だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

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『あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、
神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。
あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。ですから…』ヘブル5:11-6:1


このごろいろいろなことがあったので、神さまから教えられたことを書きたいと思います。

この箇所は手紙の著者が読み手を叱責している箇所です。

神のことばの初歩」また「」とはこの箇所を読み進めていけば分かる通り、


●死んだ行ないからの回心
●神に対する信仰
●きよめの洗いについての教え
●手を置く儀式
●死者の復活
●とこしえのさばきなど (ヘブル6:1-2)


です。


年数からすれば教師になっていていなければならないのに。

この言葉が私たちに教えてくれていることは、クリスチャンは年数が経てば成長するべきだということです。
赤ちゃんは10年も寝転がって、ミルクを飲んでいるだけではなくて、ハイハイすることを覚えて、生えてきた歯を使ってかんで食べることを覚えないといけません。
同じようにクリスチャンも新生を経験してから、乳から堅い食物を食べれるようになれないといけないと教えられています。


でもそれにはしっかりとした順番があって、まず上に挙げた神のことばの初歩をしっかり学んだ後に、堅い食物に挑戦するべきなのでしょう。


では堅い食物とは何なのでしょうか?


それはこの箇所を読むと

『おとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物』

とあります。


これについてこのごろ痛烈に教えられたので、分かち合いたいと思います。


まず、僕はどんな人間であるかというと、

もちろん、クリスチャンになる前は希望も目的もなく生きていたのですが、
クリスチャンになってからは、絶対聖書に従った人生を送りたいと願っていました。
だから、聖書を読んで読んでクリスチャンになると決めたときには半年ほどで聖書を一回通読していました。
今では救われて3年半くらいたっているのですが、聖書通読できた回数は5回です。
特に回数を重ねたからどうということはありませんが、(またそれを誇ってもいけないんですが、誇るほどにも多くないのかもしれませんが)聖書に妥協した人にはなりたくないというのが一番の願いでした。

そういう人間なので、不器用で、まっすぐにしか進めませんでした。

大学では商学部に入ったのですが、聖書的にどうやってビジネスをしたら良いのかを結構悩み、初めのほうはこんなん学んでもしょうがないんじゃないのかとか思い、授業を多くさぼっていました。(それは間違っていたと後になって気付いたのですが)

またどうやってこの世のものとならずに、この世で生きていけば良いのかがさっぱりと言って良いほど、わかりませんでした。

近づきすぎたら染まってしまいそうだし、遠すぎればこの世から出ないといけなくなるし。

イエスがヨハネの福音書で

『彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします』(ヨハネ17:15)

と祈った言葉は僕にはとても大切な言葉だと受け取れたのですが、同時に不可思議なことばでもありました。



そうこうしているうちに日本人が「就職活動」と呼ぶものに直面しました。
しかし、その時期になってもどうやって人のしもべにならずに、神さまのしもべとして日本の社会の中で生きていけるのかという疑問でいっぱいでした。


どの人の言葉を聞くべきなのか。

クリスチャンでない人の意見はどこまで信用できるのか。

なぜ神さまを信じていず、本当に大切なことに目を向けている人がこの世をうまく渡っていけるのか。



これらの疑問で僕の頭はいっぱいでした。

しかし、やはり答えは聖書の中にありました。


『堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です』(ヘブル5:14)


今でも僕が確信を持って言えることは、神さまの福音や聖書を受け入れない人、唯一の救いの道を退ける人は死後に救われないということです。
それこそ、回心と信仰がなければどんな人であってもとこしえのさばきに遭います。

これは世がどう言おうとも絶対に譲れないことです。


しかし、この世にものとならずに、この世で生きていくために知恵が必要だということに気付かされました。


その知恵をどこで得るのでしょうか?


まず第一に神のことばである聖書でしょう。


次にその基礎の上に、未信者であっても、いろいろな周りの人からこの世のことを教わるべきだと思いました。

もし、聖書の基礎なしに世の人に教わってしまったら、どんなクリスチャンになってしまうでしょう。

「あ〜聖書はそう言ってるけど、こういう風にしたほうが要領がいいよ」

とか

「聖書の言うことは分かるけど、そのままばかみたいに信じてもいけないでしょう」

というようになってしまうことが想像できます。



なので、物事(確実にたましいの救いはその中に含まれませんが)を学ぶときに、

どれが良い物で、どれが悪い物かを見分ける力が必要になってこないでしょうか。



聖書の中で食べることは信じることと同じです。


なので乳を飲むということは、初歩の教えを信じること。

堅い食物を食べるとは、堅い食物のようなものを信じることです。



何を信じていいのでしょうか。


子どもに細かい骨のいっぱいある魚をあげないように、
まだ「食べれないもの」と食べれるものを区別して、選別できるようになるまでは
子どもにそれをあげるのは虐待であり、時にかなっていないことでしょう。

また、ステーキは体力がつくからといって赤ちゃんにあげても、
それを噛んでやわらかくする力がないうちは、意味のないというよりか、害のあることではないでしょうか。

でも成長したら、乳ばかり飲んでいるのは異常なことです。


だから同じようにクリスチャンも、良い物と悪い物が分かるようになったら、それに気をつけながら世のことを学ぶべきだと教えられました。



例えばこのごろ父親に渡された本の著者はダーウィンは最大の賢者だと言っていました。

でも、聖書から見ると彼のように無神論を広め、人を創造主から遠ざけるのに貢献した人はいないでしょう。

だから、神さまの目から見るとその罪は大きなものだと思います。


それだからといって、その本を退けていいのかというふうに僕は考えました。


この世に偽りの教えがどこを向いても存在するからといって、この世から出ることは明らかに神さまのみこころではないことが分かります。

ならどう生きていくかというと、良い物と悪い物を経験によって見分ける感覚を身に付けることではないでしょうか。


まだまだクリスチャンの幼子ですが、その感覚を身に付けて、世において鳩のように素直に、蛇のようにさとく生きていきたいです。


不器用でも、神さまは見放されないということも気付きました。



他の人からの忠告、たとえそれが未信者であっても、神さまはその人たちを使って忠告を与えられることを学びました。

このごろそういうことがあり、自分の小ささがわかり、何かを書くのも恥ずかしいくらいです。



でも、僕の失敗を読んで、誰かが僕と同じ失敗を避けれるといいなと思うので、こういうことを書きます。

誰かの役に立てれば幸いです。

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