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論理的になること
それは原因と結果を見つめる大切な作業。
また、きちんと現実と向き合うことでもある。
なぜそのことが起こるのか。なぜあのことは起こらないのか。
それを考えて、原因を突き詰めないと多くのことが不明瞭なままになってしまう。
まあ今さら言ってもみんな分かってる当たり前のこと。
でも、それが現実の世界でこの堕落した肉体で難しかったりする。
「分かってるんだけど、どうにもならない」こんなことって日常に溢れてる。
でも、そこで諦めていいのか。聖書を信じるクリスチャンはそこで諦めて良いのか。
神さまはものすごく論理的。
罪人はそのままでは裁かれるだけだけど、イエスさまを遣わしてくださって、私たちの罪のために十字架に付けてくださった。そのことを信じると救われる。
きちんとした論理。
そういえば、日ごろからよく考えていたことがあって、それは聖書で女性が教会のうちで公に教えることがなぜ聖書で禁じられているかということ。(どこの箇所か知りたかったらまた書きます)
それは3つの箇所に出てきて、はっきりとした教え。
それが何かを考えているうちにおぼろげに見えてきたことは、
男性のほうが論理的な思考をすることが多いということ。
それは女性がそうしないから悪いと言っているんじゃなく、ただ男性が論理的であるということ。
事実として多くの場合真実と言えると思う。
ではなぜ、教える(ギリシア語でディダスコ didasko)ことと論理的であることに関係があるのかというと、聖書の教理は事実に基づいているべきだから。
また、異端を忍び込ませないためにそれが必要だということも言える。
僕もしてしまうし、人がよくしてしまうことが感情によって、「そう感じる、思うから」という理由で聖書の教理を作り上げてしまう。それは一番避けないといけない。
聖書の教理は証明されなければならない。
文脈に合っていて、その他の箇所に矛盾していないことが大事。
もしそうしなかったら、簡単に教えは肉に支配され、サタンに支配され偽キリスト教になる。
まず私たちが見るべきことは手紙、そして使徒の働き。これが直接にクリスチャンに語られていること。
ある問題に直面したら手紙と使徒の働きがどう同じような問題を解決したかを見る。
また福音書を見るときには、イエスさまがなされたことも考える。(この時に忘れてはいけないのがイエスが十字架に掛かる前と後では状況が異なるということ)
その次に旧約聖書を見て、そこから引き出される象徴(ミドラッシュ)を参考にする。
これが特定の問題に突き当たったときにクリスチャンが取るべき手順じゃないかなと個人的に思う。
論理的であることは、原因と結果をきちんと結び合わせること。
それは聖書を教えるに当たって必要不可欠とされるもの。
「分かってるんだけど、どうしようもない」
という時にも神さまの側には私たちの分からない論理があって、
神さまには解決策がある。
それが聖書を読んで見つけることかもしれないし、読んでもいっこうに分からないことかもしれない。
しかし、「決して捨てない」と私たちに言ってくれた神さまはその約束を守ってくださる。
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