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聖書にはよく衣が出てきます。最初に出てくる箇所は創世記の3章21節です。
『神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。』
これはアダムとエバが罪を犯して、目が開かれ自分たちが裸だと気づき、腰にいちじくの葉で覆いをつくりました。
それを十分だとしなかった神が皮の衣を二人に着せてくださったのです。
皮の衣を作るためにはなんらかの動物を殺さなければいけません。
これが、最初の動物の死です。人間の罪のために犠牲の血が流されたのです。
このことは何を教えているのでしょうか。
人は罪が露にされた状態(裸)でいるのを見て、神自身が自分の手で作った動物を犠牲にして罪を覆ったのです。
このように神は自分の義を人間に着せるのです。
衣が聖書に出てくるときはいつも『義』を示しています。
他の箇所も見てみましょう。
『すると、ダビデは自分の衣をつかんで裂いた。そこにいた家来たちもみな、そのようにした。』2サムエル1:11
聖書の中に出てくる人はよく自分の衣を裂きました。それは「義が破られた」ということを表わしています。言い換えると「不義がなされた」ということです。
『踏みにじられた女よ。あなたが緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたてても、それが何の役に立とう。目を塗って大きく見せても、美しく見せても、かいがない。恋人たちは、あなたをうとみ、あなたのいのちを取ろうとしている。
』エレミヤ4:30
これはシオンの娘、神に反抗して歩むイスラエル民族のことを言っています。
自分を良く見せようと、緋の衣や金の衣のような高価な衣をまとっても役に立たないと神は言うのです。
それはたとえば、イスラエルの宗教的な善行、偽りの義の行為です。
神は悔い改めて、神に立ち返ることを望むのに、人はよく自分の犯した罪を自分の努力によって拭おうとします。
そして偽善的な人にイエスはこう言いました。
『「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。
』ルカ20:46
『しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。
』 黙示録3:4−5
サルデスの教会の人には白い衣を着せると神は言いました。
世の終わりに
『花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」』 黙示録19:8
この花嫁とは教会のことです。
『その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
』黙示録7:9
『…「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
』黙示録7:14b
私たちはやがて来る患難から抜け出るには、自分の衣をイエスの血で洗って白くしなければならないのです。
それはイエスの身代わりの死、犠牲の死が自分の罪ためであったと信じることです。
そのイエスの血によってのみ私たちは洗われ、神さまの目からみて義となるのです。
それはもはや自分の善い行いではありません。
神の一方的な恵みです。
あなたもイエスの血によって神にきよい衣をきせてもらいましょう。
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