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聖書の中には「私のいのちを取ってください」と神さまに願った人が多くいます。
ふたりあげると、
預言者ヨナ。彼は自分が神さまに語れといわれたことを語るのを恐れ、
船で遠くに逃れようとしました。しかし、天と地とを創った神からは逃げられるはずもなく、
結局は、その最初に行くはずであったニネベで罪の悔い改めを説きました。
そうしたら、そこの人々は一日で悔い改めました。
その後に「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」 と言ったのです。
それは自分が偉業をなしたのではないことを知ったからでした。
一度逃げて、神さまによって連れ帰されたところで自分は少しも偉大ではないことを知ったからです。
もう一人は預言者エリヤ。彼はアハブという堕落した王の前で、奇跡をなし、
偶像(バアル)に仕える者たちを捕らえて殺しました。自分は偉大なわざを成し遂げたと彼は思いました。
しかし、彼はその直後、アハブの妻であるイザベルがこう言うのを聞きます。
「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」
それを聞いたエリヤは荒野へと遠く逃げます。そして、エニシダという木の下に座りこう言うのです。
「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」1列王19:4
どちらも興味深いのですが、今日はエリヤについて見ていきましょう。
彼はそのように「死にたい」と神さまに言いながらも、木の陰に座っていました。
イスラエルの荒野は非常に気温が上がります。ある人は荒野に日中に居れば体内から1リットル以上の水が、
一時間で無くなるそうです。
そんな状況ですから、エリヤは本当に死にたければ、その木の陰から一歩外に出れば簡単に死ぬことが出来たのです。
しかし、エリヤはそうしませんでした。自己矛盾を犯しているのです。
自分はすごいという状態から気が抜けたときに、「殺すぞ」と言われたことで、
このような死にたくなったエリヤはほんとうには死ぬことができませんでした。
それは心のどこかで、「生きたい」「救われたい」と思っていたからではないでしょうか。
それを表には出しませんが、その行動から明らかです。
「死にたい」と思っている人も本当は今死ぬことが本当の解決ではないと知っているのではないのでしょうか。
エリヤは独り言を言ったのではなく、神さまに向かって「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。」と言いました。
あなたは神さまがどんな方か知っているでしょうか。
私たちを創った方です。私たちに心を与え、その中に律法(道徳)を書かれたかたです。
過去に背いてもなお、今叫べば必ず救ってくださるかたです。
エリヤもそれを知っていたでしょう。その方に向かって叫んだのです。
私たちは救いを求めるときにも、求める相手が間違っています。
やがて消える人間に救いを求めても救われません。
偶像の神に求めても、彼らは目があっても見えず、口があってもしゃべれませんから、何もできません。
彼らは運んでもらわないと、自分では動くことすらできないのですから!
聖書の神に向かって叫んでください。イエス・キリストを救い主として送ってくださった方に対して祈ってください。
唯一の神に信頼して叫べば、決して無視はされません。
神はエリヤに対してどのように答えたのでしょうか。
『彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。
彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。』1列王19:5-7
御使いを送ってパンと水を与えたのです!
神さまはあなたの体に必要な物を与えられるでしょう。
しかし、それは霊的な食べ物でもあります。
聖書はパンをイエスの象徴と教えています。彼は自分を「いのちのパン」と呼びました。
神さまはそのひとり子を、世を愛したために、世の罪を負わせて十字架に掛けました。
いのちのパンはその体を裂かれたのです。私たちはイエス・キリストの言ったこと・教えたことを信じます。
信じることは食べることと同じことです。
『イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』ヨハネ6:35
水とは聖書では聖霊の象徴です。
神さまは求める者に聖霊をお与えになります。
『だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」』ルカ11:10-13
聖霊は私たちに罪に関して、義に関して、裁きに関してを教えます。
『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』ヨハネ16:8
そして、神と交われるようにします。イエスキリストを通して、聖霊によって神さまとまじわるのです。
パンと水を与えられてエリヤはどうしたのでしょうか。
彼は神の山ホレブへと行きました。それはモーセが十戒を授かったところです。
いわば原点に帰ったのです。
自分はなぜ神さまに信頼を置いたのか、なぜ従おうと決意したのか。
言い換えると、なぜ神さまが必要かということを再確認するためであったともいえるでしょう。
あなたは神さまを必要としましたか?
もし、必要としていなかったなら、今求めてください。
必要ではないと言いきれますか?神さまは多くの場面を通してあなたが弱く、罪深いということを示していませんでしたか?
それにこのブログを読んでいる時点で、少しは神さまを必要としているということです。(なぜなら聖書のことしか書かないからです。)
過去に必要だとおもったのなら、なぜ今は必要ではないのですか?
あなたは陶器のように造られたのに、陶器師が必要ではなくなったのですか?
全能になったからですか?もちろんそのようなことはありえないことです。
あなたの心には良心という神さまによって書かれた律法があります。
それが神さまに造られたという証拠ではありませんか。
殺してはならない。盗んではならない。欺いてはならない。姦淫(浮気など)をしてはならない。
すべてこころに書かれていませんか?
エリヤも原点に帰ったことでしょう。
そこで彼は神さまに訴えました。
『エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」』1列王19:14
神さまは何と答えたでしょう。
『主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。
また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。
ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。
しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」 』1列王19:15-18
悪い王を王座から下ろし罰するといわれたのです。そして、あなたは一人ではない。七千人の偶像に仕えなかった者がいると。
神さまは原点に帰った者には正義を与えます。そして協力者を与えます。
しかし、自分の罪の悔い改めがはじめになくてはなりません。
律法を知れば知るほど、自分は神さまにふさわしくないことが分かります。
そして、へりくだった者には神さまはこのようにされるのです。
「私のいのちを取ってください」と言っているあなた!
真に生きることとはキリストとともに自分も十字架にかかって死んだと認めることです。
あなたはすでにキリストと一緒に死んだのですから。
神に向かって生きようではありませんか!
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