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ここでは僕が読んだ本の中でおすすめの本を紹介していきます。
まずはじめは、「The faith which over comes」です。この本は1875年にアメリカの有名な伝道者、
D・L・ムーディーによって書かれました。
僕はたまたま大学の図書館にそれを見つけたので、その130年前くらいの古い本を読みました。
(本って古くなるとポキッと折れるんですよね)
D・L・ムーディーについては以下のサイトで彼の回心の様子が書かれています。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/kidakei/Moody.txt
この本はそのタイトルにあるように「乗り越える、打ち勝つ信仰」ということを扱っています。
その中で多くのことが書かれてあるのですが、ここでは個人的に印象に残った箇所を引用します。
p.44 Results of True Repentance
‘イエス・キリストが世に来たことによって、以前にはなかった罪が起こりうるようになった。光は暗闇を明らかにする;黒さという自覚を与えるためには白さを必要とする。中央アフリカには、白人の顔を見るまで自分たちが黒いということを全く想像したことのない黒人がいる。そして、この世には清さに満ちたイエスキリストの顔を見るまで、自分たちが罪深いということを全く想像したことのない大勢の人がいる。
“イエスキリストは今、私たちと律法の間に立っていて、私たちのために律法を成就した。彼は律法のすべての要求を解決し、今私たちに対するどのような要求でも彼が担っている。なので、私たちが直面しているのは、もはや罪(sin)の問題ではなくて、御子(Son)の問題なのだ。それゆえ、聖霊が遣わされた後最初にペテロが説教し始めたのはキリストに関してであった。‘あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。’他の種類の罪に関しては一言も言われていない。これがペテロの教えの中に繰り返されている罪である。そして、彼が説教したときには聖霊が彼らに罪の自覚を与え、それゆえ彼らは ‘私たちが救われるためには何をすればいいのでしょうか?’と叫んだのであった。
「でも、私たちはキリストを十字架につけるのに加担していない。;なので私たちの罪は一体何なのですか?」(とあなたたちは言うかもしれない)それは違った形の同じ罪である。彼らはキリストを十字架につけたために罪を悟った。私たちはキリストが十字架につけられたのを信じないので罪を悟るのである。彼らは神の御子を軽蔑し、退けたので罪を悟った。私たちは軽蔑され、退けられた神の御子を信じないために聖霊によって罪を悟らされる。これは本当はどちらの場合も−キリストを信じない罪−という同じ罪なのである。
私たちのこの時代に救われていない人たちが第一にすべきことは、イエスキリストのきよさを知ることだと彼は言っています。
そうです。イエスキリストはそのきよさゆえに、私たちの罪をないがしろにすることができず、
この世の罪を赦すために十字架に自分からかかったのです。
イエスキリストが自分の罪のために死んだということがはっきりと分からない人、自分が神のひとり子が死ななければならないほどどうしようもない罪人であることの自覚がない人、
どうぞあなたを救おうと待っておられる神にたずねてみてください。
「わたしはそんなに悪いのですか?」
「どうか真実を教えてください」と
すべての人を憐れもうと待っておられる神は、すぐに教えてくださいます。
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