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ヨハネ3章3節に注目してもらいたいと思います。『イエスは答えて言われた。「まことに、まこと
に、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」』ローマ3章
を見ると、人が新しく生まれることは間違いなく必要だということが分かります。ローマ人への手紙3章
を読むと、生まれつきの人はどのようであるかを理解します。神さまがどのような方であるかを知りたい
なら、ヨハネ3章を見てください。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛され
た。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』そうで
す。人がどのようにしていのちを失ったかを知るには、ローマ3章を読んでください。そして、ヨハネ3
章を読んでみましょう。あなたの中におられる神の御霊と祈りながら読むと、人がどうやって永遠のいの
ちを再び得るかを理解することでしょう。私はこの箇所ほど、よりキリスト者の精神をもって、深く読む
べき箇所を知りません。とても単純で納得のいく箇所だからです。今夜、自分のためにある、神さまの愛
を知りたい人が多くいるのなら、ヨハネ3章を読みましょう。そうするなら、その愛と永遠のいのちを発
見します。永遠のいのちを見つけるために、今夜この集会場から出て行く必要はありません。この章でそ
れを見つけ、この礼拝が終わる前に永遠のいのちを見出します。今夜、たましいの救いの道が開かれてい
ることを、その人たちは聞くでしょう。そうです、この新生というテーマほど大切なものを私は知りませ
ん。わたしは聖書の中にこれほど重要で、これほど明らかなものを知らないのです。しかし、これは教会
と世とが、どちらも理解していない問題なのです。教会と世がこの新生という問題にあたふたすること
は、間違いありません。ある人があらゆる話題に関しても精通していても、この新生という単純な話題に
は精通していないことを気づくでしょう。これはまさに、私たちの希望、私たちの宗教にとっての基礎な
のです。御言葉を読み進めるより、まず神さまの助けによってこの問題を十分に理解することは、はるか
に優れていることです。これは厳粛な質問です。「わたしは御霊によって生まれているのか?」「わたし
は新しく生まれたのだろうか?」あなたは、『人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできま
せん。』ということを知っているのです。
これから、何が新生ではないかを言いましょう。それは教会に行くことではありません。わたしは人に
会うとよく、彼らがクリスチャンかどうかを聞きます。「はい、もちろんそうです。少なくとも、わたし
はそう思っています。日曜日いつも教会に行っているからです
。」なぜですか、わたしは言うことが出来ます。まさしく悪魔は、毎週教会に行っていて、誰も彼のよう
に欠かさず教会に行く人はいないのです。もし、暗い路地のような町の外れであなたの出来る限りのよい
こと−神さまのことばを説教し、見捨てられた者に神さまの愛を示すことなどをしても−それは新生では
ないとわたしは言います。いいえ、それは違います!道端で神さまの種を蒔くによって新生を得るという
のは、間違った考えです。もし、教会に行くことが新生することなら−サタン自身にも希望があるので
す。しかし、悪魔は教会に最初に入っていき、最後に出ていくのです。そのようでない教会はありませ
ん。言っておきますが、彼のような常連はいないのです。しかし、それでも、もう一つの種類のクリスチ
ャンがいます。クリスチャンであると、思っているだけなのかもしれませんが。彼らは言います。「わた
しは正しいことをしようとしています。わたしはクリスチャンではないのですか。」いいえ、違います。
新しく生まれていることと、それが何の関係があるのでしょうか?そしてまた、もう一つの種類の人がい
ます。心を入れ替えることによって新生したと考える人です。いいえ、決意を新たにすることは新しく生
まれることではありません。それは何の役にも立ちません。
洗礼を受けたことも訳には立たないでしょう。しかし、「なぜですか?洗礼を受けたのですよ。洗礼を
受けたときに新しく生まれたのです。」と言う人がいます。彼らは教会に対して洗礼を受けたのだから、
神の国に対して洗礼を受けたと考えるのです。言っておきますが、それは全く不可能なことなのです。あ
なたは目に見える教会に対して洗礼を受けるかもしれませんが、神の子に対して洗礼を受けていないかも
しれません。洗礼はそれ自身正しいのです。わたしがそれに反対して何かを言うことは出来ません。しか
し、もし洗礼を新生−新しく生まれること−と置き換えるなら、それはとんでもない間違いです。神の国
に対して洗礼を受けることは出来ません。もし、わたしが洗礼を授けることによって人を神の国に導ける
なら、説教することより、わたしにとってより良いのです。水が入ったバケツを持って行き、通りを進
み、人を救えばいいのですから。もし、人が起きている間にそれを許さなければ、彼らが寝ている間にそ
れをしましょう。どうにかしてでも、わたしはそうするでしょう。『人は、新しく生まれなければ、神の
国を見ることはできません。』とあるからです。今夜、ここにいる人の誰でも、他の何かに期待を置いて
いるなら−ほかのどの土台にでも−わたしは神さまがそれを吹き飛ばしてくださるように、祈ります。あ
なたは教会に対して洗礼を受けていますが、キリストの弟子ではないかもしれません。わたしは言います
が、その基礎に信頼を置いてはいけません。またある人は、「わたしは正餐式に行っています。わたしは
一様に正餐にあずかっています。」祝福された儀式です!イエスはそれをするごとに、彼の死を祝いなさ
いと言いました。しかし、それは新しく生まれることではありません。それは死からいのちへと移ること
ではありません。とても明らかに、はっきりと言われているので、間違えることはありません。新しく生
まれなければ、神の国を見ることはできないのです。正餐と何の関係があるのでしょうか?洗礼と新しく
生まれることに何の関係があるのでしょうか?教会に行くことと新しく生まれることに、何の関係がある
のでしょうか?しかし、また違う人が来て言います。「わたしは規則的に祈っています。」しかし、それ
も新しく生まれることではないと、言っておきましょう。それは霊によって生まれることではないので
す。
→つづく
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