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「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」(第二コリント5:7)。
「事実」と「信仰」と「経験」の三者が、城壁の上を歩いていたというたとえ話を、ご存知の方もあるでしょう。
「事実」は城壁の上を、右も左も見ず、また後を振り返らず、まっすぐに歩いていきました。「信仰」は
その後に従いましたが、彼が「事実」から目を離さないうちは、万事ことなく運びました。が一たん「経
験」が気になるや否や、それがどのようになっているか確かめようと振り向きました。すると「信仰」
は、均衡を失って城壁から落ちてしまいました。そして「経験」もその後を追って落ちた、というので
す。
すべての誘惑は、原則的に見て、自己の内を見ることにあります。すなわち主から目を離して、外観を気
にすることです。信仰は絶えず山に直面しているのです。その山とは、神の御言葉と矛盾する証拠の山で
あり、知覚世界の事実の領域において明らかに矛盾と思える山−感情あるいは想像の世界同様、行為の世
界における失敗という山です。そこでこの山か、あるいは信仰かのいずれかが去らねばなりません。両者
は並び立つことができないのです。しかし、問題は多くの場合信仰が去り、山がとどまるところから生じ
ます。そうであってはならないのです。私たちが真理を発見するために感覚に根拠を求めるとすれば、私
たちの経験は、サタンの偽りにあやつられていることをしばしば発見するでしょう。しかし、もし御言葉
に矛盾するものを絶対に受け入れず、神のみを仰ぐ信仰を維持しようとの態度を持続すれば、サタンの偽
りは消え始め、一方私たちの経験は次第に御言葉と一致するようになることを発見するでしょう。
『キリスト者の標準』 ウォッチマン・ニー著 いのちのことば社
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