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3.預言者たちのときと同じ状況? またある人はこう思うかもしれません 「どうやったら今の状況が預言者のときと同じ状況だっていえるんだい」 この問いに対する聖書の答えは次のことばです。 『昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。』伝道者1:9−10 これはミドラッシュの考えと密接につながっています。預言は繰り返すパターンです。 携帯電話、コンピューター、iPhone、などが古代に無くても、聖書のことばによると人間のしていることは同じです。 なので、逆に同じことを見つけないようとすることが、難しいと言えると思います。 エレミヤが「バビロン捕囚が来る。降伏しなければ滅びる」と語っていたことは、現代の日本人クリスチャンが語るべきことでもあると思います。 日本のクリスチャンはほとんど聖書を読まず、十数年もクリスチャンであっても聖書を一度も通読したことのない人が僕の知り合いではほとんどです。 どうして、聖書をあまり読みたくないんでしょうか。 僕はその理由がこれだと思います。 「信仰の基礎を他のところに置いているから」 たとえば人間の愛、教会の楽しさ、音楽奉仕、なんらかの奉仕から来る達成感。 これらのものは確実に無くなるものです。 この文章を読んでいる人で、このようなものを大切にする人は最後まで読み続けるのが苦痛だと思います。 なぜなら、こんな内容は人間的に言って楽しくはないからです。 教会内のみことばの欠如、それに伴う人間主義の流入、無神論に基づいた心理学の侵入。 人が中心の説教。テレビなどこの世の考えが入り込んでいる価値観。 一番の問題がクリスチャンが福音を伝えないということではないでしょうか。 なぜ、それによって永遠のいのちが与えられると信じる福音を伝えずにいられるんでしょうか。 僕を含む多くの人の問題は、福音がどのくらい力があるもので、生活を変える大きなものだということをまだ分かっていない点にあると思います。 僕は大学にいるときキャンパス内で、福音を伝えにベンチに座っている人たちにチラシをもって声をかけていました。 それを聞いたクリスチャンはただ「あなただから出来るんだよ」というばかりでした。 でもだれでもチラシは配れると思います。 また誰でも自分の持っている望みは説明できるべきです。 日本に福音が広まらないのは、私たちが広めてはいないからじゃないでしょうか。 (これは全体としての話で、個人について語っているのではありません) 聖書は他の民について語るまえに、神の民について語って、神の民を責めました。さばきはまず教会から始まります。 4.富んでいる日本 私たちは裕福な環境で生きて、必要以上のものを必要だと言っています。 「学歴がないといけない。地位がないといけない。」 このような考えが日本クリスチャンの間にも広まっているので、 学校、塾を大切にしてしまった結果、信仰から外れてしまう子どもたちが多いんじゃないでしょうか。 私たちは文化より、聖書のことばを大切にすべきです。 また聖書のことばに従うために、文化に反するということも多くの場合要求されることです。 アブラハムは父の家を出ろと言われました。 ルツは異邦の故郷を捨てて、イスラエルの民と神を愛しました。 私たちは気付かないところで日本文化に縛られているところがあると僕は思います。 特にこのごろ一人暮らしをして、テレビから離れる生活をしているので、たまに人の家でテレビを見るとびっくりします。 昨日は島田しんすけさんの番組で、かつみさゆりのかつみの浮気がテレビで流されていました。 あんなことはありえない!!とはっきり思いました。 あの人が浮気していたとしても、面白おかしくテレビで放映するのは間違っていると思います。 またこのごろのテレビは結婚してもすぐ別れろと、冗談で言い、 離婚があたかも何でもないようなことのように扱われています。 聖書は何と語っているでしょうか。 『「わたしは、離婚を憎む」とイスラエルの神、主は仰せられる』マラキ2:16 この世の価値観は正しいものから、ずいぶんと遠ざかっています。 しかし、テレビをずっと見続けていると感覚が鈍り、世の人が正しいように思うようになります。
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2009年11月14日
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このごろこのテーマについて考えていました。 「なぜ日本人は議論をすることが苦手なんだろう」 というのは、僕はよくオーストラリア人の宣教師と共にいて、 彼はためらうことなく「No」と言うし、すぐ「No」が相手に向かって言えるんです。 もちろん僕は日本人ですから、日本人特有の 「そうかな」「どうかな」「ちがうかな」 という言葉をよく使ってしまいます。 まあどちらの文化が正しいということもないんですが、 なぜ(僕を含む)日本人が意見をあいまいにしか言わないかを考えてみました。 ●意見が自分自身だと思っているから これは確かに言えると思います。 言いかえると、「自分の意見と、自分自身を切り離していない」 ということが言えると思います。 意見を否定されたら、自分自身が否定されたような気になる。 それが日本人の思考じゃないでしょうか。 ですが、欧米人は僕の感覚だと自分の意見と自分自身を切り離しているようです。 なぜなら、自分の意見が否定されても大して傷ついていないからです。 まあこれは僕の経験上でしかありませんが。 対してアジア人たちは礼儀を重んじて、恥の文化を持っています。 前ある人が欧米人は事物を切り離して、対象だけ見ると言っていました。 これはそうだなと思いました。 ここからが本題です。 1.聖書の考え方 では、聖書を伝えるとき、教えるときにどうしたら良いのでしょうか。 聖書の中の命令はその当時のその文化にしか適用できないものなのでしょうか。 たとえば、預言者は大胆に語るように命じられました。 『主の使いがエリヤに、「彼といっしょに降りて行け。彼を恐れてはならない」と言ったので、エリヤは立って、彼といっしょに王のところに下って行き、王に言った。「主はこう仰せられる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てにやったのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは、上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」』(2列王記1:15−16) これはほんの一例ですが、ここではエリヤは王の前に言って「あなたは他の神を頼ったので死ぬ」と神の言葉をそのまま告げたのです。 これは彼がヘブライ人だったから出来たのでしょうか? ヘブライ人が強烈な性格を持って、人の顔色を気にしなかったからこれが出来たのでしょうか。 A.地理的な要素 地理的にイスラエルを見ると南西にはアフリカ、北西にはヨーロッパ、北はロシア、東はアジア、南はアラブと、一番どの文化にも触れられるところに位置しています。 なので、詩編にあるようにイスラエルが世の真ん中にあるという言葉はある意味本当だと思います。 東にはアジア、西にはギリシア(ヨーロッパ文化の源泉)があり、その中間の価値観を持っていると思います。 なので、「日本人だからエリヤみたいなヘブライ人のように語れない」 というのはイスラエルの地理的な要素からして、無理がある議論だと思います。 B.預言者の役割 聖書を通して見てみると、真実の預言者は本当に大胆に語り、にせの預言者は人のことを気にして、やわらかいメッセージしか語っていなかったことがはっきり分かります。 たとえばエレミヤ書を取り上げてみると 『私(エレミヤ)は言った。 「ああ、神、主よ。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、ききんもあなたがたに起こらない。 かえって、わたしはこの所でまことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか。」 主は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。 わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。 彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。 』(エレミヤ14:13−14) 『彼ら(にせの預言者たち)は、わたしを侮る者に向かって、 『主はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言っており、また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」
いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。
だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。見よ。主の暴風、――憤り。――うずを巻く暴風が起こり、悪者の頭上にうずを巻く。』(エレミヤ23:17−19) 聖書の中では、神さまのことを気にするか、人のことを気にするかということが何度も問われています。 人のことを気にする人は、この上の箇所のように「主はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言っており、また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言います。 しかし神さまを気にする人は、神さまの善と悪、悲しまれていることを知って、同じように悲しみ、他の神から離れるように語ります。 私たちは礼儀を大切にするあまり、真実の神のことばをそのまま伝えていないんじゃないでしょうか。 私たちは文化を大切にするあまり、神さまの目からは滅んでいる人に「平安がある」言いかえると、「神さまと平安がある」としか言わないんじゃないでしょうか。 真実の神さまを信じない人は生きていても死んでいます。 僕はこの前、友達を家に招いたとき福音の話をしていて友達が 「世界中の人が聖書を理解して、それを信じたら、おれも信じる」と言っていたので 「それは不可能ですよ。なぜならすべての人が聖書を理解してもプライドのためにほとんどの人は信じない」と言いました。 門は狭く、道はともに広いものではありません。また入っていく人も多くはありません。 本当にその人を愛しているなら、はっきりと語るべきです(特に福音については)。 『あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。』箴言27:5,6 2.私たちの言い訳 私たちはよく言い訳をしてしまいます。 「彼らは主に選ばれた預言者だったから、そんなに大胆に語って良かったんだ」 この主張は正しいのでしょうか? 『あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。』エペソ2:20 私たちは使徒と預言者という土台の上に建てられています。 ということは、私たちの信じている事柄は使徒と預言者の土台によっているということです。 そしてその礎石がキリスト・イエスです。 土台の上に建てられているということは、彼らの「言葉」を基礎としているということじゃないでしょうか。なのでその言葉を基礎にして歩むべきでしょう。 その言葉とは「偶像に従ってはならない」や「殺してはならない」という言葉を基礎に生活していくことです。 そして預言者が大胆に語ったのと同じ状況で、私たちも大胆に語るということを含んでいることは確かです。 なぜなら、 「預言者が同じ状況でこの言葉を語った」 からです。 私たちが何かを新しく決めるんじゃなく、すでに定まっていることに対して「神さまはこう思っている」 と語ることが私たちには求められています。 私たちがさばくのではなく、神さまがすでにさばいたものを私たちが告げるべきです。 『御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』ヨハネ3:18 すでに未信者はさばかれています。 聖書ははっきりとこの箇所でそう告げています。だから私たちはできるだけはっきりと、またできるだけ早くこの事実を伝えるべきじゃないでしょうか。 私たちはさばきません。聖書がさばいている(判断している)ことをそのまま伝えるのです。 もし私たちがしっかり預言者の土台に建てられているなら、その預言者のさばきをそのまま私たちの生活に適用しない理由はありません。私たちに言い訳はできないのです。 (つづく)
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