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私たちはクリスチャンになったらバプテスマを受けます。
それは決して逆にはなりません。救われるためにバプテスマを受けるのでは、
ないからです。なぜなら、イエスと一緒に十字架につけられていた犯罪人に
対してイエスは、
『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』ルカ23:43
と言ったからです。
確かに彼は救われたでしょう。そして、イエスと共にいるのです。
しかし、救われた者はその救われたことを
公に示すためにバプテスマをうけます。
『それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつく
バプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、
私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。』ローマ6:3-4
この聖書箇所が明らかにしているように、バプテスマはイエスと
同じ状態になる、すなわち、死んで、復活するということを表しています。
このようなことは基礎的なことですから、みなさんも知っていると思いますが、
バプテスマは旧約の時代でも示されていたことを知っているでしょうか。
『わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。
そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。
バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、
イエス・キリストの復活によるものです。』1ペテロ3:20-21
ペテロは旧約聖書をこのような読み方をして、ノアの時代に起きた大洪水を
彼らが箱舟に入って救われたことを示しているとはっきりと言っているのです。
ノアたちは「暴虐で満ちている」世界を出て、地の上にある大きな箱舟に入ったのです。
それは一般的に考えると、おかしなことをしている人たちだと思うでしょう。
しかし、神さまは人間がこれ以上堕落しないように、裁く必要があったのです。
この状況は、今の世界の状況と変わらないものではないでしょうか。
テレビではいつどんなときでも。性的な冗談、卑猥な話、貪欲、外側だけの美が語られています。
そして、そのために日本では確実にモラルが低下し、
婚前交渉、売春、同性愛などが横行しています。
「この曲がった時代から救われなさい」(使徒2:40)とペテロが叫んだように
神さまもこの曲がった時代から救われなさいと呼びかけています。
もうひとつの旧約聖書の中のバプテスマは出エジプトのときのことです。
『そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。
私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、』1コリント10:1-2
旧約聖書にはモーセが民にバプテスマをほどこしたとは書かれていません。
しかし、パウロは彼らが「モーセにつくバプテスマを受け」たと書いています。
それはあの紅海が割れて、海を陸地とされて民がそこを渡ったときです。
彼らは水の中(間)を通りました。
後ろからはパロの軍隊が来、絶望し、死を覚悟していたときに神によって海が分けられたのです。
彼らはキリストの死と同じ状態になったのです。それがバプテスマです。
そして、死ぬはずだった彼らは生きました。
次にバプテスマが表されているのは、第二世代のイスラエルの民がヨルダン川を渡ったときです。
川は上流のほうでせきをなし、彼らは渇いた地を渡りました。約束の地に入るためにそのことが起こったのです。
私たちも約束の地である天を目指して歩みます。
そして、救われた証としてバプテスマを受けるのです。
なんと、聖書は美しく調和していることでしょうか。
聖書には矛盾がなく、さらにいろんな箇所が組み合わさっています。
これは人間にはできないことです。しかもこれらはすべて歴史的な事実です。
このように、聖書は繰り返されるパターンを示しています。
そのような読みかたをミドラッシュというのです。
イスラエルに起こったことは私たちにも起こります。
『昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。
それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。』ローマ15:4
こう書かれている通りです。
イスラエルの民は確かに救われました。
エジプト出る際に、子羊をほふって家の門柱やかもいにその血を塗りつけました。
それはイエス・キリストの十字架の象徴です。(門柱とかもいはクロスしているでしょうから
民は十字に塗ったこともありえます)
そして、海の底を歩いて渡り(バプテスマ)荒野に出ました。
彼らは幾度となく、エジプトに戻りたいと言いました。
なぜなら、そこには水、肉、たまねぎ、にら、にんにくなど、多くの物が食べれたからです。
それは、まさしく、私たちの肉の欲の象徴です。
救われて少し経つと、世が恋しくなり、未信者だったころは何も気にせずに罪を犯し、
肉欲の中に生き、義については自由に振舞っていました。(ローマ6:20)
しかし、その当時は罪の奴隷であったことを忘れているのです。
『その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。』ローマ6:21
それを絶えず求めた結果、神は裁きを持って教えるしかなかったのです。
神は異邦人の民よりも、イスラエルを愛していたから彼らを罰したのです。
そのように神は教会を懲らしめます。クリスチャンを懲らしめます。
神はイスラエルについてエレミヤにこう言いました。
『あなたが彼らにこれらのことをすべて語っても、彼らはあなたに聞かず、
彼らを呼んでも、彼らはあなたに答えまい。そこであなたは彼らに言え。
この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。
真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。』エレミヤ7:27-28
神さまは私たちが「神の国」と「神の義」を求めることを望んでいます。
私たちは教会で「神の義」という言葉をいつ聴いたでしょうか。
いつ生活の中でそれを意識したでしょうか。
いつも求めているでしょうか。
『主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。』詩篇23:3
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