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このごろ考えること… モリエルミニストリーズという、しっかりと聖書に立ったメシアニックの団体を知ることができて、本当に幸せだなととても感謝なんです。 僕はもちろんヘブライ語を読めるわけでも、話せるわけでもありませんが、ジェイコブという鋭い洞察力を持ったユダヤ人クリスチャンにいろいろ教えてもらって、聖書の中身があたかも白黒から色がついたみたいに、はっきりと具体的に分かるようになりました。 もちろん、まだ分からないところはたくさんありますが、僕はジェイコブの説教を聞いて「この人ほど聖書を知ってる人はいないぞ」と本当に驚きました。 まさに聖書に 『もし彼ら(イスラエル人)の違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。』ローマ11:12 とあるとおりです。 イスラエル人(ユダヤ人)がクリスチャンになると、今まで異邦人には意味不明だった聖書の箇所が息を吹き返します。 たとえば時間の概念を挙げると、 ギリシア人は「アルファからオメガまで、時間は直線で始まりと終わりがある」 東洋人は「時間は円であり、すべてのものが循環している(たとえば輪廻、日本の干支、季節)始まりがなく終わりがない」 しかしユダヤ人は「時間は始まりがあって終わりがある。しかしそれは円を描きながらスパイラルのように進む(言い換えると同じことが何度も起こる)」 このように考えるらしいです。 私たち日本のクリスチャンは西洋と東洋の影響をどちらも受けていますが、聖書の読み方は西洋の影響をとても強く受けているんじゃないでしょうか。 上のように考えると、同じことが何度も繰り返し、終わりがあるのです。 これはまさに聖書にいえることでしょう! 『小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリスト(the antichrist)の来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリスト(antichrists)が現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。』(1ヨハネ2:18) 反キリストの現れるときには ●パロの魔術師がモーセとアロンの奇跡を真似たように、キリストの奇跡を真似(黙示録13章) ●ダニエル書(8章)にあるようにアンティオコス・エピファネスがそむきの罪をささげたように(豚を神殿でほふった)、神殿を汚し(教会も実際のエルサレムの神殿をも) ●皇帝アウグストのように人口調査をし、ヘロデのようにキリストを抹殺しようとし(黙示録13章、19:19) ●イスカリオテのユダのように、貧しい人を気遣っているように見せ、本当はお金に目がくらんでいるもので、ユダのように教会から出ていくものです(1ヨハネ2:19) これら反キリストの象徴は、来るべき一人の反キリストについて予兆しています。 だから、これらの人がどんな人だったかを学べば、実際に来る反キリストも見分けられるということです。 同じパターンが繰り返され、終わりは確かにあるのです。 このようなユダヤ人的視点を持って、聖書を読めることはなんて幸いなんでしょうか!(もちろん、知るだけではいけませんが) また益を受けたことは、もちろんヘブライ語(原語)の知識です。 ジェイコブはよく、「ヒレルが考案した七つのミドロット」と言いますが、その中にこんな原則があります。 ●「同じ範疇」聖書の二箇所で同じ語句が用いられている場合、二つのうち文脈からその語句の意味が(より)明瞭な箇所によって、もう一方の(必ずしも意味の明瞭でない)箇所を解釈することにより、両者に同じ解釈を施す。 『初期ユダヤ教と聖書』(土岐健治著)より 日本語では難しく書いてありますが、つまり、ある語句が使われている文脈によって、その同じ語句が使われている箇所もわかるということです。 例を挙げると、 『あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱(メズザー)と、かもいに、それをつける。』出エジプト12:5−7 これは過越のときのいけにえの羊に関しての箇所ですが、新約には 『私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです』1コリント5:7 とあり、あきらかに過越の子羊はキリストの象徴です。 またその血が塗られた門柱とかもいは十字架の象徴ではないでしょうか。 この門柱と訳されている言葉「メズザー」に注目してコンコーダンス(語句辞典)を見ると 『しかし、もし、その奴隷(買い取った奴隷)が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱(メズザー)のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。』出エジプト21:5−6 『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。』(1コリント6:20)にあるように、私たちは買い取られました。 そして自由になって今は自分の意思で善悪を選択することができます。 しかし本当にキリストの弟子となるためには 『自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません』(ルカ14:27)とあるように、十字架を負わないといけないのです。 またパウロは『この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです』(ガラテヤ6:14)と言いました。 なので、本当に主人に 『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と、はっきり言うなら、…十字架のところに連れて行かれ、刺し通されなければならないのです! 自分の夢、欲望、人間的な計画を捨てて、キリストのように歩むということでしょう。なんと難しいことなんでしょうか。 またこの「メズザー」という語句が使われている箇所を見ると十字架と密接に関係があります(箴言8:34、イザヤ57:8)。 もうひとつ例を挙げると、 『しかしサムソンは真夜中まで寝て、真夜中に起き上がり、町の門のとびらと、二本の門柱(メズザー)をつかんで、かんぬきごと引き抜き、それを肩にかついで、ヘブロンに面する山の頂へ運んで行った』 ここはサムソンがまた遊女におぼれ、外には敵が彼を囲んでいた状況でした。 私たちがいつもの罪に陥って、危機的になったときにどうしたら良いかが書かれています。 『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』(ルカ9:23) サムソンは十字架の象徴である門柱をかついで(イエスのように)山に登りました! これは普段犯し続ける罪のために危機を招いても、すぐさま十字架を取り「自分は十字架につけられている。だから罪のうちを歩まず、みことばの通り、さまざまな苦難があるとしても神さまに全面的に信頼して歩もうではないか」と決意することじゃないでしょうか。 (この詳細は翻訳説教「メズザー1」 http://www.moriel.org/Teaching/Online/Mezuzot/Mezuzot_Part_1-Japanese.pdf 「メズザー2」 http://www.moriel.org/Teaching/Online/Mezuzot/Mezuzot_Part_2-Japanese.pdf に書いてあります) このように、ヘブライ的な読み方をすると聖書の難しい箇所も具体的に分かってきませんか? 上でしたように同じヘブライ語、ギリシア語の語句を調べるなら 日本語のものでは 口語訳で「メズザー(Mezuzah)」は 「柱、門柱、脇柱」 と訳されています。なので、その言葉をひとつひとつ調べて総合して考えるとひとつの絵が出来上がります。 もちろん、聖書は文脈を無視してはいけませんから、文脈から外れていればメズザー=十字架の象徴とは簡単には言えない箇所もあります。 これが新改訳や新共同訳のコンコーダンスだと、ヘブライ語やギリシア語の原語が書いてなく、日本語の語句を中心に書かれています。 でも同じ「柱」と訳されているものでも原語を見ると 「ge'uth, mezuzah, matstebah, matsuq, 'ammud, shath, timroth」といったように様々なヘブライ語から同じ「柱」という日本語に訳されています。 日本語よりも、原語で調べられる物のほうが有益だと僕は思います。 僕が日本語で「僕、おれ、私、おいら、あい、わし、おら」と言っても英語では「I(アイ)」と訳されるだけでしょう。 基本的には同じかもしれませんが、その言葉を使って表したい気持ちなどは一切くみ取れないことになります。 これはヘブライ語、アラム語、ギリシア語で書かれた聖書にも言えることではないでしょうか。 それらの原語が第一優先であって、日本語などは二番目です。 長くなりましたが、感想なんかあればコメントしてくださいね^^
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2009年09月15日
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