だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

「文脈に力ありき」

このごろ考えてたこと。


テーマは   「文脈に力ありき」



何のことかというと、これも聖書に関して。

聖書は他の本と変わらず、文字が並んでいる本。

では、他の本と違う点を作っているのは何かというと、聖書の文脈(内容)です。
別に今さら言う必要も無いようなことなのですが、このことは真実でまた、深みがある真実だと思います。

文脈とは辞書で調べると

1 文章の流れの中にある意味内容のつながりぐあい。多くは、文と文の論理的関係、語と語の意味的関連の中にある。文章の筋道。文の脈絡。コンテクスト。「―で語の意味も変わる」「―をたどる」

2 一般に、物事の筋道。また、物事の背景。「政治改革の―でながめると」

(大辞泉より)


このようにあります。


「文と文の論理的関係」「語と語の意味的関連」


聖書を聖書にならしめているのがこの文脈。

英語のcontextは背景という意味も持っていて、背景と文脈は似た関係にあるようです。


さて、この「文脈に力ありき」というテーマで何を言いたいかというと


聖書の読み方について、僕なりの意見を書こうと思います。



イエスがサタンに誘惑を受けに荒野に導かれたとき
サタンがしたことは「文脈からみことばを離す」という行為でした。



『さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。
そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。
その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。
そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」
また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」
イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」
また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。
「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」
するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。』(ルカ4:1−13)


●神の子であれば石をパンにする
●悪魔を拝むならこの世を与えられる
●神殿から飛び降りれば、御使いたちが守る

ひとつ目ならできそうなこと。
またふたつ目の「私に任されている」ことをイエスは否定することをしませんでした。
事実この世はサタンの下にあると他の箇所にあります。
三つ目は聖書に書かれている箇所を悪魔が引用。
しかし、イエスはそれより優先する箇所を示しました。

さて、文脈という問題を考えてみると、次のことが分かります

●聖書全体の文脈が大切


ひとつの聖書箇所があっても、それが聖書全体の文脈にそって語られなければ、悪魔でも使えるものとなるということです。


『『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです』


という箇所は確か詩篇からですが、イエスがその時に神の力を使ってそのようなことをするのは、聖書の文脈(背景)から外れていました。

なぜならダニエル9章にあるように、イエスは死ぬため、犠牲をささげるためにこの世に来たのであって、神の栄光と力を示すのは再臨のときだからです。
これは聖書全体でつらぬかれているテーマであり、イエスは「ヨセフの子」としてこの世に来ました。
「ダビデの子」として世を力をもって治めるのは、再臨の後です。


だから、ただサタンの引用した箇所だけを知っていて、他の個所、聖書全体を知らなければ多くのことを間違ってしまうということは確かでしょう。


だから聖書全体の文脈を知るためには、やはり

●聖書全体を通して読む

という基本的なことが大切なことですよね。


だから、聖書を部分的に読むことほど危険なことは無いと言って間違いないでしょう。


エホバの証人や末日聖徒キリスト教(モルモン教)などは、部分的に正しいことを言い、部分的に聖書的なことを教えていますが、それが聖書全体の文脈にかなっていないから、偽キリスト教と定義されます。


聖書を読んでいると何度も出てくるテーマがあります。

たとえば「主の日」、「バビロン」、「メシアの到来(ダビデの子)」など他にもあるでしょうけこのようなテーマは繰り返し出てきます。

「文脈に力ありき」ということが正しければ、そこから導き出せる結論は


●聖書に何度も出てくるテーマは大切


だということでしょう。何事でもふたりの証人によって確認されるという律法があったように
「ふたつの箇所」「みっつの箇所」によって支えられたテーマははっきりとした聖書のメッセージとなるります。

これはヘブライ語では

「ビンヤン・アブ・ムシュネ・ケトゥビーム」(ふたつ以上の箇所から論拠を作る)

といい、これはパウロの先生ガマリエルの祖父ヒレルが考案した聖書の読み方です。

これは七つの基準という中のひとつのルールです。
書簡で使徒たちもこの論理の組み立て方をしています。




「文脈に力ありき」というテーマ


まだまだ書くべきことがありそうな感じがしますが、今日は夜も遅いのでここらへんで

全1ページ

[1]


.
だいすけ
だいすけ
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(10)
  • aki
  • マタリー
  • インマヌエル
  • cot*****
  • まさとし
  • ジョンヤッシー
友だち一覧
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事