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『「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』イザヤ1:18
さて、久しぶりの投稿ですが今日はなぜ、私たちクリスチャンが福音(良い知らせ)を伝えるのかを書いていきたいと思います。
ある人はこう言うかもしれません。
「信者からお金をとるためだろう」
悲しいことに、そのようなことを目的とした偽りの教会があるのも事実です。
しかし、私たちクリスチャンは強制するべきではありません。
なぜなら献金について書かれてある箇所で、パウロは
『ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。』
このように言っているからです。
なのでお金のことに関しては、あげる必要がないと思えば何もしなくて良いのです。
しかし、ある人はこう言うかもしれません。
「自分の給料の十分の一を教会に収めないといけないんじゃない?」
確かに、旧約聖書のイスラエルの民はそう命じられていました。
それはその国においての税金でもあったのです。
そして新約聖書では十分の一税に関しては命じられていません。
なので、聖書から見ても何も強いられる必要はないのです。
(強制される教会からは離れたほうが良いかもしれません)
さらに私たちは思想を強制しようとしているのでもありません。
パウロもコリントという都市に住むユダヤ人が話しを聞かなければ、
彼らに宣教するのをやめました。(使徒18:5−6)
なので、聞きたくない人にはクリスチャンは語り続けはしません。
ならクリスチャンはなぜ福音を伝えるのでしょうか?
まず第一に多くの人に共通することが、
「自分の受けた恵みがあまりにもすばらしいので、これをみんなと分かち合いたい」
ということでしょう。
私もそうでした。
神さまによって救われたときは、言い表せないほどの喜びに浸っていました。
なぜなら、私を見守っていてくださり、永遠の命を保証してくださる方がいるからです。
それに神さまがわたしのすべての罪を赦してくださったことを実感したからです。
それはただ「感情的」なものではありません。2年たった今でも確かです。
それは聖書にそう書いてあるからです。(イエスの十字架によって贖ってくださったことが)
そして、聖書だけが確かな希望を持っています。
仏教のように輪廻の輪から抜け出して無になることのような希望ではありません。
聖であり、義である神さまと永遠に生きるという希望です。
永遠を考えてみませんか?
この世での命ははかないものです。私たちはいつかは死ぬでしょう。
ヤコブの手紙には次のようにあります。
『聞きなさい。
「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。
あなたがたには、あすのことはわからないのです。
あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。
あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。』ヤコブ4:13−14
聖書はいつも永遠の命、死んでからどうなるかということに注意を向けさせます。
あなたは確かな答えを持っていますか?
私たちは何ももって出て行くことはできません。
裸で来たので、裸で帰らなくてはいけません。
私たちは永遠の命を与える、イエス・キリストの十字架をのべつたえるのです。
それは私たちが「良い」のではなくて、「悪い」者であったのに神が哀れんでくださったからです。
「義人はいない。ひとりもいない。」からです。
だから神さまは次のように言われるのです。
『「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』イザヤ1:18
神さまが白くすると言っているのです。
あなたが論じ合っても神さまはきよめてくださるのです。
この神さまを信じてみませんか?
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