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今日また大阪梅田にあるいのちのことば社に行ってきました。 いつも何かを買うと、月刊いのちのことばという冊子がついてきます。 その内容は多かれ少なかれ、日本のクリスチャンの考えを反映していると言えるでしょう。(いのちのことば社がキリスト教書店としては大きいため) 僕はいのちのことば社に感謝しています。 聖書的な本を出版してくれて、新改訳も出してくれて、いろいろなことがいのちのことば社さんによってなされたと思います。 でも少しこの月刊誌の内容について、疑問・懸念があります。 まあ一読者の意見として読んでみてください。 以下は9月号に掲載された関根祐仁さんの文章です(太字は僕が付けました) 『我らキリスト者も「預言」を旧約時代から見たキリスト来臨と終末の予告と捉える傾向があります。しかし、旧約預言書全体でそれら先々の予告が占める割合は数パーセント。むしろ預言書は当時の北イスラエルと南ユダ、さらには周辺諸国の差し迫った将来を告げ、我々から見ればすでに過去の出来事が記録の中心なのです。』(『いのちのことば 9月』文学ジャンル別聖書の読み方ガイドよりp.20) また11月号では 『旧約預言と第二の意味 新約聖書記者による旧約引用の例は多く、中にはある聖句に、オリジナルとは全く異なる第二の意味を持たせている場合があります。旧約聖書記者を霊感してみことばお書き留めさせた聖霊は、通常の文脈、意図、文体、用語使用を飛び越え、新約聖書記者をも霊感することができたのです。預言書にもその例があるのでご紹介しましょう。ホセア11・1「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した」。ホセア書における文脈は、出エジプトという方法によるエジプトからのイスラエルの救いで、その意図は、いかに神がご自身の子としてイスラエルを愛したかを示すこと。…(中略)…この旧約聖句の「明らかな」意味によっては、キリストへの言及はなく、んここはキリスト預言とはなりません。しかし、マタイは、ホセアを霊感した同じ聖霊により、別の文脈でメシア預言としてこの聖句を用い、全く新しい意味を与えたのです。』(『いのちのことば 11月』文学ジャンル別聖書の読み方ガイドよりp.21) どう思われましたか? 僕が思ったのは、このような読み方をしてしまっていたら、旧約聖書と新約聖書のつながりを無視してしまうんじゃないかと懸念を抱きました。 なぜなら「通常の文脈、意図、文体、用語使用を飛び越え」新約は引用していると考えてしまうからです。 まず最初の文章を取り上げると、 僕が引っ掛かった点は、預言はキリスト来臨と終末の予告と捉える傾向があるがそれは全体において少ないという点です。 また将来に関しての預言は「数パーセント」だと言ってしまっています。 (僕は将来に関して、終わりに関して、再臨に関して、千年王国に関しての記述のほうが多いと思います。例…イエスが語られた「主の日」は至るところに登場します) これはユダヤ的な預言の考えをないがしろにしてしまった結果ではないでしょうか。 ユダヤ的な預言の考えは『古代のユダヤ人にとって預言は、予告されて成就するというものではありません。むしろ、彼らにとって預言とは、繰り返すパターンだったのです。預言が複数の成就を持つということです。そして、それぞれの成就、それぞれのサイクルは最終的な成就について教えている』(「ミドラッシュ」より)のです。 なので、アッシリアの到来、バビロン捕囚、周辺諸国の滅亡によって、終わりの時代である今何が起こるかが前もって示されています。 もちろん、歴史的・文法的な意味においては過去のことですが、将来に関する預言ではないというのはどうでしょうか。 ではもし将来に関する預言は数パーセントと言ってしまうと、どうなるのでしょうか? その結果は、「預言を学ぶ意欲をそぐ」ということにならないでしょうか。 「預言なんて全部過去のことなんだから」 「それを読むより、今の生活に関することのほうが大事」 となってしまい、聖書より誰かが書いたハウツー本に頼ることになってしまわないでしょうか。 これは僕の懸念です。 古代ユダヤ的な読み方から外れてしまうと、間違った方向に行ってしまうのは避けられないことでしょう。 11月号の記事について考えてみると、驚くことにジェイコブ・プラッシュが書いたそのままのことが起こっています。 「ミドラッシュ」より http://www.moriel.org/Teaching/Online/Midrash/midrash_jap.pdf 『ホセア11章はモーセに関して起きたこと、出エジプトのことを語っているのです。文法的・史実的な文脈において、メシアのことではなく、出エジプトのことを語っています。しかし、マタイはすべての可能な文脈から一節を取って、イエスに合わせてゆがめているように見えます。果たしてマタイが間違っているのでしょうか?それとも、プロテスタントの聖書の解釈の仕方に問題があるのでしょうか?』 『マタイにも、新約聖書にも何も問題はありません。プロテスタントの考え方に問題があるのです。ユダヤ的な預言の考えは、予告ではなく、パターンです。アブラハムがエジプトを出て、パロは裁かれました。彼の子孫もエジプトを出て、邪悪な王が裁かれました。そして、また別の邪悪な王が裁かれ、メシアがエジプトを出ました。預言には複数の成就があるのです。ミドラッシュ的には、「イスラエル」がメシアであるイェシュア(イエス)を暗に示しています。「イスラエルはわたしの栄光、わたしの長子」というような箇所を見つけたなら、ミドラッシュ的な隠喩なのです。』 ルーツであるイスラエルから離れてしまうと読み方にかなり影響が出てくると思います。 「通常の文脈、意図、文体、用語使用を飛び越え」新約が旧約を引用したと考えると、どうなるでしょうか? 多くの箇所において新約が旧約を解き明かしていることに気付かず、旧約聖書から現代への預言の適用ができず、引用されている箇所を読んでも「?」で終わるんではないでしょうか。 ですが実際、新約聖書が旧約を引用している方法を見ることによって多くのことが学べます(1世紀のクリスチャンが旧約聖書をどう解釈していたかについて)。 このことを書くのはただ批判したいんじゃなくて、日本のクリスチャンが旧約を読まないと言われている原因の大きなものがこういった文章に現れていると考えるからです。 この方がこれを書いたから、ではなく、 この方がこれを書いていのちのことば社の月刊の冊子に載っているということが、 日本の状態を表していると思います。 僕は何者でも、何の肩書もありませんが 聖書によると、「公に教える人は、公に吟味され、非難されるべき」(ガラテヤ2:11−14)なのでこういうことを書こうと思いました。 いのちのことば社が良い方向に進んでくださることを願います。 聖書が現代の私たちのために書いてあること(1コリント9:10、10:11など)をいつも思い出しながら、終わりの時代である現代について賢い乙女のように、時をわきまえておくことが必要なんじゃないでしょうか。 聖書のみことばが現代の中東に関して預言していることを知ると、本当に誰もが驚くと思います。 (例…イラン、ロシアとイスラエルの関係[エゼキエル38・39章]。イスラエルの建国[エレミヤ16:14−21]。イスラムの台頭。エルサレムの問題[ゼカリヤ12:3]など) (故高木慶太さんもこのことについて書いています→『近づいている世界の終焉』いのちのことば社) 私たちは終わりの時代、聖書が預言した時代にいます。 『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です』詩篇119:105
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2009年10月13日
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