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私たちクリスチャンは、良い教えと悪い教え、正しい人と正しくない人を判断すべきだと僕は考えます。 そして悪い教えから離れ、良い聖書的な教えに近づいていくことは、キリストに似ていくことではないでしょうか。 キリストはみことばであり、聖書はキリストそのものです。 今回、リクエストがあってある記事を訳しました。 預言者と言われているリック・ジョイナーさんのことです。 僕が訳したジェイコブの説教の中で彼は「にせ預言者」と呼ばれています。 僕自身、どのようなことをリック・ジョイナーが言っているか知らなかったので調べてみました。 するとおかしなことがたくさんあったので、報告します。 僕がこういうことをするのは、リック・ジョイナーが預言の奉仕から身を引くべきだと考えているからです。また、偽りの預言をする人からクリスチャンが離れてほしいからです。 聖書は偽りに引き込む指導者たちの名を記して、警戒しなさいと書きました。 だから、私たちも公に指導者として立てられている人が偽りに陥っているなら、公に警告すべきです。 なぜなら、そうしなかったら多くの人が偽りに引き込まれてしまうからです。 以下が訳したものです。 リック・ジョイナー 偽りの預言 『成熟した預言者を大きな危機に陥らせている、ひとつの間違った旧約聖書の解釈があります。それは預言者が予告したことが起こらなかったら、その人はもはや真実の預言者ではないというものです(申命記18章20節−22節参照)。この警告は、そのようなことが起こったならその預言者が思い上がっており、人々は彼を恐れるべきではないということでした。もし主の名によってなされたある預言が実現しないなら、その人は思い上がってそのように語ったのであって、それを悔い改める必要がありますが、にせ預言者となるわけではありません。ひとつの間違いがその人の人生を駄目にしてしまうのなら、神に与えられた召しに従って歩むという信仰に誰も踏み出すことはできないでしょう。』 (Rick Joyner, The Prophetic Ministry, Morning Star Prophetic Newsletter, Vol.3, No.2, p.2) 『ボブ(ジョーンズ)は、今の一般的な教会での預言の正確さは65パーセントだと言われました。あるところは10パーセントくらいで、とても数少ない成熟した預言者たちの預言の精度は85パーセントから95パーセントに達しているでしょう。預言は純粋さを増していますが、この奉仕を歩む者の前にはまだ長い道のりがあります。これは実は教会にとっては恵みでもあります。なぜならこの奉仕に100パーセントの正確さを要求してしまったなら、今はまだ未熟である教会が負えきれないようなレベルの責任を課してしまうからです。そうなると多くのアナニヤとサッピラを生んでしまうことになるでしょう。多くの(批判的な)預言のミニストリーが認識していないことは、哀れみと知恵を働かせることであって、そうすれば近い将来に来るであろう権威と力を扱うことができます。』 (Rick Joyner, The Prophetic Ministry, Morning Star Prophetic Newsletter, Vol.3, No.2, p.4) 聖書の教え リック・ジョイナーは今も偽りの預言の記録があり、非聖書的で正統的でない教え、聖書外からの啓示、預言したことに対して責任を取らないこと、その他多くのことから真実の預言者ではありません。神が語られたとき、神が語られたことならすべて実現します。しかし、誰かが預言したことが実現しなければ、それは神が語ったことではなく、それ語った人も神の預言者ではありません。預言は成熟していくものではなく、神の目的のために与えられる賜物です。聖書の中に実現しないことを預言した神の預言者はひとりとして存在しません。 『あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。』(申命記18章21節−22節) 『愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。』(1ヨハネ4章1節−3節) 『彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、』(2ペテロ2章18節) 『彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。あなたがたはむなしい幻を見、まやかしの占いをしていたではないか。わたしが語りもしないのに『主の御告げ』と言っている。それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。それゆえ今、わたしはあなたがたに立ち向かう。――神である主の御告げ――』(エゼキエル13章6節−8節) 『その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』』(マタイ7章22節−23節) |
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2009年03月10日
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'''『主はモーセに告げて仰せられた。 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。 あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。 あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのかこの岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」 これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。』(民数記20:7−13)''' この箇所についてluceさんがするどい指摘をしておられたので、僕もこの箇所について書いてみたいと思います。 モーセが約束の地に入れなかったのは、 「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった」から これが聖書にはっきりと書かれてあって、第一の理由です。 他の聖書箇所にはどう書いてあるでしょうか? 『彼らはさらにメリバの水のほとりで主を怒らせた。それで、モーセは彼らのためにわざわいをこうむった。彼らが主の心に逆らったとき、彼が軽率なことを口にしたからである。』(詩篇106:32-33) これも聖書が挙げている理由です。 「軽率なことを口にしたから」 軽率なこととは、『逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか』(民数記20:10)と言ったことです。 神が水を出してくださるのに、私たちがと言ってしまい、神を聖なるものとしませんでした。 そして、その言葉と伴って、岩を二度打つということをしてしまいました。 これはどういう意味なのでしょうか?? 聖書は聖書によって解釈すべきです。 『私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。』(1コリント10:1-4) パウロはその岩から水が出たことは、キリストから御霊が出てくることだと明らかにしています。 だから、この箇所を考慮に入れて考えるとモーセがその軽率な言葉とともに、岩を二度打ってしまったことは、 「わたしたちがキリストから御霊を出さなければならないのか」 と言っていたということでしょう。 しかも、二度打ったということは、一度打つだけでは水は出てこないと思ったからです。 「自分たち」+「自分たちが努力しないと御霊なる水は出てこない」 それがモーセのしてしまったことではないでしょうか。 ヨハネの福音書には次のようにあります 『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』(ヨハネ7:37−39) 栄光を受けるということはどのようなことなのでしょうか? 『ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。』(ヨハネ13:31) イエスが栄光を受けたのは、ユダに裏切られて十字架につけられることが定められたときです!! なので、これらの箇所を見てからモーセが岩を打った箇所に戻ると それはイエスが十字架にかけられて、それから御霊が注がれることではないでしょうか! だから、モーセがしてしまったこととは、十字架の完全さを信じず、神さまを聖なる者としなかったことと同じだといえます。 「この”キリスト”から私たちがあなたがたのために”御霊”を出さなければならないのか」 キリストを十字架につけて御霊を注がれたは神です。 そしてその十字架は一度で完全なもの。私たちが努力したり、改善する余地の無いものです。 モーセがしたことの第一の意味は、岩から水を出すこと。 それによって象徴されていたのは岩なるキリストから御霊を出すこと。 こう見てみたらモーセのしたことはその象徴だったってことがはっきりしませんか。 カトリックのミサで、「このパンはキリストご自身であり、ミサでのいけにえはカルバリと同じものである」という教えはまさに岩を二度打つことです。 十字架の完全性を否定して、自分の行いによって十字架を改善しようとすること。 あの一度だけの十字架では不十分だとしてしまうこと。 「私たちが御霊を出さなければならない」と主張することではないでしょうか。 二度打ったことは自分の努力によって、十字架を改善することはできないことです。 キリストは一度だけ十字架にかかり、私たちはそれにつけ加えることはありません。 キリストの十字架、人の罪を負った十字架の赦しは完全です。 『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。』(ヘブル10:14) 僕たちも自分の罪を悔い改めて、イエスの十字架にすがりついて生きていこうではありませんか! 永遠のいのちがそこにはあります。 『わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます』(ヨハネ4:14)
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