だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

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みことばなる光のうち

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『イスラエル人は彼らに言った。
「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、
私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。
事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」
主はモーセに仰せられた。
「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。
民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。
これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。』(出エジプト16:3−4)





これは出エジプトの最初のほうの出来事。


「あ〜今のような状況になるんだったら救われる前に死んでいたらよかった」


それがイスラエル人の言っていたことです。


何度もこのブログでも言ってきたことですが、エジプトは聖書の中でこの世の象徴です。

子羊の血をメズザー(門柱)に塗って、裁きを免れ、紅海を渡り(バプテスマの象徴)、そのときにパロとその軍隊が飲み込まれてもう見えなくなった。
私たちもイエスという子羊の血によって救われ、バプテスマを受け、イエスの死と復活と同じ状態になる。この世に対して死に過去は水の中に沈む。サタンの支配から神の支配へと移ります。


ということは、この箇所のイスラエル人のつぶやきは、わたちたちのつぶやくことと同じ。



「クリスチャンになって、神に恵まれると思っていたら困難ばかり。
人に嫌われるし、救われる人は出てきそうにない。
状況は悪くなる一方だし、こんなのだったら救われる前に死んでいたらよかったのに」


こう言いたくなったことはありませんか。僕は何度もあります。


ひとつ経験として言えるのが、自分の中にまだ古い性質が残っていると気付くとき。
そんなときに、「なんでこのような状態でまだ生きているのですか」と
つぶやいてしまいます。


そのようなときに神さまは何を用意してくれるか。


「わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする」


それはマナのこと。そしてみことばのこと。日ごとの糧。
イエス自身が天から下ってきたパンだと言われた。


みことばが食べ物として与えれる。


こんな経験はないでしょうか。


ずっと暗やみの中にいるような日々が続いて、何をしてもうまくいかない気がする。
親しい人も自分に敵対しているようになって、どんづまりの状況になる。

しかし、突然聖書を読んでいるとある箇所が心にぐさっと刺さって、
光を放つというか、心に直接啓示されるというか。このみことばは真実だと知らされる。

その後に問題の本質が分かって、徐々に解決策が示されていく。


これがみことばを食べたときに起こることではないでしょうか。


次の賛美歌が僕はとても好きです


   「みことばなる光のうち 
   主とともに歩まば
   ゆく道筋 照らしたまわん
   より頼むわれらに

   げに主は より頼み手
   従う者を 照らしたまわん」


みことばなる光。それが光を放つとき、真実が分かる。

救われたときもそう。これが真実だってことがはっきりと分かった。


でも、これはすべての人に起こることなのでしょうか。



聖書はそうなるためには必要なことがあると教えています。


『民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。』(16:4)


毎日、一日分を集めないといけない。


イスラエル人は外に出て、毎日一日分を集めないとマナを食べれませんでした。
それは宿営の中で待っていては食べれないということです。


私たちも日々必要なみことばを集めに聖書を開く必要があります。
聖書を開かなければ与えられるものは少ないでしょう。


毎日必要な分がある。そのことを聖書は示しています。

毎日の健康を保つためには、必要なものを食べる必要があります。


でも、人は飢きんが起こると何でも食べるようになってしまいます。


聖書を読まなくなると、聖書的なメッセージを嫌うようになると私たちは飢きんに陥ります。

アブラハムは飢きんのときエジプトに下り、ヤコブの子らも飢きんのときエジプトに下り、ルツ記でナオミはイスラエルの地を出て夫と子どもに先立たれました。

聖書の中での飢きんは、みことばの飢きんの象徴です。


『見よ。その日が来る。――神である主の御告げ――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。』(アモス8:11)


それはそうと、僕たちは約束の地に行くまで荒野にいる間に、エジプトで死んだほうがましだと思うことがあります。

けど、エジプトはどのような地であったかというと、私たちはパロ(サタン)のもとで奴隷になっていたものであり、パロのために(おそらくピラミッドを作るために)レンガを作っていました。


この事実は私たちに、あることを語りかけています。


本当に救われる前、クリスチャンになる前が救われた後より良いものだったのか。


何が良いことか悪いことか分からずに、眠っていた日々。
この世の流れに従って、不幸なことが起こってなぜか分からなかったころ。
絶対的な真理なんて無いと思っていたころ。
希望もなく、死んだ後はどうなるんだろうかと考えると不安になっていたとき。

救われる前、エジプトにいるときはそうじゃなかったですか??

僕自身はまさにそうでした。


だから、それを思い出すと絶対あの頃に戻りたくないと思う。


神さまはあなたがたはエジプトで奴隷であったことを思い出しなさいと語っています。



また、私たちがエジプトから救い出されたのは荒野でずっと放浪するためではなくて、約束の地、乳と蜜の流れる地に導き上るため。

ただ無駄に救いを与えたのではなくて、約束の地に行くために私たちは救われた。

そのことが聖書を読んでいてはっきりしてきました。

だから、神さまのことを信頼しないのは本当に悪いことなんだなって。


大きな約束を新約聖書でも僕たちは与えられてる。



だから大いに神さまに頼っていいんだと学ばされました。

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