わっているのが次の箇所です。
『そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。
それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。その方は私に仰せられた。
「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」
そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」
そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。
その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。』エゼキエル2:9−3:4
これはエゼキエルという人の見た幻の一部分ですが、神は巻き物を食べて、その後イスラエルの家に行き神のことばを語れと言ったのです。
さて、これはどのような意味なのでしょうか。
聖書は聖書によって理解されるべきです。
いつも他の関連していそうな箇所を思い出すことは非常に有意義です。
聖書には同じように幻の中で、〜を食べろといわれた箇所があります。
『その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。
すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。
ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
しかしペテロは言った。
「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
』使徒10:9−15
このようなことがペテロに対して3回繰り返されました。
さてこれはどのような意味なのでしょうか?
この幻の後にペテロのところにローマ人から遣わされた3人の人が来ました。
そして、ペテロをその人の家に招いたのです。
そして招かれたペテロは福音を伝えました。
そしたら、なんと異邦人であるその人たちも信じて、聖霊を受けたのです。
彼らは異言で語ったり、賛美したりしました。
それを見たペテロは「異邦人でも救われることができるのか」と思ったことでしょう。
それまでの時代では異邦人は汚れた民族であり、ペテロでさえも彼らは救われることはないと思っていたのです。
しかし、神はいわれました。
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
それまで、モーセの律法では地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうものは汚れたものとして、食べてはならないと言われていました。
しかし、神がきよめたのです。この場合、「汚れたものを食べる」ということが、「異邦人を受け入れる」ということと重ねられています。
このことからも分かるように、食べることと教理(異邦人も救われるということ)は隠れた意味として、書かれているのです。
食べるという行為はその食べたものを自分の一部にするということでもあります。
『わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」 』ヨハネ6:51
『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
』ヨハネ6:53
イエスの肉を食べ、血を飲むということはイエスと彼の言葉を自分の一部とすることです。
最初に挙げた巻き物を食べる箇所も、神のことばを自分の一部として、民に語るという意味です。
悪魔に誘惑されたとき、イエスはこう言いました。
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」 マタイ4:4
いつも神のことばを食べて自分の栄養とするように、読み、自分の一部としていきましょう。
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