|
『それから、主はモーセとアロンに告げて仰せられた。
「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。』レビ11:1-2
この後に具体的に旧約時代のイスラエルが食べてはいけないものと、食べてよいものが列挙されています。
私たちはこのような箇所を読むときに、非常な困難を覚えます。それはなぜこのような箇所があるかが分からないからです。
それは旧約聖書全体にも言えることではないでしょうか。
もうひとつ私たちが旧約聖書を読むことから離れてしまっている原因は、それが直接自分には関係が無いと思ってしまうからです。
しかし、ユダヤ人の聖書の読み方をすれば聖書の難解な箇所は、多く解決します。
それはミドラッシュという読み方です。
そして、聖書は神によって書かれた書物であるために、私たちに今も語りかけます。
決して時代遅れの書物ではないのです。まず、聖書は神の書ということを再確認しましょう。
では、このレビ11章の食べ物に関しての規定は何を示しているのでしょうか。
第一に、それは実際的な問題です。イスラエルのような気候条件では、貝などを食べることは非常に危険でした。
死体に触れることも病気を移されないために必要なことでした。(レビ11:8)
しかし次に、ユダヤ的な読み方をすると、食べることは信じることと関係があります。
『その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。
すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。
しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。』使徒10:9-17
この箇所がしめしているとおり、ペテロはユダヤ人が食べてはならないと言われていた生き物が、敷布にのって降りてくるという幻を見ました。
その後に異邦人がキリストを受け入れたのです。
『彼らにこう言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。』
この地上のあらゆる種類の生き物は異邦人を示していたのです。
彼らを受け入れることです。
受け入れることは食べることなのです。
イエスはスロ・フェニキア生まれのギリシア人に向かって、
『「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」』 と言いました。
ユダヤ人の娘がギリシア人の娘より優っているということでしょうか?
いやそうではありません、小犬といったのは彼らが犬にしかふさわしくない物を食べていたからです。
それは実際の食べ物ではなくて、何でも信じていたということです。
分別がなく何でも食べる犬のように、彼らは何でも信じていたということです。
食べることは信じることです。
『あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。』ヘブル5:12-14
この箇所では、年数に伴わず成長していないクリスチャンについて語っています。
幼子には乳は必要不可欠です。しかし、5歳くらいにもなってそればかりしか飲んでいなければ、適切に成長しません。
クリスチャンも同じで、基本的な教理を理解したら、進まなくてはならないと聖書はおしえています。
食べることは教えを自分のものとすることです。
『見よ。その日が来る。――神である主の御告げ――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。
彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。』アモス8:11-12
終わりの日に人は主の言葉を聞くことのききんに陥ると聖書は教えています。
そのとき人(クリスチャンも)は何でも食べようとします。
何でも信じます。主の言葉を求めて多くの集会へ足を運びますが、そこにはありません。
そのようになる前に熱心に聖書を学びましょう。
つづく
|