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このごろ考えていたことを書きたいと思います。 ちょうど良いたとえが思いつきました。 聖書の解釈は骨で、その適用は肉であるということ。 (どこかで誰かが言っていたことかもしれませんが) 聖書の解釈が基礎にあって、それをもとに適用を作っていく。 こう考えると、しっかりしたような骨組みである解釈がなければ、肉である適用は付けられないということじゃないでしょうか。 だから聖書の適用だけ、言い換えると現代の自分の生活だけに目を向けているだけでは聖書から離れてしまう危険性をはらんでいるということです。 なので、教会の礼拝でメッセージを聞くだけでは十分ではないのです。 メッセージはその話し手が聖書から導き出し、祈り、考えた結果、今の私たちに必要なことを話してくれています。しかし、その適用の部分だけに注目していると、いつまでたっても地中に根が張らないでしょう。 また、説教で紹介できる聖書箇所は限られていて、聖書全体を読むことはできないことを考えると、説教では一部分しか読むことができない。 もし、その一部分が文脈を外されて教えられていたら(これはサタンがイエスにしたことですが)、また自分の過去に読んだことの無い箇所が「この意味がある」とだけ教えられてその理由が示されていなかったなら、聞いている人の益にはなりません。 こういう理由から聖書全体を通読する必要っていうのが大きく分かります。 なぜなら、聖書は「文脈に力がある」からです。 人を通してみことばは語られることが多いですが、神さま自身、聖書自体からみことばをいただくことはどんなに重要なことでしょうか。 僕はよく「もし聖書全体を読んでいたらそんなことは言えないのに」と思うことがあります。 この世でお金持ちになることや、繁栄だけを教える教師たちがそうです。 いつもその人たちの目は自分たちに向いていますが、聖書は神に目を向けよと言っています。 話は戻りますが、では解釈とはどのようなもので 適用とはどのようなものなのでしょうか。 アダムとエバの例を挙げます。 彼らが善悪の知識の木の実を食べた後のことです。 『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』(創世記3:7) 神となろうとし、自分たちで善悪を決めようとしたアダムとエバは自分たちが裸であることが分かります。 聖書の中で「裸」とは何を表しているのでしょうか?? 聖書用語検索で「裸」という言葉を入れて検索してみると ●『カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。』(創世記9:22) ●『あなたは階段で、わたしの祭壇に上ってはならない。あなたの裸が、その上にあらわれてはならないからである。』(出エジプト20:16) ●『あなたの裸は現われ、あなたの恥もあらわになる。わたしは復讐をする。だれひとり容赦しない。』(イザヤ47:3) ●『あなたはわたしを捨てて、裸になり、寝床に上ってそれを広げ、彼らと契りを結び、彼らの寝床を愛し、その象徴物を見た』(イザヤ57:8) ●『わたしがエサウを裸にし、その隠し所をあらわにし、身を隠すこともできないようにするからだ。彼の子孫も兄弟も隣人も踏みにじられてひとりもいなくなる。』(エレミヤ49:10) ●『彼女の顔から姦淫を取り除き、その乳房の間から姦通を取り除け。そうでなければ、わたしは、彼女の着物をはいで裸にし、生まれた日のようにして彼女をさらし、彼女を荒野のようにし、砂漠のようにし、 渇きで彼女を死なせよう。』(ホセア2:3) ●『それゆえ、わたしは、その時になって、わたしの穀物を、その季節になって、わたしの新しいぶどう酒を取り戻し、また、彼女の裸をおおうためのわたしの羊毛と麻とをはぎ取ろう。』(ホセア2:9) このような箇所が出てきます。 これらの箇所を総合して考えると、裸は自分の罪があらわになった状態といえます。(これもそれぞれの箇所を読んだことがなければ見えてきませんが) だからアダムとエバが裸であることを分かったのは、自分の罪深さが分かったということです! 裸とは救いの衣を着ていないということです。 イエスが捕らえられたときに裸で逃げた人がいました。(マルコ14:52) それは迫害が起きたときに救いの衣を捨てて逃げる人の象徴です。 イザヤはこう書きました 『私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。』(イザヤ64:6) 次に彼らがしたのはいちじくの葉を腰の覆いとしたことです。 聖書でいちじくの葉はどのようなものでしょうか? イエスはエルサレムに向かっている途中にいちじくの木を枯らしました。 なぜなら、そこに葉しかなかったからです。 当時のイスラエル人たちはどのような状態だったでしょうか。 律法の行いを保ち、外側の行いはありましたが、彼らのうちに寛容や誠実、善意などの実はありませんでした(ガラテヤ5:22) また千年王国が来るとエルサレムの御座の下から川があふれ出し その両岸にはあらゆる果樹が生長するとあります。 『川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。』(エゼキエル47:12) 葉は薬となります。 聖書で葉とは善い行いです。中東では実を厳しい太陽から保つために葉が必要でした。 しかし、いくら良い葉でも実のように食べることはできません。 ミカ書では次のようにあります。 『ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。』(ミカ7:1) これがイエスの考えていたことです。「私の好きな初なりのいちじくの実もない」 なので、アダムとエバがしたことといえば、自分の罪深さが分かり、それを善い行いで隠したということです。 これが聖書全体から導き出された解釈です。(細かいところは議論の余地があると思いますが、大筋ははっきりとしたものだと思います) 適用とはそこから派生する、出てくるものであって、日常生活に即しているもの、私たちが犯しがちな罪とそれを隠そうとする実際の行為を指摘することではないでしょうか。 しかし、もし解釈をないがしろにして、適用を先に持ってきてしまうとどうなるのでしょうか。 例えば、「いちじくの葉とは仕事で、神さまから離れてしまった現代の人たちは仕事に希望を見出そうとして、それを生涯の目的としてしまう」 という人があったとします。 その人が解釈を伝えた後に、その適用としてこれを言う場合は良いでしょうが、これをいきなり言ってしまうと、それを聞いていた人は 「そうか、聖書の中で出てくる”葉”とは仕事や職業のことなのか」 と思ってしまうかもしれません。(これは極端な例ですが) だから、まず骨組みである解釈をきちんと理解したうえで、適用を聞いたり言ったりしないと、違う基礎の上に私たちは聖書の理解を置いてしまいます。 これを大したことではないと思うかもしれませんが、この解釈を抜きにした適用が今の教会で多く行われていることではないでしょうか。 しかもあまり聖書を読んでいない僕の年代の若い人たちは、適用を聞くだけで成長することはないと思います。 また同時に、礼拝の説教を聞いても、適用だけだからそれを聖書を読むときにどう活かしたら良いか分からない、そういうことが起こります。 これが大きな問題なのではないでしょうか。 僕は最初に聖書をひと通り読んでしまうまで、聖書について書いてある本を読みませんでした。 もし、読んだことの無い箇所の間違った解釈が出てきても、何も分からずに取り入れてしまうからです。 なので、聖書自体を知ってから良い信仰書を読むことは有益ですが、まず人に頼ると道を間違えてしまいます。 このこともあって、僕は聖書に書き込みをしません。 説教で言われたことであっても人の意見であって間違っているかもしれないし、 後でその箇所を読んだら、そこに書いた解釈しかできなくなる危険性があるからです。 私たちはきちんと反芻して、みことばによって正しいかどうかを吟味してから信じるべきです。 正確な解釈を神さま自身からいただくこと、神さまに対して忠実な奉仕者から教えてもらうことはとても大切なことです。
同時に現実の私たちの生活から遠く離れてしまわないことが、説教者には求められてくるでしょう。(これが僕の苦手なところです) |
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2009年03月11日
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リクエストがあったので、預言者について僕なりの意見をまとめたいと思います。 預言者について 預言者という言葉はヘブライ語ではナヴィー(נביא)、ギリシア語ではプロフェテース(προφήτης)です。 ユダヤ人は旧約聖書をタナクと呼びますが、それはトーラー(モーセ五書)、ネヴィーム(預言者の書)、ケトゥヴィーム(詩篇などの諸書)の頭文字を取った言葉です。 なので、ヘブライ語で預言者イザヤは、「イシャヤフー・ハ・ナヴィー」といったり、 預言者エレミヤ「イェレミヤフー・ハ・ナヴィー」といったりするようです。 まず、ヘブライ人の預言は私たちが考えるようなもの、「予告」と「成就」で成り立っているものではありません。(私たちは預言といえば将来この日にこれが起こるというものを想像するでしょう。もちろんそれも含まれていますが) ヘブライ人の預言の考え方は繰り返す歴史的なパターンです。 例えば反キリストの例を考えてみても、あるクリスチャンは反キリストとはネロであって、聖書の預言はそのことをさしていて、現代に関しては意味を持っていないといいます。 しかし、ネロは本当に聖書に書いてある条件を満たしたでしょうか? 世の終わりはすでに来て新しい世になったのでしょうか?(マタイ24:34-35) 羊と山羊が分けられるように、最後のさばきは行われたのでしょうか?(マタイ25:31−46) 世界の人の額か右手かに刻印を押して、それがなければ売ることも買うこともできなくしたでしょうか?(黙示録13:16-18) また、イエスはマタイ24:15でダニエル書から引用して、「荒らす憎むべき者」と言われました。 ダニエル書を見ると、ダニエルが直接語っていたのは、マカベア家が打倒したシリアの王アンティオコス・エピファネスという王だということがわかります(外典マカベア書に載っています、正典ではありませんが歴史的には正しいとユダヤ人は認めていました)。 彼はダニエル8:9-14にあるように、神殿のいけにえを廃止し、神殿の中で豚をささげ、偶像を建てました。 彼を打倒したのがマカベア家で、そのことを祝って「宮きよめの祭り」といって、ヘブライ語ではハヌカーと呼ばれる祭りが今も祝われています。イエスもそれを祝っていました。 なので、ダニエルが言っていた荒らす憎むべき者はすでに来ていたのに、イエスはその箇所をとってまたそのような者が現れると言いました。 このことを考えると預言は成就が必ずしも一度ではなく、複数の成就があるということが分かります。 実際、エジプトのパロ、エステル記のハマン、ネブカドネザル、アブシャロム、アンティオコス・エピファネス、ヘロデ王、ローマ皇帝ネロやその他の残虐な皇帝、ヒトラーなどはすべて反キリストを象徴しています。 そして彼らが預言の成就でもあります。 ヘブライ人の預言はパターン、そして個々の成就は最終的な成就(実際に現れるその反キリスト)について教えています。 これを考えた上で、旧約の預言者と新約の預言者の違いを考えてみたいと思います。 新約聖書でも預言者が登場しました。 女預言者のアンナ(ルカ2:36)、エルサレムから来た預言者たち(使徒11:27)、その中のアガボ(使徒11:28)、ユダやシラス(使徒15:32)などです。 これを考えると新約聖書の時代である現代も預言者がいてもおかしくないと思います。 でも、預言者の定義は次のように申命記に書いてあります。 『ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、 あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、 その預言者は死ななければならない。」
あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、
それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。』(申命記18:20-22) 神の名によってする預言は100パーセント完全でなければならないのです。 神はにせ預言者を石打ちにするよう命じました。 もちろん、新約の時代の私たちは誰も石打ちにはしませんが、その奉仕は石打ちにされるべきであり、みことばによってその奉仕からにせ預言者の身を引かせるべきです。 このふたつの原則 ●預言は歴史的なパターン ●100パーセント完全でなければならない ことを考えると、聖書全体が分かってきます。 なぜなら、新約聖書は旧約聖書の記述をもとにして書かれたのであって、旧約の預言の上に成り立っているものだからです。 だから、新約聖書は旧約聖書を解説しているものなのです。 だから「私は現代の預言者だから聖書と同等の権威を持っているとはいえません。 その教理に関しての権威は使徒の12人+パウロが持っていました。 パウロは「書かれてあることを越えない」(1コリント4:6)ことや、「この手紙に書いた私たちの支持に従わない者」(2テサロニケ3:14)がいたら注意せよとか、「私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい」(2テサロニケ2:15)と書いています。 パウロは自分たちの教えの権威を認めよと書いていたのです。それが使徒の権威です。 使徒とは基本的にバプテスマのヨハネのときから、イエスとともにいたものです。 パウロは例外ですが、実際にイエスが彼に自分を啓示しました。 新約聖書ではある人は預言の賜物が与えられていると書いています(1コリント12:10)、また預言することを熱心に求めなさいと書いています(1コリント14:1)。 また『預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。』(同14:3)とあります。 そしてそれを吟味するように命じています。 吟味とはそれが聖書全体の原則に沿っているか調べるということではないでしょうか。 アメリカのニューヨークにあるタイムズスクウェア教会の牧師でデイビッド・ウィルカーソンという人がいます。彼の教会は同時多発テロが起こる1ヶ月くらい前から、誰となく大きなことが起こると悟り、通常の礼拝を取りやめ祈ることだけに集中したそうです。 アメリカの現状と聖書の原則(バビロンが滅んだときなど)を照らし合わせた結果、そのような預言的な行動を起こしたのでしょう。 だから預言といっても、聖書の関係ないところから啓示が与えられることではなく、聖書から導き出されたものであるべきです。 ましてや、実現しないことを告げた預言者はにせ預言者です(ベニー・ヒンなど)。 そもそもベニー・ヒンの教えは聖書の原則に則していません。聖書はこの世に頼らない生き方、後にやってくる世に望みを置く生き方を勧めているのに、彼はこの世での繁栄、しるしや奇跡などを強調しています。僕の近くの神戸にもベニー・ヒンの「ミラクルクルセード」が来ました。 イエスはそのようなことはせず、福音をのべつたえて、それにしるしが伴いました。 だからその人の教えが間違っていると、預言も自ずと間違ったものになります。 ペテロはこう書いています。 『それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。』(2ペテロ1:20-21) ペテロは「にせ預言者」と「にせ教師」を同じように書きました。 にせ教師はにせ預言者になってしまいます。 私たちも注意しなくてはいけません。 最後に、僕自身が体験したことを書きたいと思います 『しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。』(1コリント14:24-25) 教会にまだ信じていないときに行っていたころ、僕を信仰に導いてくれた人が聖書から語っていました。 メッセージはシンプルで、罪の邪悪さと神の聖さと正しさを語っていたのですが、 そこで実際に出された例が、僕自身にぴったり当てはまっていて、自分の罪が示されて秘密があらわになりました。 その人は特に「主の御名によって言います」と言っていたわけではありませんが、なぜここまで自分のことを聖書の神は知っているんだと驚きました。 「あなたは罪深い」というメッセージをされているだけなのに、これは真実だという確信があって笑顔になっていたのを覚えています。 聖書からみことばをはっきりと語っていると、預言は知らず知らずのうちになされるものではないでしょうか。 こう考えると、僕にも皆さんにも預言は遠く離れたことではなく、自分の聖書と共にあるという実感が湧きませんか。 自分を大きく見せたり、アピールするわけではなく、へりくだって神さまの言うことを素直に語るとき、聖書自体が預言であり、私たちひとりひとりも預言者のように用いられるのではないしょうか。
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