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このごろ何となく考えていたこと。律法主義。
結構クリスチャンの間ではよく使う言葉で、その言葉がひとり歩きしてるような感じがして。
聖書ではパリサイ人や律法学者などのユダヤ人が、律法主義に陥ってしまっていることがイエスの非難していたこと。
でも、現代において律法主義とは何かのか。
まず律法は
●イエスが成就するもの:『わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。』マタイ5:17
●決してすたれないもの:『まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。』
●モーセ五書のこと:『律法と預言者の朗読があって後、会堂の管理者たちが、彼らのところに人をやってこう言わせた。』使徒13:15
●人間の心の中に書かれているもの:『彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。』ローマ2:15
●罪の意識を生じさせるもの:『なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。』ローマ3:20
●良いもの:『ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。』ローマ7:12
●養育係:『こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。』ガラテヤ5:24
などなど…
律法は聖書の中でこのように書かれてるけど、
一般にクリスチャンの間で使われている律法主義の意味は
「聖書に書いてあるからこうしなければいけないって人を縛ること」
ではないでしょうか。
まず最初に、私たちクリスチャンは何の律法無しに生きる者ではないということ。
『私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが』1コリント9:21
このようにパウロは言っていて、クリスチャンはキリストの律法を守るということ。
じゃあ、どのようにしてキリストの律法が信者の生活に影響するのか?
皆経験することだと思うけど、一旦福音を知り、それを真実だと受け止め、信じ始めると生活が変わってくる。
以前何も感じずにしていたことが、なぜか無性に嫌になって出来なくなる。
僕は以前は、人から隠れたところなら陰口を言っても良いもんだと思い、思う存分悪口を言っていた。
また、カラオケに行って神さまを馬鹿にするような歌を歌い、格好つけていた。
しかし、福音を知ってから、それを信じてから、そういう風なことが出来なくなってきて、陰口も言わず、カラオケにも(カラオケ自体は悪くはないけど)行かなくなった。
周りの友達からは
「クリスチャンはカラオケ行ったらアカンの?」とか思われてたとおもう。
そして、自分の信じた福音も人に伝えたくなって、大学のキャンパス内や外に出て行って伝えていた。
外から見ると、クリスチャンになったらあんなことしなかんのかって思われてたかもしれない。
けど、そうしていたのは自分がそうせずにはいれず、そうするのが嬉しかったから。
しかし、まだ信仰に入って間もないクリスチャンがこういうのを聞いたり、伝道することを教えないクリスチャンが聞いたら、そんなことも「しないといけない」のかと思ってしまう。これが律法主義に陥ってしまっていると感じるのではないだろうか。
だからその人の良心が変えられるまでは、クリスチャンであっても強制しないほうが良い。
ひとそれぞれに良心の程度は違う。何が必要だと思うか。それは聖書を読んで、日々の歩みの中で成長させていくものだろうし。
もうひとつ別の間違った律法主義について。
パウロはそのローマ書の中で福音の全体像を明らかにするときに、まず人の罪を明らかにして律法の持つ働き、罪の意識を持たるようにした。
クリスチャンもそうする必要がある。それはいつもどこでもじゃなく、何も福音を知らない人に伝道するとき、律法を示してその人の抱えている罪を明らかにすること。パウロはその原則を明らかに示した。
もちろん、神さまの愛を語ることは大事。けど、神の愛を理解するために、その十字架の死が必要であるほどの自分たちの罪深さを知らないと、愛の本当の大きさも分からない。
聖書全体もそのようになっていて、まず創造主なる神、次にモーセの律法で示された義であって聖なる神。そのモーセの律法の元でイスラエルの民は、人間がどうしようもないことを知らしめた。神さまのあわれみが必要不可欠であるということを。
その後にイエスの十字架が来た。
だから福音を伝えるときもその順序で伝えるのが望ましいんじゃないだろうか。
今流行ってる福音は最初に「愛」。その特徴は自己を否定する必要の無い福音。
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。』イザヤ43:4
この箇所は直接にはイスラエルに対して語られた言葉。その直前には、
『わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。』43:3
とある。もちろんひいては教会のこと、またクリスチャン個人のことも意味されているでしょう。
神の目には、イスラエルは高価で尊い。これが最初の意味。だから私たちはイスラエルを大切にすべき。
ある教会では置換神学が教えられていて、旧約のイスラエルはもはや今のイスラエルではなくて、教会しか意味していないと教えられている。これは間違い。パウロがローマ書11章でしっかり伝えていることは、神とイスラエルとの契約は永遠のもの。
何もすべてが間違っているわけではないけど、入り口がそうじゃないと思います。
クリスチャンは聖書を読むとき、旧約聖書で示されている象徴を、新約聖書にある直接的な言葉に取って替えるべきじゃない。
『それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。』マルコ8:34-35
イエスは群衆に向かってもこの言葉を話された。
群衆はまだ弟子にはなっていない人たち。決心をし、信じていない人たち。
人間的に考えるとこんなこと言ったら、人は教会から出ていってしまうんじゃないかと思いますよね?
でも、イエスさまがそれを言い、「自分を捨て」と自己否定をはっきりと主張されたからには、私たちの福音の中身もそうでないといけないし、新約聖書の模範となるイエスや使徒たちの説教で、「愛」から話し始めた人はいないのではないでしょうか。(おそらく)
何も愛が悪いと言っているのではなくて、それが福音を伝えるときの方法として正しいのかということに、僕は疑問を持ちます。
だから、これが間違って律法主義と呼ばれるのも僕は分からないではないのですが、聖書のいたる所で神さまの義が最初に来るべきことは主張されています。
『なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』ローマ1:17
信者を励まし、愛によって建てあげることは本当に大事なこと。それは僕ももっと学ばないといけないなと個人的に思います。(僕にはやさしさが欠けているところが多そうなので)
今回はふたつの間違った律法主義と呼ばれるものについて書いてみました。まとまった考えでないかもしれませんが。
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