|
「信仰的に成長した」 この言葉をこのごろ考えています。 果たして、聖書について完全な知識をもって、解釈法を自分のものとし、 異端やリベラルに対して論理的な反論ができたとしたら、それは聖書的な成長なのかなと。 イエスさまの時代もちょっと前にヒレルという有名なラビがいて、 聖書解釈の原則をまとめ、ガマリエルやその他の著名なラビたちがいたのに、イエスは受け入れられませんでした。 聖書の原語を話し、聖書解釈もかなり正しかったのに、なぜ… クリスチャンにとっての一番の成長とは 「イエスさまのためにどれだけ犠牲を払えるか」 だと僕は思います。もちろん、聖書解釈は必要で、知識に何も悪いことがないのですが 「それをもって何をするのか」「何を目標とするのか」 ということが大事だと思います。 日常生活で、高慢になって罪の中を歩んでいるのなら意味がない!と思い 日々僕が反省させられています。 例えば聖書の中で「パン種」が「誇り、罪、偽りの教え」を表しているのを分かっても 「パン種を取り除きなさい」 言いかえると 「(自分の)誇り、罪、偽りの教えを取り除きなさい」 と言われていることを知るが、それに従わなかったらどうなってしまうのでしょう。 その知識は実際の信仰生活に活かさなければ意味がないのです。 これは僕自身にとって痛い事実です。 よく家にいて、リビングのパソコンを触っていると 母親が話しかけてきても、僕はふたつのことに集中できない性格なので 無視してしまうことがよくあります。 このごろ「これって聖書に書いてある”してはいけないこと”じゃないか」 と思うようになりました。 イエスさまがパリサイ人たちを非難されたとき、 「父母に上げるものを”コルバン(神へのささげ物)”になりました、と言っているが、 そうして父母に何もしないようにしている」と言われました。(マルコ7章) 言いかえると 「これは神さまへのささげ物だから、お父さんお母さんには何もしてあげられないよ」 ということでしょう。 それは 「今神さまのために仕事をしているから、かまってあげられないよ」 ということと同じではないでしょうか。 僕はパリサイ人や律法学者たちと同じことをしていたのです! みことばに従うということは何と難しいことでしょうか。 どれだけ、自分を否定して、歩んでいく必要があるんでしょうか。 学べば学ぶほど、へりくだる必要が出てきて、できない自分・反抗的な自分がいることに気付きます。 また聖書学者になることは何て恐ろしいことなんだ、と思ってきました(ある意味で)。 それは知識を増やしながら、高ぶらないという偉業を成し遂げないといけないからです。 みことばは口に甘く、腹に苦いんですね。 いろいろな誘惑があり、困難があります。 ときどきつまづきそうになります。神さまが自分のことを何も見ていないという気になります。 どうか祈りにおいて、お助けください。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2009年07月26日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



