だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

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「あなたは見られていますよ」

といきなり言われれば、みなさんは何を想像するでしょうか?

隠しカメラ?誰かに覗かれてる?
何にしてもいい気はしないでしょう。

しかし、なぜいい気がしないのでしょうか?
自分の生活で、何も見られて悪いものが無いのなら、別に嫌がる必要もないでしょう。

聖書には次のような箇所があります。

『わたしは近くにいれば、神なのか。――主の御告げ――遠くにいれば、神ではないのか。
人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。――主の御告げ――天にも地にも、わたしは満ちているではないか。――主の御告げ―― 』

わたしは、この箇所を見たときにとても驚き、苦い気持ちになりました。

なぜなら、わたしはいつも神さまに見られていたからです。
自分が人の見ていないところでした、多くの悪事を思い出しました。

わたしは、人生の中で物を盗むことはしたことが無いと考えていました。
しかし、詳細に思い出してみるとそうではなかったのです。


中学生のころ、わたしがはまっていたのは、自販機のお釣り入れに誰かが忘れたお金が
残っていないか見ることでした。
ときには、百円も残っていたり、三百円も残っていたりするからです。
今思えば、自分のお金ではないのに「ひそかに」自分の物にするのは盗みでした。
しかし、それはまだ小さいことでした。
ある日、友だちと中学校からいつもの道を帰っていると、その友だちはあるものを見つけて言いました。
「あっ、あれ見てみぃや」
その指ししめす方向を見ると、自販機のお釣り入れの中にあろうことか
五百円が三枚も入っていたのです!
これを見たとき、「おっすごい!こんなん初めてだラッキー!!」
と思いましたが、様子がいつもと違いました。
その自販機はおそらく中身を補充している途中で、半分開いていたのです。
駄菓子屋みたいな店の前にあったので、そこの人が作業している途中だったのです。
「あれ、これはとってもいいのかな」と一瞬思いました。
今から考えてみると、中を開けて何かの操作をすればお釣り入れから、硬貨が出てきそうなのは明らかです。
しかし、その時は友だちの「急げ、今だ!」という声に押され、
その三枚の五百円玉を握り締めて、ふたりで走りました。

そうです、わたしは盗みを犯したのです!言い逃れは出来ません!

後に残ったのは罪悪感だけでした。ふたりいたのに三枚でしたから、自分が一枚取り
苦い罪悪感を抱いていた僕は、二枚を友だちにあげました。と言っても自分の物ではありませんが。

この様子を神さまもしっかりと見ていたことでしょう。


「ああ〜、神さまがいるなら何て言い逃れをしたら良いんだ…」


自分のしたことを思い出した時に、そういうことばっかりを考えていました。

「神さまに裁かれても言い逃れはできないぞ」

それはとても確かなことでした。

その一事だけではありませんが、聖書を読んでいるうちに多く自分のを見せられ、
自分が罪人であること、裁かれるべきであることを認めました。


『悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。』ヨハネ3:20

そうです!何も悪いことをしていないのなら、走って逃げる必要は無かったのですから!
私は光から逃げたのです!

自分がどうしようもないことが分かり、それから落ち込んでいたのを覚えています。

「いつ、神さまは裁かれるのだろうか」

自分には希望は無かったのですが、

しかし、聖書のうちに、神さまのうちには希望があったのです!


『すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」』ヨハネ6:28−29

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。』ローマ10:9


わたしはイエス・キリストが救ってくださると信じました!
そして、彼はわたしの行った罪を全て赦してくださったのです!
新しい心を与えられました!善を行いたいと思う心です!罪を行いたくないと思う心です!


神さまによって、自分の罪深さがはっきりしてから、いつ神さまに滅ぼされていてもおかしくは、なかったんだなと思いました。

今は、はっきりと世に向かって言うことが出来ます。
世が裁かれても、神さまに対して何も言うことは出来ないからです!

『しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」』黙示録21:8

神さまは正しい神です。なぜなら、彼が創造主だからです。創造主がいるということはその被造物から、明らかです。私たちに言い訳はできません。
そして、聖書を信じるように神さまは、多くの預言を与えてくれました。イエスのことは旧約聖書から詳細に預言されていました。これは神さまじゃないと出来ないことです!



今、このときに神さまを信じましょう!今日は恵みの日です!
神さまはあなたを今も見ています!それは彼を仰ぎ見て、あなたが救われるためです!

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 それはとても厳粛な質問なので、わたしたちの前に上ってきて、皆が自分自身に対して、熱心に、誠実

に尋ねさせます。「わたしは新しく生まれただろうか?霊によって生まれたのだろうか?わたしは死から

いのちに移っただろうか?」さて、またある人はこれらの集会は特定の人に対しては、とても良いと言い

ます。それは、大酒のみ、ばくち打ち、または凶悪な者などを連れて来れたなら、とても良いと言ってい



のです。−もちろんそれはとても良いでしょう。回心しなければならないある人は言います。「キリスト

は誰に対してそう言ったのですか?ニコデモ?彼は大酒のみ、とばく打ちや盗人だったのですか?」彼は

エルサレムの中でも、もっとも尊敬された人の一人でした。間違いありません。彼は誉れある指導者でし

た。最高議会に属していたのです。とても高い地位があり、国の内でも最も立派な人でした。そして正統

派であり、信頼できる人だったのです。もし、彼が今日生きていたなら、わたしたちの大学の学長になっ

たことでしょう。そして、一気に神学校に入り、名前の前に「氏」が付けられ、神学博士のニコデモ氏、

さらには法学博士と呼ばれたことでしょう。しかし、キリストは彼に何と言いましたか?『人は、新しく

生まれなければ、神の国を見ることはできません。』同じようにキリストはヨハネ4章の中の女にも言い

ました。8節において、パリサイ人が彼に話しているとき、自己義認の実例を見ることができます。です

が、現在においても自分の功績、自分の偉大さに頼っているパリサイ人たちがいるのです。彼らはあなた

に向かってこう言います。「そうですね、このような集会は見捨てられた者、落ちこぼれや不幸な人には

もってこいだ。不道徳な者にはとても良い。しかし、わたしたちは品行方正だ。道徳的ではない者に言っ

てくれたまえ。」彼らはイエスが「あなたは新しく生まれなければならない」と言ったときに、彼らでは

なく、誰かが新しく生まれる必要があると考えているようです。愛された者、ヨハネが道を歩いていると

きに、彼に「わたしはあなたの主に昨夜会いましたよ。−彼に会いに行ったのです。」と言うと、「彼を

どう思いますか?」とヨハネは答えるでしょう。彼の友が答えて、「彼のような人に会ったことが無く、

あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。それからずっと彼の話したことが耳にこだま

しているのです。彼はわたしに、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。そ

れは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためであると言いました。」

「ヨハネ、あなたの主はいつもそのように話すのですか?」「はい、主はいつもそのように話します。」

その人は彼に会ったことを決して忘れないでしょう。キリストが暗闇から彼を見つけ出したのです。彼は

正しい道に導かれました。彼はその道を歩み続け、イエスのためにしないことは何もなくなるのです。ニ

コデモはどうでしょうか。彼はアリマタヤのヨセフと共に、イエスの体を降ろして運びイエスと最後まで

共にいました。わたしはこの人のように、イエスと一緒にいなかった人で、個人的な対面をした人を知り

ません。さあ、あなたも彼と対面するために、探し、従うことを決心しましょう。なぜなら、彼のように

輝いた者はいないからです。彼こそすべての人が必要とする人なのです。

 しかし、誰かはこう言うでしょう。「それが新生するということなら、わたしに何が出来るのでしょう

か?いのちを生み出すことは出来ません。自分自身を救うことは無理でしょう。」あなたは絶対に出来ま

せん。わたしたちはそう伝えはしません。人は自分を改善しようとしますが、キリスト無しにそれをする

ことは不可能です。それはアダムの性質に継ぎはぎをしているようなものです。そこには新しい創造が無

くてはならないのです。新生とは新しい創造です。もし新しい創造ならそれは神さまのわざです。創世記

の1章には人は登場しません。神さまの他に誰もいなかったのです。人はそこに加わって、手伝うことも

していませんでした。地を造られたときも神さまだけでした。この世を贖われたときも神さまおひとりで

した。『肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』クシュ人はその皮膚を、

ひょうはその斑点を変えることはできないのです。わたしがイギリスにいるとき、わたしのかわいい娘が

言いました。「パパ、なんであの色がついた人たちは洗って白くしないの?」同じように、あなたは神さ

まの助けなしに、自分を純粋で聖くしようとするかもしれません。それは黒人が肌を洗って白くできない

のと同じくらい難しいのです。クシュ人はその皮膚を、ひょうはその斑点を変えることはできないので

す。人は肉によって神さまに仕えようとします。それは月を飛び越えるのと同じようなことなのです。そ

れゆえ、肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊なのです。今、神さまはこの章で

どのようにして神の国に入るかを、教えています。救いは努力する価値がありますが、わたしたちは、そ

こに入るために道を切り開くのではありません。わたしたちはそれを認めます。道に川や山があれば、川

を泳ぎ、山に登る価値があるのです。救いはその価値があるのは認めますが、それを行いによって得るの

ではありません。彼に向かって努力するのではなく、彼に向かって信じるのです。わたしたちは救われて

いるから善を行います。救われるために善を行うことはしません。十字架に向かってではなく、十字架か

ら出発して善を行うのです。しかし次のように書かれています。『恐れおののいて自分の救いの達成に努

めなさい。』そうです、救いを達成する前に、救いは得ていなければならないのです。もし、わたしのか

わいい息子に「行ってあの園で働きなさい。」と言ったとすると、彼が働くためにはそれを与えなければ

なりません。そしてまた、「この100ドルを慎重に使っておくれ。」と言ったとするなら、「それを僕

に渡してくれたら、慎重に使うよ。」と言うでしょう。わたしが初めて家を出て、ボストンに行ったとき

のことを思い出します。お金を使い果たしてしまって、一日に3回郵便局に行きました。わたしは一日に

1回しか家から手紙が来ないことを知っていました。しかし、もしかしたら何かの偶然で、手紙があるか

もしれないと思っていたのです。ようやく、小さな妹から手紙を受取りました。ほんとうに嬉しかったの

です。彼女はボストンに多くのすりがいるということを聞いて、その手紙の大部分はすりに気を付けるよ

うにというものでした。やっと今、わたしはすられるような物をポケットに入れたのです。それと同じよ

うに、あなたが救いを達成するためには、救いを得ていなければなりません。



→つづく

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