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今日ちょっと大学の中で、ベンチに座っているとある人に話しかけられました。
その人は、人生の意味を問うようなゼミ(研究会)をやっているらしく
その参加者を増やそうと僕に話しかけてきました。
持っていた紙には次のような質問
「大学生の、八割はむなしさを感じているといわれていますが、なぜでしょうか?」
いきなり「これはどう思いますか?」と聞かれました。
しょっちゅうキャンパス内で、自分から話しかけるほうだった僕は
「おお〜これは面白い♪」って思って答えてました。
「やっぱり、サークルとかに入らないと人間関係が出来ないからじゃないですかね。
まぁ、人間関係の中で満足感を得られることもあるでしょうけど、人間関係って
ふとした事で悪くなったり、無くなったりするでしょう。」
と僕は言いました。
そして、いろいろその人の意見を聞いたり、いろいろしている内に
話題は、僕の入っているクリスチャンサークルの話に
「僕、実はクリスチャンなんですよ」
そう言うと、彼は
「僕もキリスト教を勉強したことあるんですが、矛盾が多くないですか?
「例えば、どんな矛盾ですか?」と聞いてみると
「キリスト教は神が全てを造ったというじゃないですか〜
すべての物に原因があるのなら、神さまは誰に造られたんですか?」
(おっこれは典型的な質問だぞっと思いながら)
「神さまは時間の外にいます。例えば聖書の箇所に神さまにとっては一日は千年のようであり、千年は一日のようだとあります。これが表しているのは、神さまは時間をも創造したので、(順序も)それに左右されることはありません。他の箇所にも、神さまの名は「わたしはある」という名です。何の原因もいらないんです。」
ふ〜ん、そうなんですか〜といった顔をしていました
「他の矛盾はありますか?」
「四川省の地震とか、自然災害ってひどいものじゃないですか、
神が愛で全知全能だとしたら、なぜそのようなものを起こすんですか?」
(おっこれも典型的で、前考えて勉強したことがある質問と思いながら)
「まず、神さまは人間を造って、それに選択する権利を与えました。善と悪を選ぶ権利です。
しかし、人間は悪を選びました。その罪は人間に影響するだけじゃなくて、世界にも「罪」が入ったというのです。それで、この世界は堕落したものとなりました。
人間の犯す罪、自分の犯す罪の悪さを考えたら、裁かれても何もいえないと思います。
なので、災害に会った人たちが特に罪深いというわけではないと聖書にもあります。」
こう答えました。
すると、またふむふむという感じ。
この質問の前に、僕は彼にこう言いました。
「聖書のいう真理は心をへりくだらせないと分かりませんよ」
聖書の論理をいくら伝えたって、そこに悔い改めが伴っていなかったらただの頭の体操になってしまう。
僕も、物事を論理的に考えたい人間だったので、彼の気持ちは分かります。
しかし、自分の知性を神として、それを崇めて、頼っている間は神さまを「心の目で見る」ことは難しいのではないでしょうか。
「神さま。私は罪人で何も分かりません!教えてください!」と求めないと
最後に彼と、1コリントの最初の方を読みました。
『「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。
それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。
この世の議論家はどこにいるのですか。
神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。
それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、
信じる者を救おうと定められたのです。
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、
キリストは神の力、神の知恵なのです。』1コリント1:18−24
おろかな十字架のメッセージを大事にしましょう!
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